それは、突然だった。


本当に、何の前触れもなく襲ってきたそれは


衝動と、そして、まるで身体の中に穴が空いたような、喪失感。


わからなかった。
何故、こんなことになったのか。

本当に突然で。
どうしようもなかった。

待ってくれ。
いかないで、くれ。

叫んで、どうにかして腕を伸ばしてももう届かない。
やがて訪れた夜の闇の静けさと一緒に、途方もない空虚が胸を占めた。


身体に当たり始めた雨の感触が、喪失感を増長させた。

冷たい雨粒。
身体が濡れる感覚。


本当にもう、いないのだ。
自分から、離れてしまったのだ。



ふ、と雨の当たる感覚が消えた。
ゆるゆると顔を上げると、誰かが自分に傘を差しているのがわかった。

「どうした?大丈夫、か?」


その、胸に染み入るような声を聞いたのは、本当に、久しかった。
還る場所−1−
「とりあえずシャワーだな。そっちにあるから、あったまるまで出てくんなよ」

着替え出しておくから、と言って男は扉を隔てた部屋に一度入って行った。

自分に傘を差し出した男は、刹那のずぶ濡れの格好を見て、何か言い出すような暇も与えず手を引いて
ずんずんと彼の家であろうマンションに刹那を連れて入った。
刹那は今目の前に起きている現実を受け入れるのがやっとで、実際、彼が何か言い出す暇を与えても、
何も答えられなかっただろう。


のそのそという足取りで、刹那は男が指差した方へ歩を進めた。
脱衣場で着込んでいたパイロットスーツを、やはりのそのそとした動きで脱いでいった。

やがて現れた、褐色の肌。

最後に見たのはもうずいぶん昔のことだ。
一生見ることはないと思っていた。
それでいいと思った。
それなのに、今自分の眼にはありありとそれが映っている。
その事実が、刹那の胸を締め付けていく。


シャワーコックを捻ると、ざぁっと、勢い良く熱い湯が全身に降り掛かった。
体温が低下した身体には刺激が強かったようで、ビリビリと痺れるような感覚がした。
あぁそうか、お湯というのは、こんなにも熱いものだったのか。

肌に、身体に伝わる感覚全てが、その事実を物語っていた。
苦しさに耐えるようにして、刹那は唇を噛んだ。


どうしてこんなことになった?
それまで何事もなく日々を過ごしていたのに。

分かり合えていたと思っていたのは、自分の方だけだったんだろうか。
―――百年、だ。

「彼等」の母星に辿り着いて、対話をして、そうして、分かり合った。
一つになった。
長い長い年月を、この身体と共に過ごした。

なのに、「彼等」はもう、自分から離れてしまった。
刹那は手も足も動かさず、ただ俯いたまま頭上から降ってくるシャワーからの熱い湯を身体に受けていた。
このまま溺れてしまえばいいとすら思った。
無理なことは、十分にわかっていても。



「……エルス…」

ぽつりと、そう声に出した言葉は、いとも簡単にシャワーの音に掻き消された。
「おぉい、大丈夫かぁ?」

どのくらい立ち尽くしたままだったかわからなくなった頃になって、シャワールームの扉からそう声が掛かった。
その声は刹那の耳にも届いていたが、返事をする気にはどうにもなれなかった。
刹那から返答がないことを不審に思ったようで、男は一言断りを入れてからシャワールームのドアを開けた。

立ち尽くし俯いたままシャワーを浴び続ける刹那に対して、男は小さくため息を吐いたようだった。
彼は濡れるのも構わずシャワールームに足を入れて、刹那の身体をペタペタと触った。

「ん、よし。あったまったな。ほら、出るぞ」

コックを捻ってお湯を止め、彼は刹那の手を引いてシャワールームから出た。

刹那の手を握る彼の手は、温かかった。


バスタオルで刹那の身体を拭こうとする男の手を、やわやわと制止した。
自分でやる、と言いたいのがわかったのか、しばらく逡巡した後、彼は手を離した。
着替えそこにあるから、終わったらこっち来いよと言って、脱衣場から離れて行った。

緩慢な動きで適当にタオルで身体を拭いて、置かれていたスウェットに袖を通した。
こんな服を着るのはひどく久しぶりで、違和感があった。
リビングであろう部屋に続く扉を開けると、男がすぐに気付いて腰を下ろしていたソファから立ち上がって
刹那の方に寄って来た。

「あーぁ、お前さんそんなんじゃ風邪引くって」

ちょっと待ってろと言ってタオルを一枚持ってくると、それでわしゃわしゃと、少し乱暴なくらいに刹那の髪を拭いた。
なんだか懐かしいその感覚に、刹那はほんの少しだけ気持ちが安らいだ。

「服、少しデカいけど大丈夫そうだな。よかった」

そう言って、男は余っていた袖を刹那にちょうどいいように折り曲げた。
なんだかおかしな気持ちになった。
この男の服が、こんな風に自分にちょうどよく合うことにだ。
こんな日が来るとは思わなかった。



目の前の男は、刹那の記憶と全く変わらない姿で新しい世界に生きていた。
大地の色をした髪も、碧色の眼も、そして、あたたかで包み込まれるような雰囲気も。

またこうして接触することになったのは、何かの巡り合わせなのだろうか。
彼は刹那の手を再び引いて、ソファに腰を下ろした。
立ったままではどことなく居心地悪く、刹那も、男の座るシングルソファとは少し離れたロングソファの端に座った。

「ほら」

彼は、刹那にマグカップを差し出した。
湯気の立つそのカップの中には、ホットミルクが入っていた。
じんわりと、胸が締め付けられたような感覚がした。
受け取ったマグカップは、じわりじわりと刹那の手を温めた。

「お前さん名前は?」

ソファの前のローテーブルで食事を小皿に取り分けながら、男がそう言う。
ぽつりと、呟くように自分の名前を告げたが、彼はきちんと拾ってくれたようで、「刹那、ね」と口にしていた。

「俺はニールな。ニール・ディランディ」

そう名乗られると、刹那の中に複雑な気持ちが入り混じった。

彼が自分の知っている名前のままで安心した。
彼が未だにその名前に縛られているのではないかと思うと哀しくなった。


「腹減ったろ?」

ニールは取り分けた小皿のいくつかを刹那の前に置いた。
刹那はゆるゆると首を横に振った。

「…食欲がない。すまないが…」

と、断りを入れようとしたが、ニールがそれを遮った。

「何言ってんだ、そんなぶっ倒れそうな顔して。ほら、食え食え」

ひょいひょい、とニールが自分の皿から刹那の皿におかずを放り込んだ。
まるで親のようなその性格も、生まれ変わってもしっかり引き継いだようだった。
刹那は変わらないニールの仕種に気持ちを絆しながらも、やはりふるふると首を横に振った。

「…本当に、いらない。食べたくない……」

食欲が微塵も湧かなかった。
胸は空虚な感覚で占められながらも色々な感情が喉の辺りで詰まっていて、何かを口にする気には到底なれなかった。

刹那が頑なに断るので、ニールはそれ以上無理強いをすることはなかった。
「食いたくなったらいつでも言えよ」
そう言って、彼は自身の食事を始めた。
刹那はソファに背を預けて、窓の外に視線を向けた。
引かれたカーテンの隙間から、雨が降り続いているのが見えた。

時折ニールが何か物言いたげにこちらに視線を向けるのはわかったが、気付かないふりをした。
聞きたいことは山ほどあるだろう。
何があっただとか、あの格好は何だだとか。
それを口にせずに自分を受け入れてくれる彼の存在は刹那にはありがたかった。
もしかしたら、刹那から話すのを待っているのかもしれない。
だが今の刹那に何かを話す気力はもうなかった。
ただただ、現実を受け入れることと、襲い来る喪失感に耐えることしか、出来なかった。
10.10.14


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