家族ごっこ−5−
目が覚めて制服を着込んでリビングに向かうのは、刹那にとってもう自然になった。 最初こそ幾らか抵抗があったものの、その抵抗感も次第に薄れていった。 リビングのドアを開ければ、既にテーブルの上には朝食が用意されていた。 「おっ、起きたな。おはよーさん、刹那」 刹那は何も言わずに椅子に腰掛け、朝食に手を付けようとした。 だが目の前にあった朝食は、ニールによって取り上げられた。 「何も言わずにご飯にありつこうなんて許しません」 どこの母親だ、と思わず口にしそうになったが、刹那はその口を開くことはなかった。 かわりに朝食を取り上げた目の前の男を睨んでやった。 「そんな顔してもダメ。はい刹那、朝の挨拶」 「……」 面倒だ、と思った。 今まで挨拶を強要されたことなんかない。 寧ろ挨拶なんかすればあしらわれる環境にいたものだから、その必要性もいまいちわからない。 挨拶は大事だ、と目の前の男は言った。 特に朝は、起きて言葉を発することで、心がきちんと目覚めるのだと、笑顔で言った。 根拠も何もないようなその言葉だった。 けれど男があまりに笑顔でそう言うから、何も反論する気になれなかった。 「ほら刹那、遅刻するぞ」 「……」 「せーつ?」 「……お、はよう…」 刹那が本当に小さく、ぽつりと言っただけだったが、ニールは笑った。 「おはよーさん。うん、いい子いい子」 朝食を刹那の前に戻して、黒い癖毛をわしわしと撫でてやった。 刹那がぱしり、と思わずその手を振り払った。 「触るな」 「悪い悪い。ほんじゃま、食べるとしますか」 ニールが笑って、椅子に腰掛けた。 「いただきます」と、ニールは言ったが、刹那は何も言わずに食事に手を付け始めた。 ニールが刹那に強要しているのは、今のところ「おはよう」と「行って来ます」、そして「ただいま」の三つだった。 それ以外に挨拶や会話に関して刹那にあれこれ言うことはなかった。 ただとにかく、その三つを刹那が言うことが出来ればニールは笑った。 慣れない、と刹那は思った。 挨拶を三つ、強要され始めてからしばらく経つが、やはり胸がざわざわとする。 言葉に表そうとすると、喉がつかえる感覚がする。 それでもしつこくしつこく男が言うものだから、何とか口を開いている。 リビングに行かずにそのまま玄関を出るという手もある。 だがそうすると、目の前の男は今よりももっとしつこくなる。 特に最近は朝食を抜くとうるさいことこの上ないし、弁当を持って行かなければ学校までまた 足を運ぶ始末だ。 それも面倒なことだから、刹那は渋々ではあるが、一時の胸のざわつきと格闘していた。 朝食を食べ終わった後、大抵刹那が先に家を出る。 ニールは、自分の支度がまだ終わったなくても刹那を玄関まで送る。 「行ってらっしゃい、刹那」 片手に弁当を持って、ニールが言う。 これは交換条件だ。 「いってきます」の挨拶が出来たら、弁当が渡される。 ちなみに弁当を受け取らないという選択肢は、刹那の中でないことになっている。 学校まで持って来られるのだけは勘弁したいからだ。 「……行って、来る」 「ん、気を付けろよ。車に轢かれんなよ、授業ちゃんと受けろよ、学校のやつらと仲良くしろよ」 「…うるさい」 「はいはい。行っといで」 ニールが笑顔で刹那を送り出した。 玄関の扉を出た刹那の手には、しっかりと弁当が持たされていた。 事件が起きたのは昼休みだった。 いつもの沙慈の誘いをいつも通り断った刹那は、一人特別棟の裏に向かった。 屋上も好んで時々行ってはそこで昼食を取っていたが、時間が経つにつれ人が増える。 人の多いところを好まない刹那にとってはあまり芳しくなかった。 そこで見つけたのが特別棟の裏だ。 化学の実験室や美術室などがあり、普段あまり生徒が往来しない特別棟は、その裏も一緒だった。 辛気臭いわりに清掃が適度にされているそこは、他の生徒がほとんど足を運ばない為刹那にとって この上なく快適に過ごせる場所だった。 雑草の生い茂る上に腰を下ろしてニールが持たせた弁当を開ける。 中身は既製品だったりニールが作ったものだったりが混在している。 あの男だって自分の仕事があるのに、ご苦労なことだと思う。 既製品は元より、ニールの作ったおかずもまずいことはない。 だから大抵持たされた弁当は空になる。 その空になった弁当を持って帰れば、嬉しそうに笑う。 その笑顔を見る度に、胸がざわついて居心地の悪い感じがする。 やはり慣れなかった。 あの男の、「あたたかい家族」を作ろうとする様は。 弁当を食べ終わった刹那はその包みを元通りにし、特別棟の外壁にもたれかかった。 ほんの少し当たる日差しに目を閉じた。 だが、それを許さないかのように激しくガラスが割れたような音が耳を劈いた。 しばらくは複数の人間の声が聞こえたが、やがて聞こえなくなった。 大方不注意でガラスを割って、それでそこから逃げたのだろう。 時間からして片付けはしていないことが考えられる。 刹那はため息を一つ吐いて、ゆっくりとそこから立ち上がった。 面倒だとは思ったが、聞いてしまったものは仕方ない。 そのままにはしておけない性分だった。 それに、逃げ出したやつらがわざわざ教師にそのことを伝えるとも思えなかった。 音のした方へ歩いていけば、なるほど盛大に窓ガラスが割れている。 棟の方へガラスの破片が入ってしまっているから、外から割られたのだろう。 ふと、視線を動かすと足元に何かを見つけた。 拾って確かめれば、それはタバコの吸殻。 何本もあるから、不良のたまり場だったのだろう。 「お前か、ガラスを割ったのは!」 棟の中から男の声が聞こえた。 目線を上に上げれば、そこにいたのは何かと生徒に厳しく当たる美術教師だった。 よりにもよって悪い人間に見つかったものだ。 「しかも喫煙まで…!何を考えているんだ!」 そう言われ、自分の手元の吸殻に気付いた。 なんとも悪いタイミングだ。 「お前、一年の刹那・F・セイエイだな?教務室まで来るように!」 刹那はため息を一つ吐いた。 面倒事は、嫌いだ。 09.06.11 ―――――――― 美術教師が誰とかは特に決めてません。苦笑。 |