あれから三日ほど経って、再びあの夫婦がここを訪れて来た。
その間に、ソランとヘンリックは彼の荷物をまとめていた。

ヘンリックは、何も言わなかった。
ソランが、彼女が決めたことだから、仕方ない、とただ影を落として荷物の整理をしていた。
ヘンリックを交えた最後の夕食は、いつもより豪華で、でもそれが余計に哀しかった。

「元気で。どうか、幸せに」

そう言ってヘンリックを抱き寄せたソランは、どこか泣きそうだった。

「ありがとう」

それぐらいしか言葉が思いつかないみたいにそう言って、ヘンリックは若夫婦と共にここを後にした。
君の名前−2−
一人が欠けたこの家は、まるで別の場所に来たみたいだった。
常に家を纏っていた柔らかな空気は今はどこにもなく、暗く沈んでいた。
家族が一人欠ける、ということは、まさにこういうことなのだと変に実感してしまった。

子ども達はソランに何も言わなかった。
けどどこか非難の眼を持って彼女を見るようになった。
以前まであった、絶対的な信頼はもうないように見えた。
ただシリルだけは、起きている事態が上手く飲み込めてないのだろう。
ヘンリックがこの家からいなくなったことを単純に悲しんでいた。
俺はと言えば、今回のことには一切口出しはしなかった。
そもそも居候で、部外者である自分に口を出す権利はないと思っているから、この家の空気が少しでも
悪くならないように見守る程度だ。

結局、あれからソランに写真のことは話していない。
子ども達の前では気丈に振舞う彼女もどこか暗い影を落としていて、今その状態であの話をするのは酷だと
思ってしまった。
話し始めれば、そのつもりがなくても彼女を責めてしまうであろうことは明白だったから。
ヘンリックがここを去って一週間が経った頃だ。
その日の昼食を食べ終わった頃に、再び玄関の呼び鈴が音を鳴らした。
みんな、息を飲んだ。
顔を見合わせては、次は誰だろうかと、不安を滲ませていた。
ソランが玄関の扉を開け、そして前と同じように相手と言葉を交わした。
入ってきたのは、少し歳の行った、四十代くらいの優しげな雰囲気の女性が一人だった。

「アリア、コリン」

静かに、ソランが二人の名前を呼ぶ。
子ども達は揃って目を見開いていた。
まさか、二人同時になんて、そう考えてるのが容易にわかってしまった。
ソランは、俺と他の子ども達三人を別の部屋に移動させた。


子ども達の寝室になっている部屋に入っても、前みたいなはしゃいだ声は一切耳に入らなかった。
ただ沈黙が続いた。
それを破ったのは、シリルだった。

「アリアとコリン、どっかいっちゃうの?」

小さな少女は今にも泣きそうな表情だった。
エマがそれを宥めるように、彼女を抱き寄せた。
けれど、いつものように言葉を掛けることはなかった。
きっと彼女自身も不安でいっぱいなのだろう。
そこに拍車をかけるように、シリルが続けた。

「エマも?エマもいなくなっちゃうの?どうして?
やだぁ、みんないなくなるの、ぜったいにやだぁ」

ぽろぽろぽろぽろと、シリルの大きな瞳から涙が零れ落ちていた。
彼女を抱いているエマは、その腕の力を強めていた。

「ニール、もいなくなっちゃうの?どっか、いっちゃう?」

そう言われて、ようやく自分は何も考えていないことに気付かされた。
そうだ、彼女はここを閉めると言っていた。
ならば自分はどうする?
ソランがこの孤児院を閉め、もしどこかに行ってしまうのであれば、俺と彼女の繋がりはきっと一切なくなる。
まだ疑問は何も解決していない。
それに、何より彼女とは離れたくない。
もし本当に俺と彼女がソレスタルビーイングの人間だったならば、離れなければいけない理由は、生じなくなるかもしれない。
けど、わからない。
ソランは、一人でどこかに行ってしまう気もした。

シリルの問いかけにやっぱりどう答えたらよいかわからず、ただ彼女の頭を撫でることしか出来ない 自分がひどく情けなく感じた。
ずいぶん時間が経った頃に、ようやく寝室のドアが開いて、ソランが顔を出した。
何も言わなかったが、終わった、ということを知らせに来たのだろう。
子ども達と一緒にリビングに行けば、アリアとコリンはソファーに腰を下ろして顔を俯かせていた。

「ソラン…」

俺がそう彼女の名前を呼べば、ソランは表情を一つも動かすことなく言った。

「二人とも了承してくれた。一週間後に迎えに来るそうだ」

淡々とそれだけ言って、彼女はリビングを後にした。
階段を上ったから、きっと自分の部屋に行ったのだろう。
リビングで言葉を発する人間は、誰もいなかった。


その言葉通り、アリアとコリンを引き取ることになった女性は一週間後に再びやって来た。
ぽろぽろと涙を流すコリンを、アリアが必死に慰めていた。
けれどそのアリアも、瞳一杯に涙を溜め込んでいた。
ヘンリックの時と同じように、ソランは優しく二人を抱き寄せた。

「元気で。仲良くな」

ぎゅ、と二人ともソランの服にしがみ付いて、しばらく離れなかった。
アリアとコリンを抱き寄せるソランの横顔は、やっぱり寂しそうだった。
寂しいのを表に出さないようにしているように見えた。
哀しみに浸る余裕などなかった。
その日の午後だ。
再び、玄関の呼び鈴が鳴ったのは。

呼び出されたのはエマだった。

エマを引き取りに来た人は、ヘンリックやアリア、コリンの時と一緒で、やはり優しげな印象だった。
三十代半ばの夫婦に見えた。
アリアやコリンの時と違ったのは、ソランが子ども達の寝室に終わったことを知らせに来るのが異常に早かったことだ。
もう終わったのか、と声を掛ければ、ソランは何も言わずただ首を縦に振った。
エマは、どうやら即決したらしかった。


「エマ、何でそんなあっさり決めちゃうんだよ」

夫婦が去った後、ダニエルはエマに詰め寄った。
いつも落ち着いていて穏やかな雰囲気のエマは、今はそこになかった。

「わたしが行きたくないって言った所でソランはここ閉めるのやめないよ。
それこそどうしたらいいかわからなくなるもの。だから仕方ないの」
「そんな言い方…!」
「じゃあ聞くけど、わたし達だけで生きていてる?無理でしょ?ダニエルだって、そのくらいわかるでしょ?」

エマの言っていることは正しかった。
仮に抵抗したとしても、きっとソランのことだ。この孤児院はどの道やめてしまうのだろう。
そして子ども達だけで残ったとして、やっていけるか。
もちろん、NOだ。
仕方ない。納得が行かなくても、結局はその結論にたどり着いてしまうのだ。

「やめろ、喧嘩なんてするな」

夫婦を外まで見送ったソランが戻ってきて、二人を諌めた。
だが、エマの剥き出された感情はそのままソランへ向かった。

「無責任だよ、ソラン。
ヘンリック達は何も言わなかったけど、絶対同じように思ってる。
最初からこうするつもりなら、こんなとこ始めなきゃよかったじゃない」

ソランは何も言わなかった。
自分には反論する権利がないみたいに、ただエマの言葉を受け止めているようだった。
ただ、それにエマは余計に反応した。

「なんで何も言わないの?わたしの言ってることが正しいから?
だったらわたし、ソランになんて拾われなきゃよかった…!!」

吐き捨てるように言って、エマはリビングを足早に去った。
シリルが、俺の脚にしがみ付いて震えていた。
ソランの顔を覗き込もうとした。
けど、俯かれたその顔を見ることは叶わなかった。
次の日の昼頃、もうエマの迎えはやって来た。
夜の間に一人で荷物の整理をしたのだろう。
きれいにまとめられていた。

玄関先でソランとエマは向かい合っていたが、お互い何も言わなかった。
昨日の今日だ。
その雰囲気がぎこちないのは仕方ないように思ってしまう。
けれどソランは、細い腕をゆっくりとエマに回して、優しく優しく抱きしめた。
これには俺も驚いたから、きっと彼女の腕の中のエマはもっと驚いているのだろう。

「すまなかった。…愛してる」

エマは、ゆっくりとソランから離れた。

「ひどい、ソラン。そんなこと言われたら、恨めないじゃない」
「恨んでいい。結果的にお前達を捨てたことに変わりはない」

涙で歪んでいたエマの顔は、苦笑いになった。

「わかった。じゃあ、恨んであげる。一生、ソランのことなんか忘れてやらない」

背中をこちらに向けているソランの表情は見えなかった。
けれど、きっと前と同じように、切なそうな表情を浮かべているのだろうなと思った。
ソランが、またエマを抱きしめた。

「…ありがとう」
「わたしの方こそ、ありがとう。昨日、ひどいこと言ってごめんね。あんなの嘘だよ。
ソランが拾ってくれて、ほんとに、嬉しかった…」

涙でか細くなった声は、それでも必死に言葉を紡いだ。

しばらく経って、ようやく涙が止まったエマの表情は、晴れやかだった。
涙でくしゃくしゃに歪んだシリルを慰める姿は、いつもの彼女だ。
エマが去っていく姿を、ソランはいつまでも見つめていた。


その後姿は、ひどく美しかった。
09.04.22


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ほんとは養子縁組とかその辺って何度か顔合わせが必要なのですが、今回はその辺ないことにしてます。
無理矢理ですいません。