翌朝目が覚めてからシリルを連れて町中を歩いた。 人を捕まえてはソランのことを尋ねたけれど、やっぱり、返って来る答えは皆一緒だった。 君の名前−7− 午後になってから、ドクター・メーベルの元を訪れた。 彼女からもらった薬を飲んでからは、だいぶ身体も楽になっている。 通されたのは昨日寝ていた部屋ではなく、診察室のような場所だった。 彼女の机と椅子がそこにあった。 「あら、いらっしゃい。ちゃんと逃げないで来たわね」 「来ますよ。倒れるわけには行かないですし」 俺がそう言えば、彼女はからからと笑った。 傷を見せるよう指示され、服を脱いだ。 楽になったとは言え、やはり右肩は動かすと痛みが走る。 ドクターは慣れ手つきで俺の肩の包帯を解いていった。 「はい、じゃあこれ噛んでて」 そう言って、彼女は厚手のタオルを俺の口元に突き出してきた。 訳がわからず、とりあえず言う通りにする。 「情けない声、その子に聞かせたくないでしょ?」 ドクターはシリルを見ながら、にやりと笑った。 いやな予感がした。 だって彼女が手に持っているのは、消毒液の瓶だ。 「〜〜〜〜〜っ!!」 「我慢なさい、オトコでしょう」 無茶苦茶だ。 こんな寂れた町の医者だから最先端の医療は出来ないにしたって、普通、傷口に消毒液ぶっかけたり なんかするもんか。 痛い、熱い。 傷口が焼けるみたいな感覚に襲われた。 「あれだけ放っておいた罰よ。消毒しなきゃ始まらないわ、こんな傷」 彼女がようやく消毒液をかけ流すのを止めれば、痛みが徐々に和らいでいった。 口に入れていたタオルを抜き取られる。 身体の中に酸素を取り入れて、一息付いた。 「殺す気ですか…」 「消毒液ぶっかけて死ぬ人間なんかいるもんですか。貴方にはこれぐらいの荒療治がちょうどいいのよ」 荒療治だと理解した上でわざとやる辺り、相当性格が捻じ曲がってる。 もしかしたら、とんでもない人間に助けられたのかもしれない、と思った。 「ほら、その子心配してるわよ」 ドクターに言われ、シリルの方を見れば、今にも泣きそうに涙を目に溜めていた。 「ごめんな、大丈夫だよ、シリル」 そう言って頭を撫でてやれば、シリルの顔は少しだけ安心したように見えた。 その間に、ドクター・メーベルは手際よく俺の傷口に包帯を巻いていった。 包帯を巻き終えた彼女は、白衣から取り出したタバコに火を付けた。 「ところで、見つかったの?その子のお母さん」 「あ、いえ。まだ、です…」 「そう。…一つ、いいかしら?」 彼女がそう尋ねたことが意外だった。 傷を負った理由すら聞かなかった人間だ。 何か追求してくることはないだろうと思っていた。 「何故、探している人間を『その子の母親』と言ったの? その彼女が中東の人間なら、その子は似ても似つかない。 貴方の子でも、あるんでしょう?その子」 タバコの煙を吹きながら、ドクターはそう言った。 返答するまでに少し時間が掛かった。 別に言い訳を考えていたわけじゃない。 ただ、それを口にするのが少し、怖かった。 「自信が、ないんです」 「自信?貴方の子どもじゃないかもしれないってこと?」 「いえ、違います。…たぶん。 俺が知らない間に産まれた子で、俺自身が、彼女との繋がりを何も覚えていないから…」 ソランを想う気持ちに嘘はない。 ただ、どうしようもなく不安に駆られるのだ。 彼女が想っていたのは、記憶をなくす前の自分で、今の俺は、彼女との思い出が一切ない。 思い出なんて、と一蹴したいけれど、どうしても、臆病になる。 彼女が、ソランが自分の目の前からいなくなったのは、きっと俺を巻き込まないようにする為だ。 けれどそれはつまり、今の俺では、到底彼女を守りきる力はないということ。 そして、今の俺では、彼女の傍にいることは叶わないということなのだ。 「俺も…質問していいですか。いや、こんなこと聞いていいかわからないんですけど…」 「どうぞ。答えられる範囲であれば」 「…人為的に消された記憶が戻る可能性というのは、どのくらいですか…?」 ドクターはいつの間にか一本目を吸い終え、二本目に火を付けようとしていた。 その動きが特に止まることはなく、彼女は、同じように煙を吐いた。 それが、なんだかため息のように見えてしまった。 「程度によるわ」 「程度…?」 「そう。厳密に言うとね、人間の手で『記憶を消す』ということは不可能なのよ。 人は人であって神ではないから。 言ってしまえば、『消す』のではなく『隠す』のよ」 「隠す…?」 「そう。人の脳もコンピューターと一緒。多くのデータから成り立ってるわ。 そのうちの一部を選び、プロテクトをかける。それが『消された』と思い込んでいる記憶よ。 程度というのは、その記憶を隠すためのプロテクトが、どのくらい強いか、ということよ」 そこまで話して、彼女はまたタバコに口を付けた。 その間に、ドクターの話を頭の中で反芻した。 「プロテクトが強ければ、それだけ思い出すことは困難になるわ。 何重にも鍵を掛けられた金庫だと言えば、簡単かしら。 逆に弱ければ、何かしらのショックで戻る場合だってある」 「それを調べる方法は…」 「記憶を操作した人間でなければ不可能よ。 仮にその人物に偶然巡りあう事が出来たとしても、それが思い出す要因になるとは思えないけれど」 部屋の中に彼女の吐いた煙がたち込めた。 胸がひどく重たかった。 詳しくはわからないけれど、でも機密保持の為に記憶を操作する組織だ。 簡単に思い出せるものだとは到底思えなかった。 「…ニール…?」 くい、とズボンを引かれる。 視線を動かせば、シリルがどこか不安げに俺を見上げていた。 心配を掛けてはいけない、となんとか笑顔を作り、頭を撫でてやる。 ソランに会いたい気持ちは変わらない。 けれど、自信がなかった。 今の俺に、彼女に会う資格があるのだろうか。 ドクター・メーベルの元を去って、しばらく当てもなく町を歩いた。 思考がいまいち定まらない。 その時だ。 後ろの方で、シリルが小さく声を上げたのが聞こえた。 いつの間にか距離を置いて歩いてしまったようだった。 振り返ると、シリルが車道に向かって走り出していた。 彼女の視線の先に小さく光るものが見えたから、ソランの指輪だろうと思った。 その後方で、シリルに近付く車が見えた。 「駄目だシリル、そっち出るな!!」 途端、ずきりと脚に痛みが走った。 肩よりマシとは言え、走ることはまだ叶わなかったらしかった。 あぁ嘘だろ?ちょっと待ってくれ。 止まってくれよ、その車。 大事な子なんだ。 俺と、彼女の大事な――――。 視界に映ったのは、赤いストールだった。 俺を横切り、風に揺れている。 頭を巡った彼女も、同じものをしていた。 『俺さ、お前が好きなんだ』 『……俺はKPSAだった人間だ』 『あぁ、知ってるよ。でもそれでも、やっぱり好きなんだ』 『馬鹿だな、アンタは…』 『ひっでぇの。だって仕方ないだろ』 『お前のこと好きなんだから、 …』 車から避けシリルを抱き上げて肩で息をする彼女にゆっくり近付いた。 背中から、その身体を抱きしめた。 腕の中で、小さく彼女が揺れたのがわかった。 なんでだろう。 どうして俺は、忘れてたんだろう。 何よりも大事に想ってたのに。 何よりも大事にしたいって思ってたのに。 なのになんで、忘れることなんか出来たんだろう。 大切な大切な、君の名前を――――。 「刹那…」 09.05.01 |