Beautiful World−11−
カーテンから差し込む朝日に、ニールは身じろぎした。 ゆっくりと目を覚まし、朝だということを確認した。 時間はわからないが、日の上がり具合から言ってまだ早そうだった。 視界に黒い癖毛が入り、覗き込むように見れば、まだソランが眠っているのがわかった。 思ったよりも安らかな顔をしていて、それがニールを少し安堵させた。 昨晩の、息の詰まるような、でも弱々しい電話越しの声。 最初はただの悪戯電話かと思った。 けれど、どうしてだか切れなかった。 小さな、本当に聞き逃してしまいそうな、彼女の声。 実際、ニールが拾わなければそのまま流されてしまったのだろう。 ソランだ、という、根拠もないような確信があった。けれど間違いではなかった。 住所を告げる今にも消えてしまいそうな声に、気が気でなかった。 何があったかなんてわからない。 けれど、何かはあったのだ。 アレルヤやリヒテンダールの誘いも断って、ただとにかく車を飛ばした。 結果的にソランの家に泊まる、なんていう少しばかりまずい形にはなってしまったが、今はそれでよかったと ニールは思っている。 ソランは玄関のドアを開けるとニールの身体に倒れこんでそのまま意識を飛ばしてしまったし、何よりも彼女は ニールの上着の袖を掴んだまま、離れる気配がなかったのだ。 そしてそれは今もそのままだ。 ソランはニールの上着の袖をしっかりと掴み、離そうとはしなかった。 頼りにされていることを嬉しいと思う反面、今までその片鱗すら見せなかった彼女の仕種に、やはり異常を 感じたのも事実だ。 それは彼女の姿からも見て伺える。 ソランは最後に会った時よりもさらにやつれ、顔色が悪くなっていた。 その彼女を放って帰るなど、ニールには出来なかった。 同じベッドで眠るという状況下でニールの中にほんの少しでも心に滲んだ男としての下心は、ソランの姿を目にして すぐに消え去った。 会うことのなかった間のソランの状況を思うと、ただ胸が痛んだ。 隣で眠る少女が小さく身じろぎし、それでニールも考えることをやめた。 ソランはその赤褐色の眼を開いたが、まだ少し目が覚めるには時間がかかるようで、ぼんやりとしていた。 ニールを視界に入れると、途端に覚醒したのか、瞳を見開いた。 固まっている様子からして、現状把握はまだ出来ていないようだった。 ニールはその様子に、くすりと小さく笑った。 「おはよ、ソラン。よく寝れたか?」 そう言うと、彼女はようやく状況を理解したのか、目を丸めたりバツが悪そうだったりと、色々と表情を変えていた。 ニールはそれが珍しくて、面白かった。 無表情に近いそれだが、こんな風に彼女が表情を動かすのは初めて見たのだ。 慌てて離された袖を掴む手に、少しだけ寂しさを感じたのは顔には出さなかった。 「具合どうだ?少しはいいか?」 ニールが落ち着いた様子でそう言うので、ソランも少しずつ落ち着きを取り戻したようだった。 こくり、と小さく頷いた。 「そっか、ならよかった」 くしゃりと、ニールはソランの癖毛を撫で上げた。 それにソランが拒絶を示すことはなく、ただ黙ってそうされるのを受け入れていた。 そのことを、ニールは少なからず嬉しく感じる。 頼りにされたことも受け入れられたことも。 ソランの変化はニールにとっては嬉しさをもたらしたものもあった。 キッチンをいじることを了解してもらって、ニールが朝食を作ることにした。 まだ彼女にはゆっくりとしていてもらいたかった。 だが冷蔵庫を開けて、まともな食材が入っていないことに驚いた。 ソランに何か消化にいいものをと思ったが、残念なことにそれは出来なさそうだった。 ニールは同時に、ソランの不規則な生活を垣間見た気がした。 冷蔵庫の中身と、そしてあまり使われていないキッチンからして、自炊はほとんどしていなかったのだろう。 彼女の、折れてしまいそうな身体を思うと、どうしようもなくやり切れない気持ちになった。 キッチンだけではない。 倒れこんで来た彼女を運んだリビングスペースも、彼女の生活を物語っている。 一般的な1Kの間取りのこのアパートは、引っ越して来たばかりかと疑うくらい荷物がなかった。 ベッドと、チェストと、申し訳程度に部屋の隅に置かれた全身鏡と、そして食事を取る為であろうローテーブル。 チェストの上にはいくらか小物もあったが、それだって数えるほどしかない。 ニールにとってこの部屋はひどく寒く感じた。 それは彼女の性格も相まっているのだろうが、この部屋は、彼女がただ帰宅して睡眠を取る為だけの部屋にしか 思えなかった。 それくらい、執着を覚えない部屋。 彼女にとっては、きっとこの部屋は安らぎを得る為の場所ではないのだ。 どうにか、してやりたかった。 彼女を取り囲んでいるであろう悪い状況を、何とかしてやりたかった。 出来上がった朝食を二人で食べた。 ソランはやはり食欲が湧かないのか、だいぶ残していた。 少しだけ申し訳なさそうな顔をするソランに対して、ニールはただ「気にするな」と繰り返した。 「なぁ、ソラン」 朝食が終わって、まだ少し時間に余裕があるのを知ったニールは、口火を切った。 「何が、あった?」 踏み込んだことはすべきではない、とニール自身よくわかっている。 それでも、ソランに何があったのか知りたかった。 彼女が自分を少しでも受け入れてくれたならば、話してくれるのではないかという期待が小さくもあった。 だがニールの問いに、ソランは小さく顔を俯かせた。 その仕種に、やはり自分が知るにはまだ早いのだとニールは実感する。 「ごめんな、話したくなけりゃ、それでいいんだ。ごめん。 ただ、最初会った時みたいに追っかけられたりしてなきゃいいなって、思ったりしてさ…」 ニールがそう言うと、ソランは少し目を丸めた。 「あれは、違う」 「違う?」 「アンタが言っているのは、俺とアンタが道でぶつかった時のことだろう。あの時俺を追っていたのは、 社長の付き人だ」 「付き人…?」 「事務所の前で出待ちをしていた人間がしつこくて社長に話したらあの三人を付けられた。 だがそれも鬱陶しくなったから逃げたところにアンタにぶつかったんだ」 ソランの話に、ニールは肩がふっと軽くなった気がした。 「そっか…。なら、よかった。俺、あいつら借金取りなんじゃねぇっかって思ってさ…」 ただの社長の付き人ならば安心だ。 あの身なりに少し疑心を抱かずにはいられないが、それでも彼女を脅かすような存在でなければ、 それが何よりだと思った。 「…そんなに、気にしたのか」 「そりゃ気にするって、あんな格好してるようなヤツラに追いかけられてりゃ。あーよかった」 溜まっていたものを吐き出すように、ニールが安堵のため息を吐いた。 だがニールが言葉を発した後、ソランから何も反応がないのが気になって顔を上げれば、彼女は 怒っているわけでもなく、かと言って悲しんでいるわけでもなく。 ただなんだか、意外そうな顔を見せていた。 「…ソラン?」 その理由がわからなくて、名前を呼んでみれば、彼女自身も自分の表情にどこか気付いたようで、 「なんでもない」とそう言って、顔を背けてしまった。 ニールは不思議そうに首を傾げたが、それ以上追求はしなかった。 ニールがふと気付いて腕にはめている時計を見れば、もうすぐ七時になろうとしていた。 少し急いで帰宅すれば、着替えくらいは出来そうだった。 「ごめんな、俺仕事行かないとなんだ」 ニールがそう言った事に対して、ソランは特に気にしていないようだった。 寧ろ、ニールが謝ったことに疑問を抱いているような顔を見せた。 おそらくそれが当たり前だと予測していたのだろう。 「別に、構わない」 ソランは平然とした様子でそう言ったが、ニールはそれに素直に頷くことは出来なかった。 ニールとしては、出来ることならソランの傍にいてやりたかった。 体調の万全でない彼女を一人にしていくことが心残りだ。 「今日、仕事は?」 「ない。…しばらく、オフだ」 そう言った時のソランの顔に少し影が落ちたのを、ニールは見逃さなかった。 「休み、なのか?撮影は?」 「…社長が、しばらくオフだと言った。今撮っているのも、降板だと」 悔しいのだろう。仕事が出来ずに、義姉を助ける唯一の手立てを失われた現状が。 やり場もなく力を込められた手が、ニールにはひどく切なく感じた。 「仕事終わったら、また来るから」 そう言って、ニールはソランの手に触れた。 それで少し、固く握られた手から力が緩んだ。 「今はゆっくり休もう。な?」 彼女が、他人からの甘い言葉を享受しないことはよく知ってる。 案の定ニールの言葉を受けてソランは触れられた手を引っ込めてしまった。 それでも、ニールはそれを言わずにはいられなかった。 彼女に直接こんなことを言うことは出来ないが、社長が言い渡したというオフは、いい機会だと思った。 少なくとも体力の落ちてしまっているソランの回復には繋がるだろうし、気分も変わるだろう。 彼女の心がそれを望んでなくても、きっと彼女の身体は休むことを望んでいる。 手を引っ込めてニールの顔を見なくなったことに、ニール自身胸を痛めたが、それは仕方ない。 立ち上がって、出かける支度をした。 一晩一緒にベッドに入った上着の皺が少し気になったが、それほどひどくもないことに安堵してそれを着込んだ。 ソランは出かける準備をするニールに視線も送らず、ただ顔を俯かせていた。 玄関で靴を履いていたニールは、リビングスペースとキッチンを間仕切るドアが開いた音に顔を動かした。 出かける時に声を掛けた時ですら微動だにしなかったソランが見送る為に立ち上がってくれたことに、 少しの驚きと、そして喜びを感じた。 「ありがとな、ここでいいから」 靴を履いて、立ち上がったニールはソランに向き直ってそう言った。 ニールから見るソランの表情はいつものないものに等しくて、それでソランからは何も言葉がないだろうと 踏んで玄関のドアに手を掛けようとした。 「すまな、かった…」 小さくどこか躊躇いのある、でもしっかり聞き取れる、彼女の声。 それが耳に入って、ニールは思わず振り返った。 ソランは顔を俯かせていて、表情を見ることは出来なかった。 「煩わせて、すまなかった…」 もう一度、ソランが繰り返し言った。 たどたどしい、けれど彼女の、真っ直ぐな言葉。 たったこれだけを言う為に、ソランはリビングから立ち上がって自分の所まで来たのだ。 彼女の言葉も行動も、その全部がニールにはひどく愛おしかった。 手を伸ばして、ソランの癖のある黒髪をくしゃりと撫でた。 「謝んなくていいよ。今は、自分のことだけ考えてればいいから」 黒髪の隙間から見えたソランの表情は、少しだけ穏やかなものに見えた。 09.12.07 ――――――――― ニール・ディランディ(26)の理性に乾杯。笑。 |