Beautiful World−9−
けほっという小さな咳き込みが、部屋に響いてすぐに消えた。
ソランはクローゼットから洋服を適当に選び、着込んでいく。
少し前から、体調が優れないことは薄々気付いていた。
けれど、休むわけにはいかない。
仕事を休めばその分収入が減ってしまう。
それでは、義姉を助けることが出来ない。

いつも通りマリナからもらった花のモチーフのネックレスをチェストから取ろうとして、止まった。
ネックレスの隣に置いた、あの男から受け取ったメモが目に入った。
どうしてだか、捨てることが出来なかった。
捨てようとしても、その度にあの男の顔が頭を過ぎって、それで手が止まってしまう。
早く捨ててしまえばいいのに。
あんな男の言うことなんか、信じられるわけがないのに。

『すぐ飛んで行くから』

そう言った男の顔が、何度も頭をちらつく。
ソランは頭を振り、男の顔を消し去った。
マリナのことだけでいい。自分は、マリナを助けることだけを考えればいい。
仕事終わりに、いつも通りマリナのいる病院へ向かう。
乗り継いでいる電車でも、やはり咳き込んだ。
身体も、心なしか重かった。
マリナに変な心配をかけてはいけないと、ソランはいつも通り振舞おうと意識した。

病室に入ると、余計なものが目に入った。

「お、ソラン。お邪魔してるよ」

軽く手を挙げ、にこやかにそう言う男が腹立たしい。
ただでさえ具合が良くないのに、この男の顔なんかみたくなかった。
マリナの纏う空気が穏やかだから、余計に嫌悪感が生まれる。

「ソラン…どうしたの?なんだか顔色が良くないみたい」

あぁ、しまった、と思った。
義姉はそういうのに敏感で、隠そうとしてもすぐに知られてしまう。
だから気を引き締めたのに、この男のせいで全部台無しだ。

「何でもない。平気だ」
「でも…」

心配そうに、顔を覗くマリナ。
その顔をこれ以上見たくなくて、あの男に弱っているところを見られたくなくて、ソランは病室を出た。


「ソラン」

病室を出てしばらくして、呼び止められる。
ソランは振り向かなかった。あの男の顔を見たくなかった。

「具合、悪いのか?」

心配そうな声に、ソランの苛立ちは募った。

「…余計なことかもしれないけどさ…無理、しない方がいい」

その言葉に、ソランは男の方に向き直った。

「…っ余計なことだと、わかっているなら口出しするなっ。アンタには関係ないと、何度言えばわかる!?」

ソランが苛立ちをそのまま男にぶつけると、男はその表情に影を落とした。

「…ごめん、そうだな」

傷付いたようにそう言う男に苛立ちがまた生まれて、ソランはそこから逃げるように立ち去った。
腹立たしかった。
自分の立場を理解したように話すあの男にも。
あの男に心配されている、自分にも。
仕事に打ち込んだ。打ち込みたかった。
相手役の男優の白濁を身体に浴びる度に、嫌悪感が募った。
"刹那"では、いられなかった。
"ソラン"の感情など消さなければいけないのに。嫌悪など感じててはやっていけないのに。
NGばかりを連発した。
自分のせいで現場の雰囲気が悪いことに、憤りに似たものを感じた。
休憩が監督から言い渡されたのと同時にトイレに駆け込んで、吐いた。
嫌悪感や気持ち悪さを全部一緒に出してしまいたかった。

「…っは…けほ…っ」

あの男の顔が、頭を過ぎって、すぐに消した。
集中しなければいけない。
余計なことを考えては、またすぐに"刹那"が消えてしまう。

今の自分の状態がどんなものかわからないほど、ソランも視野が狭くなかった。
だから、しばらく病院に行くのはやめた。
マリナに余計な心配をかけさせたくなかった。
きっと今の自分を見れば、精神的に負担をかけてしまう。
自分が義姉の重荷になるのは、絶対に嫌だった。
一週間経っても、状況は良くならなかった。
具合も、仕事も。
マリナにももうずいぶん会っていない。
それが余計にソランにストレスを与えた。

仕事の打ち合わせが終わり、事務所を出たところで、見知った人間を視界に入れた。
正直、会いたくなどなかった。
心配そうに自分を見るその碧色の眼が、ひどく腹立たしい。

「お義姉さん、心配してたぞ」

ソランはふいと視線を外した。
男の姿を視界に入れたくなかったし、男の話も耳に入れたくなかった。

「…やめろなんて言わない。でも一回、休もう。今無理したって、悪循環だ」

ソランの中で、憤りが生まれた。

「アンタに、何がわかるっ。何もしなければ、義姉は助からないっ!」

そう言った直後に、咳き込んだ。
男の前で弱っているところをまざまざと見せたことに、嫌悪が生まれた。
男は、ソランの言ったことに対してすごむ様子は見せなかった。
ただ真っ直ぐと、ソランを見ていた。

「…なぁ、誰かのこと守りたいなら、自分のことまず大事にしなきゃ駄目だ。
自分のこと大事に出来ないような人間が、誰かを助けるなんて出来るわけないんだよ。
身体壊せば守れないし、守られる側だって、心配するんだ」

男の言葉に、ソランは唇を噛んだ。

「…っうるさい!わかったような口をきくな!」

ニールはいつかの病院の時のように、その表情を暗くした。

「ごめん。…でも、間違ったこと言ってるとは、思わない」

ソランは、そこから逃げ出すように走り去った。
これ以上男の話を聞いていたくなかった。
身体が重たくて、思うように走れないのが、悔しかった。
翌日に、ソランはひどく久しぶりにマリナの病院を訪れた。
顔色は良くはないが、それでもいつも通りに振舞えばごまかせるはずだ。
病室に顔を出して、あの男がいないことにまず安堵した。

「よかったわ。あの時顔色悪かったから、体壊しちゃったんじゃないかと思って、心配だったの」
「平気だ。少し、仕事が忙しかっただけで」

そう言うと、マリナも少し安心したように顔を緩めた。

「…ねぇ、ソラン。あまり…無理しないでね。
ソランと一緒にいられないのは確かにつらいけれど…でも、私のせいでソランがつらい思いするのは、
もっと苦しいから。だから…お願いね」

最後の方は少し泣きそうな顔をして、マリナがそう言う。
ソランの頭に、昨日あの男が言ったことが過ぎった。

『誰かのこと守りたいなら、自分のことまず大事にしなきゃ駄目だ。
身体壊せば守れないし、守られる側だって、心配するんだ』

きゅ、と、マリナに悟られないように唇を噛んだ。
あの男の言うことは、間違いではないのだ。それは、わかっている。
だからこそそれを理解する、納得する自分が、嫌だった。
今の自分では、本当の意味でマリナを守ることは出来ていないのだと、実感させられる。
それから数日経った日のことだった。

事務所を出たソランは、遠くに人が立っているのを見た。遠目ではそれが女性だということ
くらいしかわからない。
誰かと待ち合わせか、とも思ったが、どうやら違った。
その女性と距離を詰めれば詰めるほど、その人が自分を見ていることがわかった。
その人は、フォーマル、とまで行かないが、それなりに身なりが整っていた。
淡いベージュのアンサンブルに、ふわりと揺れる黒のロングスカート。
まるで授業参観に訪れた母親のようだ。
だがそんな女性知らない。
一歩、また一歩と、ソランはその女性との距離を詰めていく。
ぼんやりとしかわからなかった顔も、だんだんとはっきりとしてきた。

その顔を完全に捉えたところで、どくり、と心臓が音を立てた。
まさか、と思った。そんなはずがない、とも。

ソランは歩みを止めなかった。否、止められなかった。
そしてようやく、女性の目の前で止まった。

喉がからからに渇いていた。
何故。どうして。
言いたいことは山ほどあった。けれど言葉が出なかった。

女性は穏やかに目を細めた。

「久しぶりね、ソラン…」

どうしてそんな、優しく名前を呼ぶの。

「……母…さん…」

絞り出すように、それだけを口にした。




頭に過ぎったのは、マリナと、そしてどうしてだか、碧色の眼をした、あの男の顔だった。
09.11.17


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もう少し入れたかったけれど、切りがいいのでここまで。