君にだけ届く救難信号があったらいいのに
メーデー!メーデー!−1−
時刻は夜の十時を回ろうとしていた。
照明の落とされたオフィスの、ニールのいるデスクだけが明かりを灯していた。
カタカタというキーボードの音が、静かな室内に響いた。

一区切りしたところでキーボードから手を離し、固まった身体を伸ばした。
ことり、とデスクの上に缶コーヒーが置かれる。
視線を上げれば、ニールの直属の上司であるグラハムがそこにいた。

「部長…」
「仕事に精を出すのもいいが、あまり遅くまで残っているのは感心しないな。女性には危険な時間だ」

その、慣れない気の遣われ方に何と返してよいかわからず、とりあえずコーヒーの礼だけ言った。
喉を通るコーヒーの苦味が、目を覚まさせてくれる。

「会議の資料、作っておきたかったんで」
「家でやればよいものを」
「生憎、パソコンが機嫌を損ねてしまいまして」

運が悪かった。
大事な会議の資料を作らなければならなかったのに、よりにもよって家にあるパソコンが故障してしまった。
だから今頃修理工場の中だ。

「それにしたって会議は来週だろう?今からそんなに焦ることもない」
「時間、作っておきたかったんで」
「…それは、例の年下の彼の為かい?」
「……」

否定する理由もないが、グラハムを前にして肯定するのも抵抗があった。
だから必然的に沈黙が生まれた。

今日は刹那もバイトで、会うことはない。
だからこの機会を逃すまいと思った。
今のうちにやるべきことをやっておけば、何も気にすることなく刹那と会うことが出来る。
刹那と一緒にいる間、ニールはなるべく仕事を持ち込まないようにしている。
それは、刹那がまだ実際の社会を知らない大学生で、自分の仕事を理由に彼に制限を設けさせることにニール自身が抵抗があるからだ。
刹那は気にしないと言うし、気にしなくていいとも言ってくれる。
けれど、甘えてはいけないと思っている。

それをすぐに見抜かれたことに、ニールは少なからず気分がよくなかった。
他人にプライベートの、しかも刹那とのことをあれこれ言われるのは好きじゃなかった。

「部長も、残業ですか」

これ以上話を広げたくなかった。
だから、無理矢理切り替えた。
そのことにグラハムも気付いたようで、肩を竦めていた。

「そんなところだよ。…まだ、かかりそうかい?」
「あとほんの少し、ですね」
「終わったら、一緒に夕食でもどうだい?」
「結構、です」
「私の奢りだ」
「……」

奢り、という言葉に安直にも心がぐらついた。
給料日前で、正直やりくりが厳しかった。
だが刹那という大事な恋人のいる手前、そう安々と首を縦に振りたくもない。

「心配しなくても、君の大事な彼に顔を向けられないようなことはしないさ」
「……」

エスパーか、エスパーなのか俺の上司は。
考えていることを先ほどから言い当てる男に対して、そんな疑問すら湧く。

「…じゃあ、ごちそうに、なります」

仕事上の付き合いだと思えばいい。
背に腹は変えられない。
今頃まだバイトをしているであろう恋人に、心の中で謝った。
ニールは、グラハム・エーカーという男が苦手であったが嫌いではなかった。
仕事は出来る。頭も良い。
仕事を共にする上で、申し分ない人間だった。
他の女性社員からすれば、そこに容姿も良くて女性に対する気遣いも素晴らしい、という点がプラスされるのであろうが、ニールはそこまでこの男に興味がなかった。
寧ろ、行き過ぎとも言えるフェミニストぶりと、少し過剰なスキンシップが苦手だった。

それでも、食事中は退屈だったり嫌悪感を感じることはなかった。
知識が幅広いこの男は、ニールを飽きさせなかった。
「この辺で、止めて下さい」
「こんな所でいいのかい?」

ニールは、自宅マンションの少し手前でグラハムに車を止めてもらった。
出来ることなら住んでる場所など知られたくない。
車が停止した所で、シートベルトを外した。

「どうも、ご馳走様でした」

車外へ出る前に、礼を言う。
礼を言う為に少し下げた頭を上げたニールの目に映ったのは、見たこともないような真剣な眼差しの、オトコの顔の上司だった。
瞬間、頭の中で警報が鳴った。
けれど、間に合わなかった。

気付いた時には唇にグラハムのそれが押し当てられていた。

「君が、好きだ」

低い声が、鼓膜を震わす。
全身に嫌悪感が走った。

「…っぃや、だ…!」

反射的に身体が動いて、相手の身体を突き飛ばした。
隙が出来た瞬間に、車の外へ飛び出してとにかく走ってマンションまで向かった。
入り口の自動ドアの前で止まって、必死で呼吸をした。

なんでだ?なんであんなことされた?
普通にメシ食って普通に会話してただけだ。
いや、あの男が、自分に好意に似たものを持っていたのは薄々知っていた。
それでも自分には刹那がいる。
だから、深く考える必要なんてないと思っていた。
だって言っていたのに。刹那に顔向け出来ないようなことはしないと。
なのに、何で。


刹那に、どんな顔をして、会えばいい?
他の男にキスをされて、それで、どうやって会えばいい?
天罰が下ったんだろうか、安々と食事を一緒に取ったことの。
部屋に帰って何度もうがいをした。無駄にシャワーも浴びまくった。
これでもかというくらい口を拭った。
それでも、感触が消えてくれることはなかった。


グラハムのひどく真剣な顔と刹那の顔とが交互に頭を過ぎって、寝ることが叶わなかった。
09.06.26 日記掲載

title by=テオ


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グラハムさんがバイキンのようだ。笑。