Beautiful World−12−
ニールがソランからの突然の電話を受けてから、一週間が経とうとしていた。
その間ニールは仕事が終わると、足しげくソランのいるアパートへ向かった。
仕事が立て込んでいて遅くなってしまう時には、電話をして声だけでも聞いていた。

ニールはソランに出来るだけ消化のいい、それでいて栄養価の高いものを作った。
おかげでソランのアパートの冷蔵庫は食材が充実するようになった。
最初は食欲が湧かず残しがちだったソランも、日を追うごとに食事量が増えていった。
少しずつ体調が元に戻って来ている事に、ニールは安堵した。
けれどそれは決して根本的な解決には至らないということも、充分に理解していた。
ニールは職場の自身のデスクに座りながら、これからのことを考えていた。
ソランを取り巻く現状を何とかしてやりたいと思いながらも、具体的な方法は何一つ思い浮かばなかった。
ソランの体調は少しずつ良くなっている。顔色も、一時期より健康的だ。
けれど、今のオフが終わって、「仕事」が始まれば、きっとまた同じことの繰り返しになってしまうのだろう。
それでは意味がないのだ。
根本的に、彼女の問題を解決する術がなければいけない。
とは言え自分に出来ることは限られている。
こういう時、ただのサラリーマンであることがひどく歯痒く感じてしまう。

「こらぁっ!」

ニールの思考が突然途切れたのは、頭に来た衝撃と、お怒りの言葉からだった。
痛む頭を抑えながら顔を上げれば、そこには分厚いファイルを持ったスメラギがいた。
その表情にいつもある余裕は微塵もなかった。

「納期が迫ってんのに何ぼーっとしてるの!手動かして頭動かして!」

そのスメラギのどこか切羽詰った声に、ニールはようやく慌しい空気に包まれたオフィス内に気付いた。
普段冷静なティエリアさえ、纏う空気は少しピリピリとしている。

一週間後に受注先への納期が迫っているという現実を思い出した。
ティエリアが自分を睨みつけるように送る視線がこの上なく痛かった。
それで、慌てて自身のデスクに向き直った。
けれど頭はやはり仕事のことよりもソランのことを考えてしまっていた。

「リヒティこれコピーしてっ!」
「そんくらい自分でやって下さいっ。こっちだって今手いっぱいなんスからっ!!」

慌しいオフィスは軽く戦場のような状態だった。
スメラギとリヒテンダールの苛立ちすら含まれたような会話は、ニールの左耳から右耳に抜けていった。

「あー休みたい!!」
「無理っス!アンタ仕事請けすぎなんスよっ。ウチみたいにちっさい支社が賄える限度超えてるんス!!」
「あーもーお酒飲みたーい!猫の手でも借りたいわよー!!」

スメラギとリヒテンダールのやり取りには誰も仲介をする人間はいなかった。
しかしニールはスメラギの言葉だけを拾い上げると、ガタリ、と音を立ててニールは自身のデスクから立ち上がり、
スメラギの所へ向かった。

「ミス・スメラギ、今なんて言いました?」
「え?お酒飲みたーい…え、何奢ってくれるの?」
「違います奢りません。そこじゃなくて、その後です」

スメラギは少し間を空けて、自身の言葉を手繰り寄せた。

「…猫の手も借りたい…?」

ニールはそれで、それまでの悶々とした思考が一気に晴れたような気分になった。

「ほんとに猫でいいんですか?」
「本物の猫連れてきちゃイヤよ」
「誰も本物なんて連れてきませんよ。そうじゃなくて、建築とかの知識とか何もなくてもいいんですか?」
「まぁ、手が足りないのは雑用とかだし、なくても困りはしないけど…」

スメラギの肯定の言葉は、ニールに一つの可能性を見出させた。
それまで纏っていた冴えない空気が嘘のように、嬉々とした表情を見せた。
ニールは自身のデスクに戻ってもその緩んだ表情は変わらず、周りの緊張感など一切目に入っていない様子だった。
その彼の変化にスメラギを始めとする同僚達は目を丸めた。
呆れや驚きが先行して、誰もニールを咎めようとはしなかった。

「真面目に働けロックオン・ストラトス!!」

ただ一人ティエリアが怒号を飛ばしたが、ニールはまるで気にする様子がなかった。
しかしその日のニールの仕事のペースは、オフィス内にいた誰もが呆気に取られる程の早さだった。
「……バイト…」

ニールが夕食に作ったトマトリゾットを一口口に運んで、ソランがぽつり、とそれだけ言った。

「そ。俺んトコの事務所で、働いてみないか?今ちょうど人手が足りなくて困ってんだ」

ニールが考えたのは、ソランに自身の職場である建築デザイン事務所でバイトをしてもらうことだった。
体力が比較的回復した今、アパートでただ時間を持て余すのはもったいない。
かと言って本業であるAV女優の仕事はまださせたくはなかった。
時間を有効活用できて、尚且つ賃金を稼ぐことが出来る。
今までいた場所とは全く違う環境だ。彼女にとっては戸惑いも生まれるかもしれないが、それだっていい
気分転換に繋がるだろう。
上手く続けば、彼女の本業の仕事量を減らせる可能性だって生まれるのだ。
それに何より、自分の目の届くところにいてもらえる。
自分勝手だと言われようが、ニールは今のソランから目を離したくはなかった。

これが根本的な解決に繋がるかと言えば、決してそうではないだろう。
ソランの本職であるAV女優の仕事に比べれば微々たる賃金だ。
マリナの治療費も、母が残したという借金も支払うほどのお金を得られるわけではない。
結局ソランに今の職を手離すという選択肢がないことに変わりはない。
けれど、ニールは今はそれで充分だと思っている。
AV女優をやめるか続けるかはソラン自身が選ぶことであって、それは、自分が口出し出来る範囲を超えているからだ。

「…俺には建築の知識がない」
「大丈夫、やってもらうのは知識がなくても出来るようなことばっかだから」

どこか渋る様子のソランに、ニールは引き下がることなくそう言った。
それでもソランが頷くような様子は見えなかった。

「それに、マリナさんだって安心させられるんだ」

ニールがマリナの名前を出すと、ソランはそれに反応して顔を上げた。

「前に俺の事務所で働いてるって嘘、吐いたろ?あれが嘘じゃなくなるんだ。バイトでもほんとに働いてれば、
既成事実になるだろ。
マリナさんも余計な心配しなくていいし、口裏だって合わせやすくなる。
お前さんが変に後ろめたい思いしなくても済むんだ」

一石二鳥どころではない。三鳥にも四鳥にもなるのだ。
ニールにとってもソランにとっても、そして気休めではあるがマリナにとってもメリットが生まれる。
ニールもそれだけのことを考えて、ソランにこのことを話したのだ。
数々のメリットの大きさをソランも理解したのか、先ほどの渋るような顔付きから考え込むそれに変化していた。

「な、どうだ?」

返答を促すように、ニールがそう言う。
ソランは顔を上げ、しばらくじっとニールを見つめた。
真っ直ぐな赤褐色の瞳を正面から見ることになったニールだが、決してそれを逸らそうとはしなかった。

「…なら…頼む」

ぽつり、とソランが承諾の返事をした。
ニールはそれに、顔を緩めてひどく嬉しそうに笑った。

「あ、じゃあコレ履歴書な。念のため書いといてくれるか。で、あとこっちは一応ウチの会社のパンフレットな」
「…アンタ、最初から断らせるつもりなかっただろう」

ソランの鋭い指摘には、ニールは笑うだけで肯定も否定もしなかった。
玄関で靴を履いて立ち上がり、ニールは廊下で立ったままのソランに向き直った。

「じゃあ帰るな。戸締りしっかりするんだぞ」

ニールの忠告に対してソランは何も返事をしなかった。
ニールにとってそれはもう慣れたことで、小さく苦笑いを浮かべるだけだった。
こうやって玄関口まで見送ってくれるだけでも充分なくらいだ。


ニールがあの日以来ソランのアパートに泊まったことはなかった。
元々選択肢がそれしかないかのように、翌日の仕事に支障のない時間に帰宅する。
それは倫理的な問題であり、ニール自身がそこまで踏み込んだことをするべきではないと考えているからだった。
ソランがいくら少し気を許してくれたと言っても、結局自分達の関係に名前のないことは明白だ。
その、名前のない関係以上のことをすべきではないのだ。
目の届かない間心配か、と問われれば当然ニールはそれを肯定する。
自分がいない時の食事はきちんと取っているかとか、そんなことばかりを考える。
しかし行き過ぎた行動はこの名前のない関係にすらひびを入れることになってしまう。
ソランの体調が戻りつつある今、それはニールも避けたかった。

ニールは踵を返そうとしたが、ソランからの視線が何か言いたげな様子であることに気付いた。

「どうした?」

ニールはそう尋ねたが、すぐにソランから返事が来ることはなく、首を傾げた。

「聞かないのか」

ぽつりと、ソランが言った。
それを皮切りにそのままソランは言葉を続けた。

「アンタに電話した日、何があったのか。アンタは何も、聞かないのか」

ソランのアパートに泊まった日こそそのことを口にしたが、それ以降ニールがソランに何があったかは
一切聞くことはなかった。
ただ夕食を作りに顔を出して、ソランの体調に変化がないか見るだけだった。
そこに見返りを求めようとしないから、ソランも疑問を持たずにはいられなかったのだろう。
ニールはソランの言葉に一瞬だけ目を丸めて、それから穏やかな顔をした。

「じゃあ、聞いたら教えてくれるか?」

ニールがそう言うと、ソランは少しだけ肩を強張らせた。
ニールはそれをほぐす様に、ソランの頭をくしゃりと撫でた。

「知りたくないって言ったら嘘だよ。でもお前さんが言いたくないのを無理に聞こうとは思わない。
だから、聞かせたくなったら、その時教えてくれな」

ソランが顔を上げて、ニールに真っ直ぐに赤褐色の瞳を向けた。
それをとても綺麗だと、ニールは素直に思った。

ニールはソランの頭から手を離し、玄関のドアに手を掛けた。
だが、くん、と上着が引っ張られる感覚に、再び顔をソランの方に向けた。
ソランは顔を俯かせて、ニールの上着の端を遠慮がちに掴んでいた。

「…すまない。アンタにこれだけ世話になっていながら、何も、しないで…」
「ソラン、」

気にしなくていい、そうニールが言おうとした。

「…あ、りが、とう…。…その、仕事の、ことも…」

たどたどしく紡がれた言葉は、しっかりとニールの胸に響いた。
慣れない言葉を、それでも届けようとする彼女の気持ちが、ニールにとって何よりも嬉しさをもたらした。
後から後から、喜びが込み上げるような感覚を覚えた。

「うん、どういたしまして」

嬉しそうに、ニールがそう言った。

自分達の関係に名前はない。
けれどそれでも、こんな風に温かな気持ちになれるのなら、今はそれで充分だと、ニールはそう思った。
09.12.11


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しまった。前回と同じような終わり方になった。(…