呼吸も浅く、終わりを迎えようとする彼女の皺の寄った手を、ただ握った。 意識はほとんどない。 それでも最期の瞬間に、微かに唇が動くのが見えた。 彼女の最期の言葉を聞きたくて思考を読もうとしたが、もう遅かった。 結局、自分には彼女が口にしようとしたことを理解するのは叶わなかった。 マリナ。 お前は、何を伝えようとしていた? 還る場所−2− 日が傾き始めると夜が訪れるのはあっという間で、窓の向こうはいつの間にかネオンが輝いていた。 ニールの部屋はマンションの高層に位置していて、夜の街が鮮やかに窓から見えた。 刹那は相変わらず、最初に腰を下ろしたロングソファの端に座っていた。 ニールの家に来てからだいぶ経つ。 正確な期間は、刹那自身把握していなかった。その間どうやって過ごしていたのかもはっきり思い出すことは出来なかった。 だが、こうして生きているからには、ニールの世話になってしまっているのだろう。 本当は、彼に関わるべきではないのだ。 自分はニール・ディランディから、ロックオン・ストラトスから、様々なものを奪い取っている。 その自分が彼の近くにいていいはずがなかった。 関わればまた彼から大事なものを奪ってしまうかもしれない。 それだけは避けなければいけない。 だが、今の刹那には何もする気が起きなかった。 ここにいるべきではないというのはわかっている。 けれど、喪失感が身体中を侵し、刹那をただ無気力にさせた。 時折襲われる、例えようのない空虚に耐えるように、刹那は膝を折り曲げ身体を縮めた。 ティエリアは脳量子派を通じて側にいるのがわかったけれど、向こうから何か言ってくることはなかった。 おそらくどう声を掛けたらいいか戸惑っているのだろうが、刹那にはそちらの方がよかった。 どんなに優しい言葉を掛けられても、刹那にはそれを返す気力がなかった。 玄関の扉が開く音がすると、やがてニールがリビングに入った。 「ただいま」と声がしたので、窓から視線を動かして彼の方を向いた。 刹那と目が合うと、ニールは目を細めてまた「ただいま」と言った。 「……すまない」 ぽつりと、前触れもなしに刹那がそう言うので、ニールは不思議そうに首を傾げていた。 「……ずいぶん長く、世話になってしまった…。出来れば、近いうちに出るから…」 「ただいま」と言ったニールの柔和な顔を見て、刹那の中に先ほどの考えが再び頭を過ぎった。 彼の側は落ち着く。 けれど、そんな風に縋り続けてはいけない。 …でも、ここから出て、果たして自分に行き着く先などあるのだろうか。 もう自分には何もない。 空っぽだ。 「出るから」なんて言っておきながら、先のことを考えると、途方もない不安が胸を占めた。 「いいよ」 ニールはゆっくり刹那に歩み寄り、言った。 刹那の目には、彼の優しい顔が映った。 「無理しないで、いくらでもいたらいいさ」 ニールの言葉に、刹那はふるふると首を横に振った。 甘えてはいけない。 これ以上、彼に迷惑はかけられない。 「…哀しいこと、あったんだろ?」 低くて、柔らかいニールの声が刹那の鼓膜を震わせた。 まるで全部を悟ったかのようなニールの言葉に、目を見開いて彼の顔を見た。 いつの間にかすぐ側にあったニールの顔は、刹那の感情を反映させているかのようにどこか淋しそうに、 でも刹那を安心させるように、優しく微笑んでいた。 刹那のそれまでの様子を見れば、何かあっただろうなんてことすぐに想像が付く。 けれどニールの言い方は、刹那に何があったかをわかっているような口振りだった。 刹那の疑問を理解したのか、ニールは小さく笑った。 「わかるよ。俺もお前と、一緒だからさ」 彼はそう言って、刹那の額に自分のそれをこつりと付けた。 そうすると、刹那の頭の中に、自分の物でない波長がゆらりゆらりと入って来る。 それは決して土足では踏み込んで来なかった。 刹那が拒めばきっとすぐに離れてしまうだろう、彼のそれは、とても柔らかく、心地よく感じた。 空っぽだった胸が、満たされていくような感覚すらした。 脳に直接響く、彼の波。 それは紛れもなく、自分と同じ存在だという証拠だった。 ふつ、とニールの波長が消えると、触れていた彼の額も少し離れていた。 ニールは苦笑いを浮かべた。 「つっても、今じゃ珍しいもんでもないけどな」 彼の言う通り、今では人類の約八割がイノベイターとなっている。 社会との繋がりを絶っていた刹那だったが、時折無条件に脳に響く”声”の量は、確実に増えているのがわかった。 イノベイターであることは、この時代においてもう特異なことではないのだ。 それでも刹那は、ニールが自分と同じ存在であることに驚きを隠せない。 けれどそれよりももっと大きな感情が、刹那の胸を占めていた。 彼は、自分をわかってくれる。 わかろうとしてくれている。 おそらく、具体的に刹那に何があったかまではニールは理解していないだろう。 彼が今のように自分の中に入って来たのは初めてだったから、きっと彼が理解しているのは刹那の中にある感情だけだ。 でも、それだけでも十分だった。 身体の奥底から、叫び出したいような感情が溢れ出てきていた。 「…いなく、なったんだ…。ずっと一緒に、いたのに…っ」 「…恋人?」 「違う…でも…ずっと、一緒だった…っ」 それは、突然だった。 何の前触れもなく身体に襲った、まるで川が逆流するような衝撃と、穴が空いたような喪失感。 百年という、長い長い年月を、この身体で一緒に過ごして来たのに。 「彼等」は、ELSは自分から離れていってしまった。 もう声も聞こえない。 自分の声も届かない。 対話をして、分かり合ったと思っていた。 「彼等」と一緒にいることは、決して苦ではなかった。 むしろ、心地よさすら感じた。 どこまでも一緒だという、安心感。 時々自分のその感情に、「彼等」なりに応えてくれる。 それが、好きだった。 なのに。 何が悪かったのだろう。 自分は「彼等」に何かしたのだろうか。 わからなかった。 わからないから、余計に不安が渦巻いた。 文字通り、身体の一部がぽっかりと抜け落ちたような状態だった。 「わからないんだ…っ何故、こんなことになったのか…っ」 ど、と激流のように溢れる感情を、刹那は思い付くだけの言葉で話した。 感情ばかりが先走って、上手く伝えられないのが悔しかった。 ただ、これだけ胸が詰まるくらい色々な感情が溢れているのに、涙だけは、出し方を忘れたかのように 流れることがなかった。 縋るように、ニールの背広を、皺が出来てしまうくらいに握り締めた。 ニールは、刹那が途切れ途切れに発する言葉に、「うん、うん」と丁寧に相槌を打っていて、それが刹那の 吐露を優しく促していた。 「わからない…どうしたら、いいか…っ。俺はこれから何のために、生きれば…っ」 マリナの、息を引き取った時のことが頭を過ぎった。 するりと彼女の手が自分の手から抜け落ちていく感覚が、いくら時間を経過しても忘れられない。 あれが、最初の喪失だった。 彼女の紡ごうとした言葉を知りたかった。 そうすれば、この胸を占める空虚も少しは小さくなっていたかもしれないのに。 「そっか…うん、そっか…。そりゃあ、しんどいよなぁ」 ニールは刹那の背中に腕を回して、撫でたり、ぽんぽんとあやすようにしたりして、優しく刹那に触れた。 ぐしゃぐしゃだった頭の中が、それで徐々に落ち着いていく。 懐かしい、感覚だった。 昔、彼がロックオン・ストラトスを名乗っていた頃にも、こうやって抱きすくめられていたことがあった。 例えばニールがイノベイターでない、ただ普通の人間として生まれ変わっていたとしても、きっとこうして 自分のことを理解しようとして、抱き締めてくれたのだろうと思う。 実際、彼が脳量子派を通じて刹那と繋がったのはさっきの一度だけで、それ以降はずっと、彼は自身の耳だけで、 刹那の口から出される言葉を聞いている。 最初は単純に彼が自分と同じ存在であることに安堵していたが、今は違う。 目の前にいるのがニール・ディランディという一人の人間でよかったと、心から思った。 彼の心臓の音が聞こえた。 ゆっくりゆっくり鼓動を鳴らす、生きている人間の音だった。 背中に回された彼の腕の温かさに、ただただ、安らぎを覚えた。 10.10.14 |