もしもこの世に神がいるのなら、ソイツはきっと悪魔のような心を持っているんだ
Lily−1−
雨が降っていた。 昨日の夜からずっとだ。 雨が降っても短時間で止むことの多いアイルランドでは、比較的珍しかった。 まるで、空が泣いているみたいだった。 兄が死んだ。 もう、十年以上顔を合わせていなかった。 理由は明白。俺が避けていたから。 双子なのに出来のいい兄に敬遠をしたのは、もう遠い昔、ガキの頃からだ。 家族が死んだ事故をきっかけに、俺は極力兄と関わらないように生きていた。 兄が生きていたのは知っていた。 ちょうど一年ほど前に、結婚式の招待状が送られて来た。 返事は出さなかった。 俺がいなくても式は順調に進んだことだろう。 その数ヵ月後に、今度は手紙が送られてきた。 新しい家族が出来ること。 時間があったら会いたいということ。 そして、妻と一緒に二人並んで立っている写真が一緒に入っていた。 兄の妻はどうやら中東系の人間らしかった。 国際結婚とは、我が兄ながらやるものだ。 褐色の肌に黒い癖毛。そして、赤褐色の眼が印象的だった。 兄とは対照的に、写真なのに無表情なのが可笑しかった。 けれどまだ薄い腹に添えられた手が、夫婦の幸せを象徴していた。 返事は、やっぱり出していなかった。 生きていたのは知っていたけど、俺にとってはいなかったも同然の兄だ。 だから、警察から死んだ、と聞かされても、あぁ、死んだのか、くらいにしか思わなかった。 この時はまだ、実感が沸かなかったのだ。 ただ少し気になったのは、遺された兄の妻と、そして時期的にもう産まれるだろう、子どもの存在だった。 兄の遺体が保管されているという病院に赴く。 雨はまだ降り続いていた。 受付で尋ねれば、担当だという人間が姿を現した。 地下に下り、どこか薄暗い通路を渡る。 そして、突き当りの部屋へ案内された。 空気が独特だった。 静まり返っているのに、ざわざわとした感覚に包まれる。 室内は何もなかった。 ただ真ん中に、寝袋のような塊が横たわるだけだった。 担当の人間が袋のジッパーを下げれば、そこには、自分と全く同じ顔をした人間が眠っていた。 「お間違い、ないでしょうか」 淡々とそう尋ねられる。 「間違いありません。兄です」 同じように、淡々と答える。 間違えようがなかった。だって、全く同じ顔なのだから。 滑稽なものだ。 十数年ぶりの再会が、こんな形だなんて。 十年以上も離れていたのに、こんなにもまだそっくりだなんて。 血の気を失った兄の顔は、ただ、綺麗だった。 「奥様にはもう、お会いになりましたか?」 「え?」 部屋を出た後、担当の人間にそう尋ねられたが、よく意味がわからなかった。 奥様、というと、兄の妻なのだろうが、会うわけがなかった。 「この病院にいらっしゃいますよ。つい昨日、お子さんがお生まれになって」 哀しい偶然だ。 同じ病院だったこともそうだし、同じ日に子どもが生まれてその父親が死んだのだ。 カミサマはどこまでも意地悪だ。 地上に上がり、担当の人間に教えられた通りの道順を歩く。 訪れた病棟では、生まれたばかりの命の泣き声が、そこかしこに響いていた。 一つの病室の前で立ち止まり、ネームプレートを見る。 「刹那・F・セイエイ=ディランディ」 兄の手紙にあった、兄の妻の名前だ。 ノックをすると、ドア越しに声が聞こえる。 女性のわりに低い声だ。 スライドドアを開ければ、ベッドの上には兄の手紙に同封してあった写真のままの女性がいた。 褐色の肌に黒い癖毛。そして、赤褐色の瞳。 その姿は静かで、でも存在感があって、一瞬、目を奪われた。 「ライル・ディランディだな」 彼女は俺の姿を見ても何一つ動揺することなく、俺の名前を口にする。 逆に驚いたのは俺の方だった。 「なんで、」 「お前の兄から聞かされていたからな。双子の弟がいたことは」 彼女は淡々と述べた。 違う。俺が言いたかったのはそれじゃなかった。 兄のことだ、俺のことは話しているに決まってると思った。 けれどそれでも、その双子の、そっくりの顔の人間が現れて、どうして彼女は微塵もうろたえることが なかったのだろう。 俺の姿を見て兄だと間違わなかったということは、彼女はもう兄の死を知っているはずなのだ。 だからこそ、何故。 彼女はもう受け入れてしまったのだろうか、兄の死を。 「兄にはもう会ったか?」 彼女のその問いに、すぐには答えられなかった。 自分の考えに意識を囚われていた。 「あ、えと、まぁ…」 「そうか。俺はまだなんだ。…よかったら、付き合ってくれるか?」 「え?」 「二度も兄の死に顔を見るのは嫌か?」 「いや、そういうわけじゃ…」 「じゃあ、頼む。この子にも、会わせてやりたいから」 そう言って、彼女は自分が座るベッドの隣の新生児用のベッドに目をやった。 そこには、この世に出て本当に間もない命が眠っていた。 赤ん坊を見る彼女の眼は、優しくもあり、そして、とても哀しげだった。 最初に来た通路をまた戻る。 彼女は赤ん坊を抱いて俺の数歩後ろを歩いていた。 突き当たりまで来た所で、一度後ろを振り返った。 「大丈夫、か?」 「あぁ」 彼女はやはり、躊躇いも見せずに返事をした。 重厚な扉を開ければ、そこには先ほどと同じように寝袋に入れられた塊が横たわっていた。 彼女は、一歩、また一歩、ゆっくりと兄に近づいた。 俺は赤ん坊を抱いて手が塞がった彼女の為にジッパーを下ろし、そして、入り口の近くまで戻った。 俺がその空間に入ってはいけないと思った。 「ニール」 ゆっくりと丁寧に、彼女が兄の名前を呼ぶ。 「産まれたぞ。お前と、俺の子どもだ。喜べ、女だぞ」 その声は優しさで溢れていた。 「お前の言うとおりになったな。洋服も、無駄にならずに済んだ」 彼女の声は止まることも震えることもなかった。 ただ、もう目を開くことのない兄に優しく語り掛けていた。 「…女の子が欲しいと言っていたんだ。買って来るものも全部女物で。名前まで決めて。 いつか嫁に行くんだぞと言ってやったら、泣かれた」 彼女は兄を見たまま、俺にそう話しかけた。 何も返せなかった。ただ、彼女の言葉に耳を傾けた。 「…死んだ原因は聞いたか?」 「…交通事故だって、聞いた。子どもを庇ったって…」 その話を聞いたとき、兄らしい、と思った。 きっと、まだ見ぬ自分の子どもと重ねてしまったのだろう。 いつもそうだ。兄は、自分が傷付くのを厭わない。 「馬鹿、だろう?自分の子どもですら抱いてないのに、他人の子どもを守って死んだんだ。 …あんなに、抱くのを楽しみにしていたのに」 少しだけ、彼女の声が小さくなった。 ただ、震えることはなかった。 俺は、ただ彼女の後姿を見つめた。 彼女の後姿は綺麗だった。 真っ直ぐに立ち、愛しげに子どもを抱いていた。 凛とする、というのは、こういうことなのだろうと思った。 「…ニール」 優しく、丁寧に兄の名前を呼ぶ彼女の声は、聞いていて心地よさすら感じた。 彼女はあと何回兄に呼びかけることが出来るのだろう。 彼女は自分の腕に納まっていた子どもを、ゆっくりと兄の冷たい胸の上に寝そべらせた。 転げ落ちないように、そっと手を添えて。 この部屋に入って最初に感じた異質な空間はそこにはなかった。 ただ、愛しさを全て注ぎ込まれたような、そんな哀しい空間が出来ていた。 赤ん坊は兄の冷たさに驚いたのか、泣き叫び始めた。 初めて室内の静寂が破られたけれど、それすらも虚しさを感じた。 彼女は赤ん坊を抱き上げてあやしていた。 「お前のせいで泣いたじゃないか、どうしてくれる。せっかく、抱かせてやってるのに。 …馬鹿だなお前は。そんなに冷たいから、シリルが驚いてしまっただろう」 赤ん坊の泣き声は母親の腕の中で少しずつ小さくなっていった。 「…馬鹿だな、本当にお前は。 救いようのない、馬鹿だ…」 涙は見えなかった。 ただ、その真っ直ぐな声が震えたのは確かだった。 彼女の細い肩が、より頼りなく、壊れそうなものに見えた。 彼女はきっと、兄の死を受け入れてなどいなかったのだ。 けれど、本能でそれを受け入れなければならない事実として理解してしまっていた。 それは彼女本来の気質か、それとも母親としての責任か。 怖かったのだろう、一人で兄の死に直面するのが。だから俺に付き添わせた。 それはきっと、真っ直ぐな彼女の中の、ほんの小さな弱さなのだろう。 外はきっとまだ雨が降っているのだろう。 泣かない、彼女の代わりに。 細い肩を震わせる彼女を見て、じわりじわりと、兄が死んだのだというその事実が俺の心に 染み出していた。 ようやく理解したのだ。 俺が何を失くしたのかも。 そして、兄が何を置いて逝ったのかも。 乾いてひび割れた胸の奥底で、兄はどこまでも馬鹿なのだという、その小さな憤りが生まれていた。 赤ん坊を抱き事実に耐える彼女は、やはり、綺麗だった。 触れてしまえば折れそうな、けれど、真っ直ぐな立ち姿。 (それは、まるで百合のような、) 09.09.06 09.11.13 加筆修正 |