Beautiful World−10−
ソランの頭の中で、ただとにかく母の記憶が巡った。
名前の由来を教えてくれた時の優しい顔。
マリナの父との離別が決まった時の哀しげな横顔。
そして、家を去っていく時の、後姿。


「…何故…ここに…」

ソランの口から出された声はどこか弱々しかった。
そのことに、ソラン自身も驚いていた。
母は、うっすらと笑って口を開いた。その笑みが見覚えのない"女"の顔をしていて、ソランは少なからず嫌悪を抱いた。

「雑誌でね、あなたの仕事のこと知ったの。驚いたわ」

ソランは、何か言うべきだとずっと考えを巡らせていた。
けれど具合の悪さに身体が気を取られ、思うように頭が働いてくれなかった。
口が、言葉を紡いでくれなかった。
たくさん言わなければいけないことがあったはずだ。
何故借金など作った、だとか、何故置いて行った、だとか、何故、今さら現れた、だとか。
そのどれもが、ソランの口から出ることはなかった。

母は相変わらずうっすらと笑みを浮かべたままだった。
ソランの代わりに、母が口を開いた。

「ねぇソラン、わたしと一緒に来ない?」

母からの思いも寄らないその誘いに、ソランはその赤褐色の瞳を見開いた。
働かない頭のせいか、言っている意味が、よく理解出来なかった。
母は構わず言葉を続けた。
その表情には少し悲しみに似たものも帯びていた。

「あなたがこの仕事してるって知って、わたしわかったの。あなた、わたしのお金返してくれているんでしょう?
ごめんね、わたしが逃げ出したばかりにあなたに全て背負わせることになって…」

それはソランにとって意外な言葉だった。
母は、自分が逃げ出したことに負い目を感じていた。ソランという、たった一人の娘に全てを投げ出したことに。
ソランはずっと、自分はもう母にとって必要のない存在なのだと思っていた。
だから母のその言葉は、「自分を捨てた存在」をいう概念をソランに覆させようとしていた。

「ね、もうこんな仕事しなくていいの。
お母さんと一緒に逃げましょう?それでまた、一緒に暮らしましょう?」

母との止まった時間を、もう一度進めることが出来る。
もう、知らない男達に身体を捧げる必要がない。
ソランにとって母のその誘いは少なからず心を揺れ動かした。
だがソランの頭に過ぎったのは、何よりも大切な、義姉の姿だった。

「…それは、義姉さん…マリナも一緒で、いいのか?」

自分だけが逃げ出すわけにはいかない。
自分だけが逃げ出せば、あの社長の矛先は間違いなくマリナに向かう。
それだけは、させたくはなかった。

だがマリナの名前を出した途端、母から一瞬笑みが消えた。
ソランはそれを見逃さなかった。

「マリナって…あなた…まだ付き合いがあったの?」
「病気で…入院している。治療費がいる。俺一人が、逃げるわけにはいかない…」

母は消えた笑みを再び取り戻していた。
だが先ほどよりも、それはさらに作り物染みているようにソランには見えた。

「そんなの関係ないわ。だってもう、他人なのよ、わたし達。
ね、ソラン。一緒に行きましょう?それで、二人で幸せになりましょう?」


ソランはその言葉で、それまで思考のまとまらなかった頭がひどくクリアになった。
全てを理解した。
母は、確かに負い目を感じていた。
けれどそれはソランに対してではない。逃げ出した、自分自身に対して、だ。
何もかもから逃げ出して自由に生きたいと思っている。
けれど"娘を捨てた自分"が、母の中できっと許せない事実なのだ。
だったら取り戻せばいい。
娘を一緒に連れて、もう一度、"逃げ出す前の優しい母"である自分を、取り戻せばいい。
結局母はソランのことを救い出そうなどと考えいなかったのだ。
救い出したかったのは、自分自身。

「…俺は、行かない」
「…っどうして?母さんのこと、もう嫌い?」
「違う。義姉さんを見捨てることが出来ない。それに、あなたが残した借金も返さなくてはいけない」
「だからそれは…!」

母から笑みが完全に消え、ただ今は狼狽する姿がソランの目にありありと映る。
これは、一種の反抗心かもしれなかった。
母の言いなりにはなりたくなかった。母と同じにはなりたくなかった。

「あなたが責任を投げ出すなら俺が背負う。俺は、あなたのような無責任な人間にはならない」

母はそれで悟ったようだった。
ソランと同じように全て理解し、これ以上何かを言っても無駄だと判断したようだった。
その証拠に、もう慌てる様子もなく、ただソランに冷たい視線を向けていた。

「…そう。だったらもういいわ。一生借金に追われて暮らせばいい。
AV女優なんて汚らわしい仕事、ずっと続けてればいい。後悔すればいいわ」

母のその言葉は、ソランのクリアになった思考にダイレクトに伝わって来ていた。
大人という生き物の真実の姿を、母を通して見る事になってしまった。
きっと、あの男もそうなのだろう。
真っ直ぐな碧色。
きっとあの瞳だって、そのうち今の母のように冷たく自分を見下ろすのだ。

「じゃあねソラン。さよなら」

母は踵を返して去っていった。
ソランは、何も言わなかった。母の去って行く後姿からすら、視線を逸らしていた。
音もなく、リビングスペースのドアを閉める。
人がいなかったその部屋はただ冷たく暗い空間が広がっていた。
身体が重たかった。
母との再会はソランに静かに衝撃をもたらした。
頭ではまるで内側から鈍器で叩かれているような痛みがあった。
母の見せた冷たい目が再び頭を過ぎった。
その途端、ソランの胃の辺りに溜まっていたドロドロとした渦巻くような感覚が、一気に喉元まで込み上げた。
反射的にトイレに駆け込み、そして、全部吐き出した。

「…っは、…ぅえっ」

それでも、脳裏に浮かぶ母の顔は消えなかった。
大人は、いつもそうだ。
建前ばかりを押し出していい人間であろうとし、裏では自分のことしか考えていない。
都合が悪くなったら、開き直って全て投げ出す。
今日の母はその典型だ。
そしてきっと、あの男も同じだ。
きっと、自分の存在が疎ましくなったり、重荷に感じたりすれば、すぐに投げ出すのだろう。
あの真っ直ぐな碧色はすぐに母と同じ眼になる。

ソランはトイレからすっと立ち上がり、そしてリビングスペースに再び足を踏み入れた。
チェストの上のメモ紙。あの男の連絡先が書いてある、それ。
捨てることが出来なかった。あの真っ直ぐな瞳がいつも頭を掠めるから。
けれどもう、それに戸惑うこともない。
ソランは悟った。あの男も、大人なのだと。
いつか自分の手を振りほどき、自分に絶望を与えるだけの存在なのだと。
だからそんなものの為に、自分の弱さを一瞬でも晒すわけにはいかない、と。

だって、一番身近な存在であるはずの母ですら、自分を見限ったのだ。
それでどうして、他人など信じることが出来ようか。

『すぐ飛んで行くから』

メモを手に取った時、再びあの男の顔が頭を過ぎった。
けれどソランはそれに躊躇うことなく、メモをぐしゃぐしゃに握りつぶして、ゴミ箱に捨てた。
全てを忘れようと、母が現れた次の日からソランは仕事に打ち込もうと躍起になっていた。
だが身体がそれに付いて行かず、結局は空回りとなってしまった。
監督や相手の男優が自分を見る目が嫌だった。
それ以上に、思うように仕事をこなせない自分が嫌だった。
ソランは休憩が入る度にトイレに駆け込んで吐いた。
食欲が湧かなくてまともに食事を取っていないから、出るのは胃液だけだった。
喉を通る胃酸が、余計に気持ち悪さを増長させた。
トイレに入って吐き出すたびに、母の顔が頭をちらついた。

ソランの調子の悪さは、ついに社長の耳にまで入った。
社長室に呼び出され、行ってみれば、社長はひどく不機嫌そうに眉を顰めていた。

「…ったくよぉ、どう落とし前付けてくれんだよ。どんだけテメーの苦情入ってるか知ってるのか、え?」

社長が低く怒気の含んだ声で話している。
ソランにわかるのは、そのことぐらいだった。
立っているのがやっとくらいで、頭が少しも付いていかなかった。
視界に、どこか霞がかかったような感じすらした。

「やる気がねーなら契約解除すんぞ。わかってんのか、ガキ」

契約解除。
その言葉だけはやけにはっきり聞こえて、なんとか拒否したかった。
けれど、口がからからに渇いて思うように言葉が出てくれなかった。
やめることだけは出来ない。それではマリナを助けられない。
社長がずっと、怒ったように何か言っている気がしたが、ソランの頭には何も入って来なかった。
ただ、マリナと母が交互に頭を過ぎっていた。
ぐらりと、視界が歪んだ。
最後に頭を掠めたのは、あの真っ直ぐな碧色の眼の男だった。
ソランの意識は、そこで途切れた。
夢を見た。
真っ暗い闇の中で、マリナとソランの二人だけが立っていた。
ソランがマリナに手を伸ばそうとしても、何かに足を取られて動けなかった。
いくら足掻いても解けやしなかった。
その間に、マリナはどんどん闇に溶けていった。
手を伸ばしても。どんなに足掻いても。どんなに叫んでも。

マリナはただ、真っ暗な闇に溶けていってしまった。
ふ、と意識が上昇した。
周りをゆるゆると見渡せば、自分の部屋だということがわかった。
部屋の中が暗いから、もう夜なのだろう、とも思った。
全身にびっしょりと汗をかいているのがわかって、それがひどく気持ち悪かった。
ソランは記憶を辿って、それで社長室で倒れたのだと思い出した。
ここへはおそらく社長の付き人が運んだのだろう。ぼんやりと、そんなことを思った。

ソランはゆっくりとベッドから身体を起こした。
社長室にいる時よりはマシになったがまだ身体が重たく、頭にも熱が篭ったような感覚がした。
身体中を何かドロドロとしたものが駆け巡っているような感覚がして、全部吐き出したかったが、吐け
そうになくて、それが余計に嫌だった。
ソランは枕元に置かれた携帯電話に気付き、そのフラップを開いた。
不在着信と、伝言メッセージを示すアイコンがデスクトップにあり、それを開けば、思った通り、社長からのものだった。
しばらくオフで、今撮っている作品は降板だ、と怒気を含んだ声が耳に届いた。

ぐ、とシーツを握り締めた。
悔しくて、たまらなかった。
身体を上手くコントロール出来ないことも。母の冷たい眼に囚われていることも。
ソランは自分自身の何もかもが、悔しくてたまらなかった。
いっそ文字通り、自身の身体全てを差し出して、代わりにそれでマリナが助かればいいのに、とすら思った。
自分の命がマリナに捧げられたらいいのに。
そうしたらもう、こんな思いに駆られることもないのに。

『誰かのこと守りたいなら、自分のことまず大事にしなきゃ駄目だ』

そこまで考えたソランの頭に過ぎったのは、あの男の言葉だった。
どうしてこんな時にまで、頭を過ぎるのだろう、とすら思った。
真っ直ぐに、ただ真っ直ぐに自分を見て、偽りのない言葉を紡ぐ男。
そう、偽りも間違いも、そこにはなかった。
あの言葉が正しいことは、ソランも充分にわかっていた。

『すぐ飛んで行くから』

初めて、だった。
あんな言葉を向けられたのも。あんな風に眼を逸らさず自分を見たのも。
あの男が、初めてだった。

ソランはゆるゆると身体を動かし、携帯電話の明かりを頼りにベッドサイドにあったゴミ箱に手を伸ばした。
手に取ったのは、あの男に繋がるたった一枚の紙切れ。
男にしてはひどく綺麗な字で書いてある、それ。
その番号を、ソランは一つ一つ確実に、携帯電話に打ち込んでいった。
ただ純粋に、声が聞きたいと思った。
あの、偽りのない言葉を投げかけた声が。
そうすれば少しすらい、気持ちが変わるかもしれない、と。

カタリ、カタリと、無機質なキーを押す音が部屋に響いた。
暗い室内で、携帯電話の明かりだけが煌々としていた。
11桁目を押し終えて、ソランの手はそこで止まった。

いつか、母のように見限られるかもしれない。
そんな考えが、ソランの頭を過ぎった。
裏切られるかもしれない。あの真っ直ぐな眼はすぐに逸らされるかもしれない。
そう思うと、再び身体が重くなった感覚がソランを襲った。

それでも。

それでもただ、すがりたいと、そう思った。

通話ボタンを押し、耳に電話を持って行った。
ドクリ、ドクリと、ゆっくりだがひどく大きく、心臓が動いていた。
二回、三回と、コール音が重ねられた。
そして五回目のコール音が鳴り終わった時に、焦がれたようなあの声が、耳に届いた。

『もしもし?』

あぁ、とソランは思った。
耳に真っ直ぐに響く声に、歓喜に似たものを感じた。
ソランは何も言葉を発さなかった。発することが出来なかった、という方が正しいかもしれなかった。
喉はからからに渇いて、何も言うことが出来なかった。

『もしもし?もしもーし』

耳に、身体中に響き渡る、男の声。
このまま何も言わなければ気付かれないだろう。男にとってはただの悪戯電話で終わる。
それが一番問題ない。
けれどソランの中で、別の思いが生まれ始めていた。
届いてほしい、と。気付いて、ほしいと。

『おーい、もしもーし。…イタ電か?』
「……っぁ…!」

切られる。
そう思った瞬間に、擦れたような声が、喉から出された。

沈黙がしばらく続いた。
電話越しの男は、ソランの小さな、本当に小さな叫び声を、確かに拾い上げた。

『…ソラン?』

最初に感じたものとは比べようのない、確かな歓喜が、叫びだしたいほどのそれが、ソランの胸に溢れそうだった。

『ソラン、だろ?…どうした?何かあったか?』
「…っぅ、ぁ…っ」

何か言わなければと口を動かしても、言葉にはならなかった。
それがひどく悔しい。
ちゃんと、言わなければ。そうでなければ、届かないのに。

『今どこにいる?何かあったんだろ?なぁ、どこにいる?教えてくれソラン。すぐ、行くから』


『すぐ飛んで行くから』

その言葉に、偽りなどなかった。
喉が詰まって溢れかえりそうになる感覚を何とか抑えて、ソランはゆっくりと、けれど確かに、ニールに
アパートの住所を伝えた。
『待ってろ』と、そう言って男は電話を切った。


ただじっと、ソランは身じろぎもせずにベッドの上で時が過ぎるのを待った。
どのくらい経ったかは、全く感覚として掴めなかった。

仮にここへあの男が来たとしても、そこにメリットなど一つもない。
見返りなど何も望めないのに、それでも、来るのだろうか。
たったあれだけの電話で自分のことを信用して、疑いもせずに。

そんな考えを巡らせていた、その時だ。
部屋中に、来訪者を告げるチャイムが、ひどく大きな音を立てて鳴り響いた。
その音に、ソランは胸を震わせた。
ゆっくりとベッドから立ち上がり、おぼつかない足取りで、一歩ずつ玄関に向かった。

「ソランっ」

あぁ、馬鹿じゃ、ないのか?

ドア越しに耳に届く少し息の荒い男の声に、ソランは再び何かが溢れかえりそうな感覚を覚えた。
本当に来るなんて。何の疑いも持たずに、本当に来るなんて。

本当に来て、くれるなんて。


ソランは玄関のドアのチェーンと、そして鍵を外して、ドアをゆっくりと開けた。

目に入った真っ直ぐな真っ直ぐな碧色の眼に、ソランは全てのしがらみが溶けていくように感じた。
倒れ込むように、男の身体にすがった。


抱き留めた腕は温かく、ソランはただ温もりに身を委ねた。
09.12.02


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