ぴったりの名前だな、なんて思ったりした。 まさに、一瞬一瞬を生きているような感じだったから。 その瞬間を必死で生きて、生き抜いて。 お前をそのまま表したような名前だな、なんて思ったんだ。 君の名前−8− 彼女の肩に、顔を埋めた。 ひどく懐かしい香りがした。 涙が、溢れた。 それが喜びからくるものか哀しみからくるものかなんてわからなかった。 ただとにかく、色んなものが溢れるみたいに、胸がいっぱいになって、零れ落ちて涙になってた。 でもきっと歓喜している。 再び、彼女の名前を紡げることに。 哀しいくらい、歓喜している。 「刹那…」 腕の中の彼女はしばらく動かなかった。 けれど力が抜けたみたいに、抱いていた子どもがすとんと地面に足を着けた。 空いた彼女の手は、俺の手に恐る恐る触れてきた。 「ロック、オン…?」 あぁ、どうしよう。 涙が止まらない。 こんなにも、あの名を呼ばれることが嬉しい日が来るなんて、思わなかった。 「うん、そう…」 「ロックオン、ストラトス…?」 「そうだよ、刹那…」 後はもう、お互いに無我夢中だった。 正面を向いて、一瞬だけ顔を合わせて、そして、掻き抱いた。 離れないように、離さないように。 お互いがお互いの存在を確かめ合うみたいに、身体に腕を回して。 息が止まるように唇を合わせて。 ずっと、涙が止まらなかった。 止めようとも思わなかった。 哀しい感情も嬉しい感情も、全部、溢れてしまえばいいと思った。 どのくらいそうしていたかわからないけれど、周りが見えるようになって、周囲の視線が全部自分達に向いて いることにようやく気付いた。 とりあえず、足早にそこを去った。 路地裏に入り込んで、一息付く。 それからまた、刹那を腕の中に閉じ込めた。 全部が愛おしかった。 手に触れる癖毛も、自分の名前を紡ぐ唇も、真っ直ぐな赤褐色の瞳も。 全部全部、懐かしくて、愛おしかった。 少し身長が伸びたんだな、とか、体付きが女の子っぽくなったなとか、そういうことを考えていることすら、嬉しく思う。 「…まさか、」 「ん?」 刹那がようやく言葉を発して、それで少し身体を離した。 「まさか探しに来ているとは、思わなかった…」 「だって、しょうがないだろ。記憶なくてもお前さんに惚れちゃったんだから」 ぽんぽん、と頭を撫でる。 あぁ、これも久しぶりだな。 「ソラン!」 今まで一言も話すことがなかったシリルが、ようやく彼女が今まで名乗ってきた名前を呼ぶ。 だっこして、と言わんばかりに伸ばされた腕を見て、刹那がとても穏やかな顔を見せた。 腕を伸ばして、抱き上げる。 刹那の顔は、少し泣きそうに見えた。 「ソラン、ソラン!」 「シリル…」 「シリルがんばったよ、ソランにあいたかったから、がんばった!」 「あぁ、がんばったな」 そう言って、刹那は腕の中のシリルを強く抱きしめた。 シリルも精一杯、母親の首に腕を回して、抱きついた。 その姿が丸ごと愛おしくて、二人まとめて、腕の中に閉じ込めた。 「はい、ソラン!」 そう言ってシリルが小さな手を差し出した。 そこには、ついさっき車道に転がっていった刹那の指輪があった。 俺が、彼女に贈ったものだった。 「ソランのだいじなものだから、ソランにかえす!」 刹那は少しの間指輪を見て、それからシリルの手からそれを受け取った。 「ありがとう、シリル…」 そう言った刹那の穏やかな顔が、とても愛おしいと思った。 シリルは、少し得意げに笑った。 「持っててくれたんだな、それ…」 刹那の元に戻った指輪を見て、言う。 四年も前に死んだと思っていた男の贈ったものだ。 しかも無責任に彼女に子どもを宿して行くような。 そんな人間が贈ったようなものを、刹那が未だに「大事なもの」として手元に置いておいたことが、嬉しくもあり、 少し意外でもあった。 「…このくらいしか、なかったからな。アンタが俺に残したものなんか」 「ごめん、悪かった」 それは、色んなことを含めた謝罪だった。 勝手に死んで悪かった。 そのくらいしか残していけなくて悪かった。 一人でシリルを産ませて悪かった。 忘れてしまっていて、悪かった。 強く強く、抱きしめた。 刹那は、抵抗も何もすることなく、俺の腕の中に収まってくれていた。 「…いいんだ。生きていてくれただけで、充分だった」 「ありがとう…」 胸を占めていた虚構感は何もなかった。 ただとにかく、温かい何かで埋め尽くされて、満たされていた。 「ロックオン」 「ん?」 「大丈夫か?頭の方」 なんでわかるんだろうな、なんて思って苦笑いする。 ごまかしはきかないと思った。 「ちょっとくらくらする。やっぱ急に色んなもん戻ってきたからだろうな」 少し落ち着いてはいるけれど、頭がふわふわした感じは残っていた。 記憶が戻った瞬間は目眩がした。 おそらく、急激に脳が働かされたから、キャパオーバーなんだろうなと思う。 「一度、医者に診てもらった方がいい。キリア・メーベルのところに行こう」 「あぁうん。…え?」 「どうして教えてくれなかったんですか」 ドクター・メーベルの診療所に着くや否や、俺は彼女に詰め寄った。 ドクターはくつくつと肩を揺らして笑っている。 「悪かったわ。でも先に約束したのが彼女の方だから。 来ても言うなって、言われてたのよ」 刹那は、俺達がこの町に来る一週間くらい前に、ここに着いていたらしい。 彼女も体調が芳しくない状態でドクターに出会い、滞在を言い渡されたようだ。 それはなんだか容易に想像が付いた。 それで、もし仮に誰かが自分を訪ねてこの町に来ても、自分がここにいることは知らせないでほしいと 言ったらしかった。 俺がどんなに町の人間に刹那のことを尋ねても誰も答えられなかったのは、彼女がずっとドクターの ところにいたからだと言う。 「でもよかったじゃない。記憶がちゃんと戻って。だから言ったでしょう。ラッキーだと思いなさいって」 そう言われ、最初に彼女に出会った日にかけられた言葉の意味をようやく理解する。 あぁ、なんて意地の悪い人だ。 「体調は?あまり良くない?」 「少し…。頭がくらくらって言うか…ふわふわした感じです」 「一晩寝れば良くなるわ。心配しなくていい」 「…結果的に、俺の記憶に対する操作は弱かった、ってことですか…?」 ドクターが話してくれたことを思い出す。 もし彼女の言ったことが正しければ、俺の記憶にかけられていたとされるプロテクトは、それほど強いものじゃ なかったように思う。 「そうかもしれないわね。でもそうじゃないかもしれない」 「…?」 「それをした人間でなければわからない、ということよ。 愛の力で戻ったということにしておきなさいな。深く考えても無駄よ」 彼女の言葉に少しくすぐったさを覚えたけれど、頷いておいた。 深く考えてもどうしようもないということは正しいと思えたから。 「あの…ドクター」 ずっと胸に引っかかっていた心配を、明確にしたくて切り出した。 「その、彼女の…身体のことなんですけど…」 彼女が刹那の身体の状態を知っているならば、答えられるだろうと思った。 医者に拾ってもらったことを、やはり幸運だと思うべきだろう。 「あぁ、妊娠ね。大丈夫、心配ないわ」 ドクターの言葉に顔を上げる。 「検査をして陰性だったし、何よりちゃんと来てるわ、生理。だから何も心配ない」 ひどく身体の力が抜け落ちたような感じになった。 思わず隣に座る刹那を見れば、彼女は少し微笑んで、何も心配ない、と言っているようだった。 「よかった…刹那…」 「すまない、心配をかけた」 刹那の肩に顔を埋める。 これ以上刹那があの男に苦しめられるのは、本当にごめんだった。 「こら、いちゃつくなら家でやりなさい」 ドクターの言葉にぱ、と顔を上げる。 思わずここが診療所だということすら忘れていた。 彼女は呆れたような顔をして、白衣からタバコを一本取り出して火を付けた。 「これで心置きなく通院出来るわね。明日もちゃんと来なさいよ、二人とも」 刹那も、やっぱりアリー・アル・サーシェスに受けた傷が治ったわけじゃないらしかった。 ドクターの言葉に頷いて、その場を後にした。 夜、下宿先のベッドに腰を下ろした俺と刹那の前では、シリルが規則正しい寝息を立てて眠っていた。 「ソラン」にまた会えて安心したのだろう、夕食を食べてすぐに横になってしまった。 俺と刹那は、二人で一枚の毛布にくるまりながら、そんな子どもを見てくすりと笑いあった。 話したいことが、山ほどあった。 「俺がいなくなってから、トレミーの皆は…?」 刹那は、ふるふると首を横に振った。 「わからない。確認を、していないから…」 「…どうして戻ろうと思わなかったんだ?エクシアは?」 「エクシアは東京湾の格納庫に入れてそのままだ。 …戻りたいとは、思わなかった。ただ、生きてるのがわかって、そうしたらアンタの故郷を見たくなった」 その後、シリルがお腹にいることがわかった、と、目の前で寝息を立てる子どもを見たまま刹那は続けた。 そうして彼女は、孤児を拾い、あの場所で孤児院を始めたのだろう。 ただ彼女の、贖罪のために。 するりと、刹那の頬に手を添えた。 刹那はシリルに向けられていた視線をこちらに向けた。 孤児院を出るときより、少し痩せた気がした。 「ごめん、な…」 俺がそう言うと、刹那は少しだけ眼を見開いた。 「何故、謝る?」 「お前に色んなもん、背負わせた気がして…」 彼女がシリルを産んだことも、孤児院を始めたことも、全部俺が、彼女に背負わなくていいものを 背負わせた気がした。 俺がせめていなくならなかったら、きっと刹那はああして償いなんて行為、しなくてよかったんだろう。 シリルを産んでくれたことは確かに嬉しい。 けれど、今までのこの五年を考えると、ひどく自分が無責任だったように思えた。 そんな俺の言葉に、刹那は、ただ頭を横に振った。 「アンタが気に病む必要はない。 俺自身が、望んでいたんだ。アンタの色んなものを背負うことを。 そうしていれば、アンタと繋がっていられる気がしていたから…」 なんて、愛おしいんだろうと思った。 胸が詰まりそうになった。 刹那の身体に腕を回して、抱き寄せた。 「ごめんな、刹那…」 「俺の方こそ、すまなかった。巻き込んで、しまった」 彼女がそう言うのが、アリーとの一件のことだというのはすぐわかった。 「巻き込まれたなんて思ってない。アイツのことは、俺自身も関係してるんだから。 だから、刹那が気に病む必要なんて何にもないよ」 そう言っても、刹那は納得したような顔はしなかった。 それがなんだか可笑しくて、ちょっと笑ったら、何が可笑しい、と睨まれた。 「いや、なんか刹那が謝るのって新鮮だなって思ってさ」 「茶化すな」 ごめん、と笑いながら謝る。 「アンタが教えたんだ。悪いと思ったら謝れと」 そう言われ、少し驚く。 でもなんだかひどく嬉しくて、また、抱き寄せた。 「…生きていてくれて、よかった」 真っ直ぐに、何の迷いもなく耳に届くこの声が、ひどく心地よかった。 懐かしいと思えるこの温もりを、慈しんだ。 その日は、シリルを真ん中にして川の字で寝た。 泣きそうなくらいに、幸せだった。 09.05.06 |