真っ直ぐなその瞳が、曇ることのないように
Lily−2−
兄の葬儀には多くの人間が現れた。 兄は、俺の記憶の中のまま、人当たりのよい、誰からも慕われる人間だったようだ。 誰もが遺された妻と子どもの行く末を案じていた。 彼女は、そんな懸念を払拭させるように、ただ真っ直ぐに立っていた。 涙はやはり見えなかった。 周りはそんな彼女を立派だと言っていた。 雨はやはり、降り続いていた。 葬儀が一通り済み、訪れた人間はほとんど姿を消した。 彼女は一人残って兄の墓の前に立っていた。 「…これから、どうするつもりなんだ?」 彼女からすぐに返事が来ることはなかった。 「…さぁな。けれどとりあえず、仕事を見つけて死なない程度に食べて行くつもりだ。 この子に不自由はさせたくはないからな」 そう言って彼女は腕の中の赤ん坊を優しく見つめた。 雨は降り続いている。 彼女が泣かない代わりに。 じゃあこの雨が止んだら、彼女の涙はどこへ行くのだろう。 行き場のなくなった彼女の哀しみは、どうなってしまうのだろう。 「色々、世話になったな」 「え、いや…俺は、何も…」 「墓地とかの手配をしてくれたのはお前だろう。助かった。 俺は、こっちの葬式の仕方に詳しくはないから」 こちらに来てそれほど年月は経っていないのだろう。 彼女の発言からはそのことが容易に想像出来た。 兄とどこで出会ったかは知らない。 それは兄の手紙には書いてはいなかったから。 ただ、中東の出の彼女には、ここでは頼れるものが何一つないのだ。 それは憶測だが、きっと、間違いではないだろう。 「ありがとう、ライル・ディランディ」 そう言って、彼女は小さく笑った。 雨はまだ降り続いている。 けれど、彼女は笑った。 彼女は真っ直ぐな姿勢のまま、俺を横切ろうとした。 彼女はこれから、何も後ろ盾のない状態で生きていくのだ。 産まれたばかりの子どもを抱えて。 俺が家族を失くしたときはどうしてた? そうだ、その時はもうスクールの寄宿舎に入っていたから、身辺の心配はしなくてよかった。 後見人には叔父がなってくれた。 けれど、彼女は違う。 これからたった一人で、全てを守っていかなければいかないのだ。 何もない。何も持っていないのに。 それで、いいのか? 彼女をたった一人にして。 たった一人で、全てを背負わせて。 全部、抱えきれなくなったらどうなる? その強さが、ある日粉々に壊れたら? 全て、投げ出してしまったら? あの凛とした美しさが、瓦解してまったら―――? 「…っ」 ほとんど、無意識に近い状態だった。 立ち去ろうとする彼女の細い腕を掴んだ。 彼女は目を丸めて、俺を見ていた。 「何だ…?」 「…ぁ、」 口を開いて言葉を発しようとしたところで、止まった。 何を、言うつもりなんだ、俺は。 俺に何が出来る?今まで音信不通だった人間がいきなり現れて、それで、彼女に何をしてやれる? それこそ滑稽だ。 兄の代わりにでもなろうってのか。 あれだけ兄と比べられることを拒んでいたのに。 最低だ。そんな虫のいい話があるか。 一気に滲み出した思考に囚われ、俺は、掴んだ彼女の腕を放した。 「…悪い、何でも、ない」 「…そうか」 彼女はそうして一瞥もせず、真っ直ぐに前を向いて、歩いていった。 何も掴まなかった俺の手には、ただ彼女の腕の細さの感触だけが、いつまでも残っていた。 雨は、やっぱり止まなかった。 それから一ヶ月がいつの間にか過ぎ去った。 その一ヶ月間俺はどうやって生活してたか、いまいちよく覚えていなかった。 ただ、今もこうして普通に仕事をしているわけだから、最低限の生活は送っていたのだろう。 あれから、彼女とは一切連絡を取っていない。 彼女の腕を取らなかったというその選択が、俺にその行動を起こさせなかった。 今更会ってどうなる? 何かしてやれるのか? そんな思考が、いつまでもいつまでも纏わり付いて離れなかった。 「ライル、おいライルっ」 急かすように名前を呼ばれ、顔を上げる。 「クラウス…」 「さっきから何度も呼んでたんだけどな。この間の会議記録、出来たのか?」 「あ、いやまだ…」 俺がそう言うと、クラウスは呆れたようにため息を吐いた。 「どうかしたのか、お前。この頃変だぞ。やっぱり、お兄さんが亡くなったのショックだったか」 「や、別にそういうわけじゃ…。悪い、すぐやるよ」 兄が亡くなったこと自体は、俺の中ですんなりと受け入れられた。 俺の胸を占めているのは、兄が遺したものだ。 「…今日暇か?久しぶりに飲みにでも行くか」 「…いいな、そうするか」 クラウスはいい奴だ。 俺はいつもこいつの気遣いに助けられている気がする。 仕事を終えて、クラウスと一緒に会社を出ようとする。 エントランスに出たところで、外で雨が降っていることに気付いた。 「タイミング悪いな。まぁ、すぐ止むだろ」 クラウスがそう言ったのが、どこか遠くで聞こえた。 ただの雨のはずだ。 いつもと変わらない、ただの通り雨。 アイルランドで雨が降るなんてこと、別に珍しいことでも何でもない。 なのにどうして、彼女の後姿が思い起こされるのだろう。 泣いているのだろうか。 彼女は、一人で。 兄がいなくなった哀しさに、どうしようもなく壊れてしまったのだろうか。 誰にも心の内を明けず、一人で耐え抜いているのだろうか。 その、気高いまでの彼女の真っ直ぐさは、音を立てて折れてしまったのだろうか。 それは、衝動だった。 この一ヶ月間で、何も動こうとしなかった俺にようやく起きたものだった。 後ろでクラウスが何か叫んでいたけれど、振り返ることもしなかった。 雨の中を走った。 走って走って、ただ走って。 ひび割れてからからに乾いた胸の奥が、確かに今動き続けていた。 一度家に戻って、もうどこへやったかすら記憶にない兄の手紙を探した。 捨てた覚えがないのが救いだった。 家の中を引っ掻き回してようやく見つけたそれを掴み、また走った。 手紙にあった住所を辿って来れば、そこは三人家族が住まうにはちょうどいいアパートメントだった。 濡れた髪も服も気にせず、玄関の呼び鈴を鳴らす。 彼女がどうか、真っ直ぐなままでありますようにとただ願った。 しばらくして、玄関の扉がゆっくりと開く。 現れた彼女を見て、ひどく心が凪いでいった。 「ライル…ディランディ…?」 盛大に、安堵のため息を吐く。 よかった。まだ、間に合ったのだ。 「どうした?急に…。すごい濡れようだな…とりあえず中、入れ」 そう言って踵を返した彼女の後姿は、真っ直ぐのままだった。 ただ、元々細い肩が、余計に細く見えてしまった。 それはたぶん、気のせいなどではなかった。 「すまない、少し、散らかっている」 そう言って彼女はリビングのドアを開けた。 洗濯物は乾いたものが山積み。キッチンは洗い物が溜まっている状態。 ちらりとドアの隙間から見えた書斎らしき部屋には、兄の物であろう本や写真が、ダンボールと 共に積み上げられていた。 あぁやっぱりそうだ。 彼女の強さは、少しずつ少しずつ、壊れ始めているのだ。 ただ、リビングに置かれたベビーベッドの周りだけは、きちんと整頓がされていた。 彼女はタオルでも取りに行ったのか、どこかへ行ってしまった。 ベビーベッドにゆっくりと近付く。 赤ん坊は、一ヶ月見ない間にずいぶんと大きくなっていた。 碧色の瞳がじっとこちらを捉えている。 あの時はなかった、柔らかなブラウンの髪がふわふわと揺れていた。 兄は、一度もこの子の姿を見ずに逝ってしまったのだ。 「タオル、使うといい」 そう言って差し出してくれたタオルを受け取る。 改めて彼女の顔を見ると、やはり最後に会った時よりも痩せてしまっていた。 「すまないな、こんな状態で。 あいつの荷物も整理しなければいけないんだが…どうも進まなくてな」 小さく笑った。 違う、駄目だ。 そんな風に、諦めたように笑わせては。 兄が守ろうとしたものは、きっとそんなものではなかったはずなのだ。 「刹那」 初めてだった、彼女の名前を呼んだのは。 言葉に乗せた彼女の名前は口にしてとても心地が良かった。 彼女は、刹那は顔を上げた。 「俺の所、来いよ。それでちゃんと、刹那が守りたいもの、守ろう」 彼女の瞳が、一瞬、揺れ動いた。 「だが…」 「大丈夫、俺、これでも結構稼いでるから。 刹那は、刹那の大事なものだけを、考えればいい」 それは俺のエゴだったんだ。 彼女を壊したくない。美しいままでいさせたい。 俺の、薄汚いまでのエゴだった。 けれどそれで彼女が彼女でいられるなら。 彼女が守るべきものを守れるなら。 兄の代わりにでも、何でもなろうと思った。 君が気高く真っ直ぐにいられるように、 (俺は君の雨になろうと思ったんだ) 09.09.07 09.11.13 加筆修正 |