君が笑っていられる そんな世界になったら、

きっとみんな、喜んでくれる
還る場所−4−
"声"が聞こえた。

ずっと捜し続けた、「彼等」の"声"だ。
聞き間違えるはずがなかった。
ずっと一緒にいたのだ。
ずっと同じ時間を過ごして来たのだ。


"声"に引き寄せられるようにして、刹那は部屋を飛び出した。
ニールの静止は聞き入れなかった。
エレベーターを待つのもじれったくて、階段を駆け下りた。
その間も、まだ"声"は脳に伝わって来ていた。意識の中に入って来る感覚があった。
「彼等」が近くにいることの証明だった。


階段を下り切った刹那が辿り着いたのは、マンションの中庭だった。
綺麗に整備され、緑が青々と茂っている。
刹那以外、そこには誰もいなかった。

意識を集中させて、「彼等」を探した。
どこだ。どこにいる。
間違いなく、近くにいるはずなのだ。

「エルス…っエルス…!!」

空を仰ぎ視線を動かして、「彼等」を探し、呼んだ。
刹那の後を追って来たニールが階段の降り口にいるのが見えたが、そちらに意識は向けなかった。
ただただ、応えてほしかった。

やがて、刹那の脳の波長に応えるように、ゆらりと意識に入り込んでくるものがあった。

応えた。ようやく、応えてくれた。
刹那の胸は歓喜に震えた。ずっと待っていたのだ、この瞬間を。

刹那とニールの前で、風が舞うようにして、中庭の緑が揺れた。
最初は塵のように小さい一つの存在は、やがて徐々に集まり、群を成した。
遠くから見たら一つの球体のようにも見える、「彼等」の集合。
刹那の数歩後ろでそれを見ていたニールが息を飲んでいるのが分かった。
彼にとっては信じられない光景なのだろう。
だが刹那にとって、これほど待ちわびた瞬間はなかった。

ようやく、会えた。

ゆっくりELSに近付く刹那の後ろでニールが呼び止めようと声を上げていたが、刹那の意識は完全に
今目の前にいるELSに向いていた。
これでまた一つになれる。
もう、失くさないで済む。
刹那は脳量子派でELSの意識の中に入り込もうとした。
波長を合わせ、いつかのように一つになる準備をした。

だが、刹那の発する脳量子派はぶつりと遮断された。
掴みかけたELSの脳量子派は、そこで行方を失った。

完全な、拒絶だった。

何故。
刹那の中にはその感情しかなかった。
あれほど時間を共にしたのに。感情を共有し合ったのに。
また失くしてしまう。
また、空っぽになってしまう。

ぶわ、と胸の内から衝動にも似た感情が溢れ出た。

「…だ、ぃやだ…っ。嫌だ、エルス…っ」

応えてほしかった。自分の想いに。

冷静さを失った刹那は、ELSの輪の中に飛び込もうとした。
だがそれを、ニールによって阻まれてしまう。

「何してんだよ馬鹿…!」
「嫌だ…っ離してくれ…!」

あれほどニールが離れることを恐れていたのに、今はその手を自ら離そうともがいている。
今の刹那の中には、ELSを喪失することへの恐れしかなかった。
頭の中がぐちゃぐちゃだった。
ただ戸惑いと恐怖が胸の中でひしめき合って、制御できない状態に陥っていた。
涙の一つでも零れてくれれば少しは落ち着いたかもしれないのに、干からびた大地のように
その片鱗すら見えない。

「刹那。落ち着け。大丈夫だから」

ニールが耳のすぐ側で、刹那を宥めるように言う。
いつも心を落ち着かせてくれるはずのニールの言葉は、今の刹那には意味がなかった。
何が大丈夫だというのだろう。
現実に「彼等」は自分を拒んでいるのに。

「刹那、刹那。いいから、聞いて。あいつ等何か言ってる。刹那に、伝えようとしてる」

ぴたりと、それでようやく刹那の抵抗が止んだ。
ゆるゆると顔を上げてELSを見た。
「彼等」は相変わらず球体を成してそこにいた。

「聞こえない?わかんないか?」

ニールの問いかけに、刹那はぶんぶんと頭を横に振った。
ぐちゃぐちゃになった感情が脳量子派を乱して、何も感じることが出来なかった。

「俺わかるよ。あいつ等が、お前に伝えたいこと」

耳元で、低くて心地いい声がした。
ニールが口を開いた。


「――"わたし達と違う存在が、ここに近付こうとしている。わたし達は、それを止めに行こうと思う"
"貴方はわたし達に違う存在同士でも分かり合えることを教えてくれた"
"だから今度は、わたし達が『彼等』に、それを教える"」
「…っだったら、俺も…!」

一度言葉を切ったニールが、再び口を開く。

「"貴方はわたし達と一緒にいてくれた。貴方達にとっては途方もない長い時間を、一緒に過ごしてくれた"
"わたし達は、それがとても嬉しかった"」

ニールはそこでまた口を閉じた。
少し躊躇いがちに、でも、大事な言葉を紡ぐ為の準備にも思えた。


"でも、もういいよ"


"わたし達の母星に来てくれたこと、とても嬉しかった"
"わたし達と一つになってくれたこと、とても嬉しかった"
"だから今度は、わたし達が、貴方を助ける"

"貴方は、貴方の生きる道を進んで"
"たくさんの時間をわたし達の為に使ってくれたけれど、でも今度は、貴方だけの為に生きて"

刹那はただニールの声で聞かされる、「彼等」の言葉を耳に入れた。
動くことを忘れたかのように、立ち尽くしたままだった。
「彼等」の言葉が金縛りのようにも思えた。
聞きたくない。
でも、聞いていたい。


"せつな"

"貴方がいてくれてよかった"
"貴方に出会えてよかった"

"貴方が生きていてくれて、よかった"

"もう、いいよ"
"貴方は、貴方を大切に生きて"


"…ありがとう、せつな"


「…っエルス…!」

ニールの腕を抜けて、刹那が手を伸ばした。
「彼等」は球体を少し崩して、刹那の元に伸びていった。
応えるように、触れた。
それはほんの一瞬だった。
完全に触れてしまえば再び一つになってしまうことを避けた「彼等」の精一杯の想いだった。

ごぅっと大きな風を起こして、「彼等」は空高く伸びていった。
太陽に反射されたそれは、光の橋のようにも見えた。
やがて、静寂が訪れた。
刹那は力なく庭の芝生にへたれ込んだ。
ELSの昇っていった空を仰ぎ見てしばらく口を開かなかったが、ぽつりと、呟くように言った。

「…誰も、いないんだ」

視線を落とし、刹那は続けた。

「エルスとの対話を終えて一つになって帰って来たけれど…でも、俺の近くにはもう、誰もいないんだ」

最初に失ったのはマリナだった。
彼女が息を引き取った時、どうしようもない喪失感に苛まれた。
目印を失くしてしまったのだと思った。

マリナを看取った後プトレマイオスに戻ったけれど、そこにはかつての仲間も、もういなかった。
それが、二度目の喪失だった。
帰る場所を見失った。
どこにも行くあてがないことを知った。

ELSが一緒でなければ、きっと何もかも捨て去っていたのだと思った。

長い長い年月を一緒に過ごした。
「彼等」はどこにも行かない。一緒にいてくれる。
もう、失くす必要がない。
安心感がようやく胸を占めた。
けれど時々、途方もないような喪失感が胸を襲った。
ふと過去を振り替えれば、たくさんの顔が浮かんだ。
その誰もが、もう刹那と同じ世界にはいないのだ。

「ティエリアは脳量子派を通じて一緒にいてくれたけれど…でも、それでもそんな考えが、消え去る
ことなんてなかった。
誰もいないんだ。
マリナも、スメラギも、ライルも、アレルヤも、フェルトも、イアンも、ミレイナも、ラッセも…皆、俺の前から
いなくなってしまった…っ」

皆の顔が、次々に浮かんでは消えていく。
今さらどうやって生きていけばいいのかわからなかった。
生きる意味があったのだと思えた。
けれどその意味を、全部失くしてしまったようだった。

きっとニールは刹那が何を言っているのかわからないだろう。
でもそれでも、口を開かずにはいられなかった。
後から後から、言葉が止め処なく溢れた。
聞いて欲しかった。他の誰でもない、"ニール・ディランディ"に。

ニールはゆっくりと刹那に近付いた。
そうして、一人力なく座り込む刹那の背中から、優しく腕を回した。
ひくり、と刹那が一瞬だけ身じろいで、それからずっとその言葉を溜め込んで来たように、口を開いた。

「いないんだ…誰も…っアンタも、どこにもいない…っ」

どうしてもっと早く戻れなかったのだろう。
そうしたら助けることが出来たのに。
アンタを、この手で救うことだって出来たのに。

ほたり、と一粒、涙が零れ落ちた。
気付かないふりをしていた、言葉も付けられないような感情が、全部、胸の奥底から井戸水のように溢れかえった。


「俺…ずっと刹那に言いたいことがあったんだ」

ただ黙って刹那の話に耳を傾けていたニールが、静かに、口を開いた。

「刹那に会った時から、ずっと何か言わなきゃいけないことがあるような気がして、でもそれが何なのか、
わからなかった。
でも、やっと、わかったよ」

「ごめんな、刹那―――」

「お前はずっと長い間戦ってきて、長い間苦しんで来たんだな。
色んな物をたった一人で背負い込んで、でもそれを当たり前みたいにして受け入れて。
そんなお前を、"俺"は置き去りにして、独りにしてきたんだ」


ニールの言葉一つ一つが、胸に染み込んだ。
干からびた大地が潤っていくようだった。

「お前に何があったとか、俺自身はそういうの、わかんないんだ。
でも、お前に謝りたい、お前に伝えたいってことだけは、ちゃんとわかる。
それでいいんだ。
他の何でもない、何も背負ってない"ニール・ディランディ"だから、お前に、今やっと言えるんだ」


―――もういいよ、刹那


「もう、誰かや何かの為に戦わなくていい。生きなくていい。
刹那は、刹那の為だけに生きて、いいんだよ」


どこまで進めばいいのだろうと思った。

果てしなく果てしなく、ただ誰よりも前を歩いていく。
途方もない、光も見えないような道のり。
けれど、自分は色んなものをこの手で失くして来た。
両親を手に掛けた。色んな人間の命を奪った。
ロックオンを助けられなかった。
ライルの大事な人を撃った。

そんな自分の歩みを止めることは、許してはいけないと思った。

でも、いいのだろうか。
もう、独りで歩き続けることを止めても、いいのだろうか。

「頑張ったな、刹那。よく頑張ったよ。
でも、もういいよ。
もうお前に『変われ』とか『生きろ』なんて言わないよ。俺はそんなこと言う必要、ないんだから。
これからは俺が、刹那と同じ時間を歩いていける。もう刹那を独りで歩かせたりしないから」

ずっと、これを言おうとしてくれていたのだ。
何を言うべきかもはっきりわかっていなかったのに、それでもずっと、これを言う為に。
ただ、それだけの為に、彼は自分を見つけてくれたのだ。


忘れていたのが嘘のように、止め処なく涙が零れた。
子どもみたいに泣きじゃくった。
還ったのだと思った。
母の元に還る、子どもみたいに。


マリナ。
お前も、そう伝えようとしてくれていたのだろうか。
もういいからと。
還っても、いいのだと。
そう思っても、許されるだろうか。


頭の片隅で、ティエリアがようやく、安心したように笑ったような気がした。
ニールの腕が、まるで春の陽だまりみたいに、温かく、心地よかった。
そのおよそ40日後、地球に向かっていた異星体群はその軌道を変え、遥か遠くへ行ったと、ニールが
教えてくれた。
「彼等」のおかげだとは、政府は元より、どの報道機関も伝えることはなかった。
季節は春を迎えた。
吹いてくる風はとても心地よく、温かい。
様々なところで命の芽吹きが見て取れた。


ターミナルの前の噴水の縁に座って、刹那は人が流れていくのを眺めた。
ふと、足元に見覚えのある金属片があるのを見つけた。
そこから"声"は何も聞こえて来なかった。
だから、違うかもしれない。けれど刹那は、「彼等」の名前を口にした。
もしそうだったら、応えてくれるだろうか。
そんな賭けみたいなものなのかもしれない。

「……エルス、」

誰にも聞こえないような、そんな小さな声でぽつりと呼んだ。
返事はなかった。
刹那は小さく、残念そうに笑った。

「刹那ぁー悪い、遅くなった!」

代わりに刹那を呼ぶ声がして、そちらの方に顔を向けた。
大地色の髪を春の風になびかせて、ニールが駆け寄ってくる。
仕事が早く片付きそうだから一緒に夕食の買い物にでも行こうと誘われた。
「悪い悪い」とまたニールが言うので、刹那は「そんなに待ってない」と言った。

「今日何がいい?」
「ガリーエ・マーヒー」
「またかよ!…まぁ、いいかぁ。よし、俺が腕によりをかけて作ってやる」
「いや、俺が作る」
「え、マジで?うわ、珍しいなぁー」
「よくよく考えたらやっぱりアンタの作る料理は変だということに気付いた」
「……」

あっという間に口を閉ざしたニールを横目に、刹那は先ほどの金属片があった噴水の方をちらりと見た。
ほんの少し前まであったはずの金属片は、もう、どこにも見当たらなかった。
刹那は小さく、泣きそうな顔をしながら笑んだ。
ニールが何かあったのかと聞くので、何もないと平然を装って答えた。

春風が吹く中を、二人で並んで歩いた。
今日も君が笑っていられる

そんな世界を、みんな見守っている
10.10.14


――――――――――
刹那の背負っているものを全部取り去ってあげたかった。
ただそれだけの思いで書きました。
刹那に「もういいよ」と言ってあげるのは、やっぱりニールがいいなという一方的な考え。