春の陽だまりのように、ぬるま湯のように心地よく感じる貴方の隣。 いつかそれが離れていくことを考えると、とても、怖い。 還る場所−3− 季節はもうすぐ春を迎えようとしているらしいが、夜はまだまだ冷え込んだ。 冷たい風が吹き付け、むき出しの顔を攻撃する。 出掛け先に、寒いから、とぐるぐる巻きにされたマフラーに口元までもぐして、帰路に着いた。 玄関のドアを開けると、空腹を誘うような匂いが鼻をくすぐった。 リビングに顔を出せば、モスグリーンのエプロンをかけて夕食をテーブルに並べている男がこちらの方を向いた。 「おかえり。ちょうどメシ出来たぞ」 目を細めて、刹那の帰宅を喜んで迎えてくれた。 男が買い与えてくれたコートを脱いで、「ただいま」と言うと、彼はまた柔らかな表情を見せた。 「今日、どうだった?収穫あったか?」 そう尋ねてくるニールに、刹那は少し顔に影を落として首を横に振った。 それを見て、ニールも残念そうに眉を下げた。 「そか、残念だったな」 宥められるようにして、頭を撫でられる。 少し消沈していたから、黙って甘受した。 「ま、時間はまだたっぷりあるんだし。焦んないで、ゆっくりやればいいさ」 ありきたりな言葉ではある。 けれど、ニールから発せられるそれは、刹那の気持ちを和ますには十分だった。 慰めを素直に受け取った刹那に、ニールも顔を綻ばせた。 「よし、メシ食おうぜ」 そう言って、刹那を促した。 彼は言った。 「このままでいいのか」、と。 刹那の背中に腕を回したまま、刹那を宥めながらも、はっきりした声でそう言った。 ニールの言葉の意味を最初は理解出来ず、刹那はただ戸惑い目を見開いた。 ニールは、そんな刹那に穏やかな表情を見せながらまた口を開いた。 「何にもわかんないままで、刹那はそれでいいのか?何にも話し合ったりしてないんだろ? それじゃあずっとすれ違ったままだ。 それは、苦しいだろ?」 ことん、と音を立てて、刹那の胸にニールの言葉が落ちる。 あぁ、どうして気付かなかったのだろう。 自分はずっと、それを望んで、目指して生きてきたはずなのに。 「話し合いもしないで、わからないまま終わるのは哀しいよ。 そんなの、分かり合ったなんて言えないだろ?」 失ったという目の前の現実にばかり気を取られ、喪失感に支配されて本来向けるべきところに 目を向けていなかった。 どうして忘れていたのだろう。 だって「彼等」とだって、そうやって一つになったのに。 「刹那の好きにしたらいいよ。刹那が後悔しないように、刹那の思うままにしたらいい。 刹那なりの答えを、探せばいいんだよ」 あぁ、どうしてなのだろう。 いつだってこの男は、自分が迷った時や立ち止まった時に道を示してくれる。 こんなにもこんなにも、救われる。 ニール・ディランディでよかった。 自分を見つけてくれたのが彼でよかったと、本当に思った。 ニールに後押しされる形で、刹那はELSを捜し出すことにした。 もう一度ちゃんと、話し合いたかった。 ようやく目的を見出した刹那に、ティエリアは少し安心したようだった。 刹那から離れたことによってELSがまた他者を理解したいが為に暴走を繰り返すことを懸念したが、 特にニュースにそれらしいものもない。 刹那を理解した「彼等」が同じ事を繰り返すことはないと、そう信じるしかなかった。 外に出始めてから二週間ほど経つが、手がかりは一向に掴めず、気落ちすることもあった。 けれどどんなに夜遅い時間にニールのマンションに戻っても、彼は刹那を出迎えてくれる。 それが、救いだった。 「相変わらず、面白い味のするものを作るな」 ニールの作った夕食を口にして、刹那が言う。 ニールは顔を歪ませた。 「…料理が面白い味するって、不味いのと同義だぜ」 「不味くはない。十分食べれる」 「…そうか、そりゃ何よりだ…」 腑に落ちなさそうな返事をするニールを尻目に、刹那は黙々と料理を口に運んだ。 少しずつ食事をするようになって、しばらく経つ。 胸を支配していたぽっかりとした感覚は小さくなって、代わりに腹にそれがいったようだった。 ニールの作る食事は独創的な味がしたが、それが彼らしいとも思った。 昔彼が作ったものも、似たような味だった気がする。 口に運ぶたびに、欠けていたものが少しずつ満たされていくような感覚がした。 ドア越しに声を掛けて返事が返って来ると、刹那はニールの部屋に入った。 彼が向かう机の脇に、ことりと湯気の立ったコーヒーを置いた。 ニールはディスプレイに向けていた視線を動かして、刹那に礼を言う。 夜遅くまで仕事をしている彼にコーヒーを出すのが、刹那の日課の一つになっていた。 ニールはどうやら宇宙開発関係の仕事らしく、ディスプレイには次の探索予定の内容が記されていた。 仕事の邪魔をしては悪いと思い、壁際にあるベッドに腰を下ろした。 一日の終わりを、こうしてニールの部屋で過ごすことが多かった。 特に何か会話があるわけではなかった。 ニールが仕事をしているのを極力邪魔しないようにしたかったし、刹那自身もこれと言って話すことがなかった。 ニールもそれをわかっているのか、彼の方から特別言葉を掛けてくることもない。 ただ、刹那がそこにいることを許してくれているようだった。 時々、微睡みに勝てずそのままニールのベッドで朝を迎えることもあった。 狭いシングルベッドに大の男二人が肩を並べている様はなかなか可笑しいものだったが、刹那はとても 穏やかな気持ちで目を覚ますことが出来た。 彼の隣は、心地よかった。 ニールは刹那のことに関してあれこれ追求してくることはなかった。 直接聞くことも、脳量子派を使って刹那の思考を読んでくるようなこともなかった。 ただ、時々刹那に対して何か言いたげな視線を送ってくる。 聞きたいことがあるならいくらでも聞いて構わない、と言ったら、彼は少し困ったように笑って、 「違うんだよ、そうじゃない。ただ…うん、これは俺の問題だから。 話せるように整理出来たら、ちゃんと言うよ」 と、そう言った。 ニール自身も、何やら困惑しているような様子だったので、それ以上は刹那も何も言わなかった。 少し、安心もした。 聞いて構わないと言ったものの、いざ聞かれれば答えなくてはいけない。 その答えを聞いて、彼が自分から離れるようなことを考えると、胸が重く沈んだ。 いつか話さなければいけないとは思っている。 彼には知る権利がある。 けれど、全てを知って、それでもなお、変わらず自分に接してくれるだろうか。 世界の敵となって武力介入をしていたことも、ELSと一つになり、そして離れたことも。 彼にとっては信じられないような話ばかりだろう。 もしかしたら、最初の時のようにあの温かい腕で抱きすくめてくれるかもしれない。 だが、そうなると言える可能性が、一体どこにある? 彼が変わらないと信じるのは、あまりに傲慢すぎる。 また失くすかもしれない。 そう思うと、何も言えなかった。 そんな思いを胸に抱えながら、ELSを捜し日々を過ごした。 ニールの世話になり始めてから、一ヶ月が経とうとした頃だ。 その日は休日で、ニールも家にいた。 休みだというのに部屋で仕事をしている。ご苦労なことだと思う。 刹那が昼食の後片付けをしている、その最中のことだった。 突然に、脳に感じる違和感。 あまりに突然で、手に持っていた皿を床に落としてしまった。 なんだ、これは。 脳に響き渡る、無数の"声"。 ニールも感じたようで、部屋から飛び出して来た彼はひどく戸惑いに満ちた表情をしていた。 感じたことはあった。ELSと初めて接触した時の感覚に似ている。 だが、違う。 あの時のELSじゃない。自分の知っている「彼等」の声じゃない。 それよりももっと憎悪や殺気に似たものを帯びている。 今はまだ遠い。まだ感じる"声"の大きさはそれほどではない。 だが、それでもこんなに強烈な感覚だとわかる。 ひどく張り詰めた空気の中で、ニールの携帯端末が着信音を鳴らす。 「はぁ!?」 通話をしていたニールから、驚きを孕んだ声が発せられる。 なんだ、と思って彼を見れば、普段から白い肌が、余計に血の気を失っていた。 やがて通話を終えたニールがゆるゆると刹那に視線を向ける。 「今…宇宙技研の知り合いから連絡があった。 正体不明の異星体群が、すげえスピードで地球に向かって来てるらしい…」 「な、」 「計算上だとあと1440時間…60日後に地球に突っ込むらしい…」 ニールの言ったことを理解するのに、時間がかかってしまった。 地球に突っ込む?60日後に? あの違和感はでは、地球に向かってくる異星体からのものだったのだ。 あれほど強烈な憎悪。自分の知るELSの時とは訳が違う。 あれは間違いなく、故意に向けられた感情だ。 それがそのまま地球に落ちてきたらどうなるかなんて、想像しなくてもわかる。 いてもたってもいられず、刹那は部屋を飛び出そうとした。 だがニールに腕を掴まれてしまう。 「…っは、なせ!」 「どこ行くつもりだよ!何する気だ!?」 「ここでじっとしているなんて出来ない!行かなければ…っ」 「行って何が出来るんだよ!?今政府と軍が対応してる!お前一人行ったってどうにかなる問題じゃないだろ!」 「…っ」 ニールの言う通りだった。 今の自分には何も出来ない。 何の力もない。 そんなことは自分がよくわかっている。 悔しくて、唇を噛んだ。 諦めたようにだらりと腕を落とし、俯く。 その時だった。 脳に伝わる、懐かしくも狂おしい"声"。 焦がれ、求めた、「彼等」の"声"がした。 10.10.14 |