がさがさと草を踏みつけ、人が踏み固めてやっと道らしいものが出来てる森の中を、おぼつかない足取りで
ゆっくりゆっくり歩を進めていく。
こんなことなら次の街まで送ってもらうんだった、と後悔した。
いくら生まれ育った土地とは言え、こんなところ来ることなどない。
すぐに着くと言ったじゃないか、あの爺さん。
持っていた水も底を付き、さすがにまずいと感じる。
ふと、視線の中に入ったのは、民家だった。
こんなところに、民家?
そう思うが早いか、視界はぐらりと歪んでいく。
たぶん、民家を見つけて安心したのだろう。
複数の甲高い声をどこか遠くで聞きながら、意識を飛ばした。
産み落とされた疑惑の卵−1−
ふ、と意識が上昇する。
目を開けて視界に入ったのは、自分を覗いている何人かの子ども達。
子ども達?
理解するまでに少し時間がかかって、それからぎょっとして思わず跳ね起きる。
子ども達は自分が飛び起きたのに合わせてベッドから離れて行った。
そして、扉の向こうに向かって口々に声を上げる。
部屋を出る子どももいた。

「ソランー、ソラン起きたよー!」

ソラン?誰だ?
ていうかここ、どこだ?

自分の置かれている状況が全く理解出来ずに、きょろきょろ辺りを見回す。
それほど広くも、狭くもない部屋。
俺が今寝ているベッドと、あとは机と本棚。
それだけだ。
生活感は、ほとんどない。

考えを巡らせていると、扉を開く音が耳に入る。
そちらを向けば、そこにいたのは二十歳前後の、たぶん、女。
なんだか女性というには不釣合いだし、かと言って、少女と言うには語弊がある。
そんな、どこか中途半端な成りだった。

途端、俺の胸の辺りがぎしり、と音を立てた。
理由がわからないし、すぐに治まったから、それほど気にはならなかった。

黒い癖毛に、赤褐色の瞳。
少し肌が色黒いから、中東の人間だろうということが、今の俺でもわかった。
自分と同郷であろう子ども達の中で、彼女はひどく浮いていた。

「えー、と…あんた、は?」

俺を見たまま扉の前でじっと立ち尽くすその人に戸惑い、思わず声を上げる。
そんなに凝視されても、金目のものは何も持ってない。
俺が上げた声に、ようやく彼女が動き始める。
手には何やら小さい鍋のような物を持っていた。
それを床に置き、同時に彼女も腰を下ろした。ようやく目線が同じになる。

「ソラン」
「へ?」

思わず妙な声を上げてしまう。

「ソラン・イブラヒム。この孤児院の院長だ、一応」

フルネームと職業まで教えてくれて、そこでようやく、自己紹介されたのだと気付いた。

「覚えてないのか?アンタ、ウチの前で倒れていたんだ」

そう言われ、思い出す。
意識が飛ぶ直前に視界に入った民家。
そうか、あれがここなのか。

「そっか…ありがとうな、助けてくれて」
「礼なら子ども達に言ってやってくれ。こいつ等が見つけなければ今頃アンタのたれ死んでいた」
「そう、か。ありがとな」

視線を彼女、ソランの周りにうろうろとしている子ども達に移し、礼を言う。
子ども達は、どこか照れくさそうに「どういたしまして」と返した。

「こんなところで、何をしていた?」

ふいに掛けられたソランの言葉に、視線を戻す。

「こんな、ほとんど人も入らないような森で何をしていた?」

ソランの声は、先ほどと違い探るようなものがあった。
こんなところで女性一人で孤児院を切り盛りしているのだろうから、やはり安全上の多少の心配はあるのだろうと、
俺は勝手に解釈した。
下手に嘘を言ったところで何の役にも立たないだろうから、正直に話した。

「俺…さ、何年か前からの記憶が、何にもないんだ。大体、五、六年くらいかな。
それで、その間自分に何があったとか知りたくて、国中回ってんだよ」


目が覚めたとき、俺は病院にいた。
利き目である右目には包帯を巻かれ、手足も、複雑骨折をしていた。
医師の話では内臓もかなりダメージを負っていたらしい。
最新医療技術のおかげで、右目以外はほとんど後遺症もなく全快した。
右目は、治療が遅れたせいで多少の視力の低下が見られたらしい。

けれど俺には、怪我をした理由も、右目の治療が遅れた理由もわからなかった。
まるでタイムスリップしたかのように、数年分の記憶が丸々存在しなかった。
最後に覚えているのは、22の時、仕事の依頼で暴力団のリーダーの頭を撃ち抜いたことだ。

医者はテロか何かに巻き込まれて、そのショックで記憶が飛んだんだろう、と話していた。
別に、記憶がなくて日常生活に支障があるわけではなかった。
利き目に後遺症があるとはいえ、狙撃手としてやっていけないわけでもない。
救いなのは家族のことも、テロに対する憎しみも、きちんと覚えていたことだった。

けれど何故か、そのぽっかりと空いた空白の記憶が俺を虚しくさせた。
思い出したい。思い出さなきゃいけない。
そんな衝動に駆られ、その数年、自分が何をしていたのかを探し始めた。


「……そう、か」

少し間が空いて、ようやくソランがそれだけ言う。
同情してくれてる?
いや、なんかそれも違う感じだ。
少し、寂しそうな、そんな表情。
いくらか言葉を交わす中で初めて見た、感情的な顔。
けれどその表情の理由がわからなくて、どう返したらいいかわからなくなった。
ただ、そんな顔を見るだけで、胸がやけに痛んだ。

しばらくの沈黙の後、先に言葉を紡いだのは彼女だった。

「…これから、行く宛てはあるのか?」
「え、や…まぁ、とりあえず次の街まで…」
「なら、しばらくここで休んでいくといい」

ソランのその言葉に、ただ目を丸くする。
けれど正直、ひどくありがたい話ではあった。

「いいの、か?」
「そんな状態ですぐに出られてまたどこかで倒れられても逆に迷惑だ。
どうせ大所帯だ。一人増えようが大差はない」
「じゃあ、お兄ちゃんしばらくここにいるの?」

俺達の会話を聞いていた子どもの一人がひどく嬉しそうに声を上げる。
家族が増えることは、やっぱり嬉しいのだろう。
彼らと同じ孤児であった自分は、ひどく親近感が沸いた。
ソランが子どもの言葉を肯定すれば、他の子ども達も嬉しそうにはしゃいだ。
彼女は、それを静かに諌めた。
その姿はやっぱり女性らしかった。

「まずそれを食べて、それからまた寝ろ。
部屋はここを使えばいい。元々空き部屋だ」

そう言いながら、彼女は立ち上がり、扉の方へ向かう。
子ども達は彼女に付いて行った。
その後ろ姿を、じっと見る。
扉に手を掛けた彼女は、すぐに部屋を出ることはなかった。
顔だけ、こちらに向ける。

「…アンタ、名前は?」
「あぁ、ごめん名乗ってなかった。ニール。ニール・ディランディだ」
「……そうか」

そう言った彼女の顔は、やっぱりどこか寂しそうだった。

静かに閉められた扉を、しばらく見つめる。
ベッドの側に置かれた皿の中には、亡くなった母がよく作ってくれたアイリッシュシチューがあった。


この胸の痛みの理由を、俺はまだ、知らない。
09.04.04

title by=テオ


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