※若干のグロ表現あり。 ひどく静かになった家で感じるのは、一つの不安だった。 彼女は、このまま何も言わずに自分の前から姿を消してしまうのではないか。 それは憶測に過ぎなかった。 でも、間違っていない気がした。 君の名前−3− キッチンに立って、用意する皿の数や、マグカップの数が四人分しか必要ないことにひどく喪失感を覚えた。 ここに来てまだ一ヶ月くらいしか経っていないのに、七人分の食器を出すことは、もう自分の中では当たり前に なっていたのだと実感する。 エマが去ってから、一週間ほどが経っていた。 その間、玄関の呼び鈴が鳴ることはなかった。 慌しさを見せていた家の雰囲気は、どこか落ち着いたように思う。 だから、それを見計らって再びソランにあの話を切り出すことを決めた。 シリルの昼寝に付き合って、ダニエルも子ども部屋にいる。 話しやすいタイミングだった。 「ソラン、この間の話の続きがしたい」 ソファーに座って一休みする彼女にそう言えば、ソランはやはりいい顔はしなかった。 「…話すことは何もない。言ったろう、アンタには、」 「関係なくないだろ。なぁ、俺知りたいんだ。頼むよ、教えてくれ」 出来るだけ穏やかに話した。 今の自分に出来る、最大限の彼女への気配りだった。 「…アンタは、何も知らなくていいんだ。…知ろうとしないでくれ…頼む」 ソランはそう言って、自分の手をぎゅ、と握り締めていた。 頼む、だなんて。 そんな風に言われたのは初めてで、逆に戸惑いが生まれた。 「ソラン…?」 俯かれたその顔に手を伸ばした、その時だ。 何の前触れもなく、玄関の扉が勢いよく開いた。 開いた扉の前に立っていたのは、赤毛の、見慣れない男だった。 「よぅ、邪魔するぜ」 男はそう言ってずかずかと家の中に入って来た。 それがなんだか気に食わなくて、ソファーから立ち上がる。 「なんなんだアンタ、何にも言わずに勝手に入ってきて…」 「…めろ…」 後ろでか細い、ソランの声が聞こえてきた。 よく聞き取れなくて、顔を後ろに向ける。 ソランは、見たこともないくらいに顔が真っ青だった。 「やめろ、その男に近づくな!!」 え? 何が起きたのか全く理解出来なかった。 気付いた時にはもう肩に激痛が走っていて、それとほぼ同時に銃声が耳を劈いた。 立っていることが出来ずに床に倒れ込んで真っ赤な血が視界に入って、ようやく、撃たれたのだと理解した。 ずきんずきんとひどい痛みが右肩を襲う。 なんでだ。なんでいきなり撃たれた。 視力の弱った右目で男のことを見ようと、視線を上げる。 目に入った男の顔は、ひどく楽しそうに笑っていた。 その笑みに、ぞくりと背筋に冷たいものが走る。 なんだコイツ。 戦いに溺れたやつの顔なら何度でも見てきた。 でもコイツは違う。 コイツは、「人を殺すことを本気で楽しんでいる」目をしている。 誰なんだ。一体、何なんだ。 「久しぶりだなぁ、ソラン。すっかりいい女になったな」 じっとりと、絡みつくような口調で男がそう言った。 ソランの叫んだ言葉からも、知り合いなのだということは想像出来た。 身体を捩じらせてなんとかソランを見れば、全身を震わせてひどく怯えている彼女がそこにいた。 「な…ぜ、お前がここにいる…」 「なんだぁ、来ちゃいけないのかよ。せっかく会いに来てやったっていうのによ」 なんとか絞り出すように言ったソランのその言葉は、今にも消えそうだった。 男がゆっくりとソランに近付く。 ソランはじりじりと後ずさりをしていたが、やがて壁に追い込まれて身動きが出来なくなってしまった。 「ソレスタなんたらをやってたと思ったら今度は孤児院かよ。 滑稽だなぁおい。元KPSAの少年兵がテロの罪滅ぼしか?」 男の言葉に、心臓がどくりと音を立てた。 「今…何て、言った…!」 言葉を発する度に痛みが襲う。 けど、そんなことを気にしている場合じゃあなかった。 「あん?」 男が顔だけこちらに向ける。 「今、何て言った…!ソレスタ…なんたらって…!」 「なんだ、兄ちゃん知らねぇのかよ。いいぜ、教えてやる」 「やめろ…!!」 男がそう言った途端、ソランが声を上げた。 だが、男は持っていた銃を一瞬のうちにソランの顎にびたりと付けた。 ソランの動きは、完全に止まった。 「ソラン…!」 「今男同士でいい話しようとしてんだ。黙ってな、ソラン」 「…っ」 男が再びゆっくりと顔をこちらに向ける。 その顔はやはりひどく楽しそうで、それが背筋を凍らせた。 「この女はクルジスのKPSAの元少年兵でなぁ。 あぁ、KPSAって知ってるか?俺が暇つぶしで作った組織だ」 今。今なんて言った、コイツ。 俺が、作った? 暇つぶしで? じゃあなんだ。 父さんも、母さんも、エイミーも。 全部、コイツの暇つぶしの一つで、殺されたって言うのかよ。 「て、めぇかよ…。てめぇが、俺の、家族…殺したのかよ…!!」 「あん?なんだ兄ちゃん、俺らのせいで家族死んだのかよ。そりゃ残念だったなぁ」 ふざけんな。 何が俺らだ。 何が残念だっただ。 何もかも許せなかった。 コイツのせいで俺の家族が死んだことも。 コイツのせいでソランが怯えてることも。 コイツの全部が、許せなかった。 「なんだよ急に、どうしたんだよソラン…!」 扉が開く音と共に現れたのは、子ども部屋にいたはずのダニエルだった。 まずい。 そう思った時には、もうダニエルに銃口が向いていた。 「ドア閉めろダニエル!!」 「え…?」 駄目だ、反応が遅い。 痛む身体を無理矢理動かして、ダニエルの方に走った。 銃声が耳に入る。 右脚に痛みが走るのと、ダニエルを突き飛ばして扉を閉めたのは、ほぼ同時だった。 「…っ、ぅあ…っ!」 ずるずると扉に寄りかかった身体が下に下がっていく。 「ニール?おいニールっ!?」 扉越しの少しくぐもったダニエルの声が聞こえる。 無事であることに安堵した。 「…っダニエル…そこから出るな…。シリルと…一緒にいろ…いいな…」 「けど…!」 「お兄ちゃんだろ…シリルのことちゃんと守れよ…」 そう言えば、ダニエルはしばらく返事に間を置いた。 「…わかった」 「いい子だ」 ダニエルの足音がだんだん小さくなるのを確認して、身体を動かした。 先ほどよりも痛みが増した。 それでも、男を睨み付けることは忘れなかった。 俺がダニエルに追い付くまで撃たなかったことが気に食わなかった。 遊んでいるんだ、コイツは…。 「なんの話してたっけなぁ。あぁそうだ、この女がKPSAにいたことだったな。 それからしばらく経ったらよ、コイツソレスタルビーイングとかいう組織に入ってて、 紛争根絶なんてことしてやがる。 大笑いだぜ、全く」 男は声を上げて滑稽だと言わんばかりに笑った。 やっぱり、そうだった。 彼女はソレスタルビーイングの人間だった。 それならばきっと、自分もそうであったはずだ。 それがきっと、自分の失った記憶だ。 それがわかったら頭に上っていた血はすっと引いた。 今やるべきことは、この男を追い返して、彼女を解放させることだ。 「…離れろよ」 「あん?」 「彼女から、離れろって言ってんだ。薄汚い手で触るんじゃねぇよ」 男がゆっくりとソランから身体を離した。 挑発であり、本心だった。 「やめろアリー!!」 ソランが叫んだ。 あぁコイツ、アリーって名前なのか。 そう思うが早いか、アリーはソランの足元に一発、銃弾を撃ち込んだ。 「そこでいい子にしてろよ、ソラン」 「…っ」 この男の言葉は、いちいちソランに恐怖を与えている。 おそらく、少年兵時代にひどく扱われたのだろう。 気付いた時にはアリーはもう俺の目の前で、扉に寄りかかる俺と視線の高さを同じにしていた。 笑っている顔が、ひどく歪んでいる。 アリーが銃を持ったままその手を挙げたことに気付いたが、身体が追いつかなかった。 「ぐあぁああ…!!」 持っていた銃をえぐるように肩の傷口に押し込まれ、激痛が走る。 アリーはひどく楽しそうだ。 「みんなで仲良く家族ごっこってわけだ。いい気なもんだなぁおい」 痛みで意識が飛びそうなのに、それでもアリーの言葉に腹が立つ。 何も知らないくせに、家族ごっこだなんて吐き捨てるな。 あれは、本当に家族だったんだ。 「ぐふ…っ」 腹に一発、拳が入れられる。 座ってることすら出来ずに、床に倒れ込んだ。 銃口がこちらを向いているのに気付いた。 顔の左側を狙った銃弾は何とか避けることが出来たが、右は視力が弱いせいで頬を掠った。 「なんだ、テメェもしやあの時のヤツか」 「…な、に?」 「右側の反応悪いからわかったぜ。 あんときゃ世話になったなぁ、兄ちゃんよ。テメェのせいで、俺は身体半分消し炭になったんだぜ。 きっちり落とし前付けてもらわなきゃいけねぇ、なぁ…!」 「…あ゙あぁ…!!」 肩にヤツの足が乗り、床にぐりぐりと押さえつけられる。 意識が飛びかけたが、なんとか取り持った。 考えてる余裕なんて生まれなかったけれど、それでも一回コイツと戦ったことがあるのだということは理解が出来た。 「アリー…!!」 ソランの悲痛とも言える叫びが聞こえた。 頼むから、そんな声出さないでくれよ。 そんな声聞きたくない。 ソランの声で、アリーの動きが止まった。 意識が彼女に向いてしまったことがわかった。 案の定、ヤツはゆっくりとソランの方に歩を進めた。 やめろ、行くな。 そう叫ぼうと思っても、声が出なかった。 「ソラン、お前は頭がいいからわかるよなぁ。俺最近溜まってんだよ。 昔みたいに、相手してくれるよなぁ?」 ヤツが何を言いたいか、一瞬でわかった。 わかりたくないけど、わかってしまった。 「…あの男と、子ども達には…手を出さないと、約束しろ…」 ひどく震えた声で、ソランが言った。 ふざけんなよ。 これじゃあ俺は体のいい人質だ。 「いい子だ、ソラン」 アリーのじっとりとしたその言葉がひどく気持ち悪かった。 「ソ、ラン…!!」 「動くな!!」 軋む身体を何とか動かそうとして、身を捩った。 だが、ソランの言葉で動けなくなった。 「動くな…黙ってそこにいろ…! …っ動かないでくれ、頼むから…!!」 悲痛に歪み、今にも涙をこぼしそうなソランの顔に、俺は身動き一つ取れなくなった。 言葉を発することすら忘れた。 あぁ、くそ。行くな。行くなよ。 ソランの言葉が金縛りみたいに、俺を動けなくさせる。 二人がリビングを後にするのを見ながら、意識を飛ばした。 なんて、無力なんだろう。 09.04.23 |