Beautiful World−13−
 "株式会社ソレスタルビーイング"

 "今年で創設200年を迎える。
 我が社は、起業者であるイオリア・シュヘンベルグの理念を受け継ぎ、個人の住宅から
  商業ビルまで、一つ一つを大切に造っています。"
「ソレスタルビーイング…」

ソランは、目を通していた会社のパンフレットから顔を上げて隣でハンドルを握る男を見た。

「そ。俺の職場の、親会社みたいなもん。まぁ、ほとんど独立してるようなもんだからあんまり関係ないけどな。
それでもたまに上から発注受けることもあるんだぜ」

ソランは、パタリと冊子を閉じた。
運転席に座る男に(半ば強制的に)手渡されたものだったが、どうやらあまり読み進めても意味はないらしい。
最後のページに、関連会社として男が以前渡してきた名刺に記された会社名のそれと同じものが記載されて
あったから、それだけで十分だ。


「それより履歴書、書いてきたか?」

ニールが正面を向いたままソランに尋ねた。
その問いかけに、ソランは少し、表情を曇らせた。

「…書いては、来た」

キッと短く音を立てて、赤信号で車が停まる。

「どうかしたか?」

ニールは歯切れの悪いソランの返事に、彼女の方へ顔を向けた。
ソランはニールの方は向かず、少し俯き加減に答えた。

「職歴の所に、正直に書いていいか、迷った」

恥ずかしいとか、そういうことを気にしているわけではなかった。
ただ、自分を紹介したこの男に波風が立つのではないか、と思うと、ペンを持つ手が止まった。
自分の仕事に対して後ろめたさがあるわけではない。それで義姉が助かっているのだ。
しかし、あまり堂々と出来る仕事でないことも、ソランは十分に理解していた。
既にこの男には散々世話になっている。
これ以上迷惑を掛けることは、果たして許されるだろうか。

「それで、何て書いて来た?」
「…一応、正直には、書いた」

信号が青に変わる。ニールはギアを操作してアクセルを踏み、車を再び走らせた。

「それでいいよ」

ニールのはっきりとした言葉に、ソランはようやく顔を上げた。
見えたのは彼の横顔だけだったが、その表情は柔和に見えた。

「だってその仕事は、お義姉さんを助ける為のものだろ?だったら別に、何も気にしないで
堂々としてればいいんだ」

驚いた。
普通は、隠してほしいものだと思っていたから。
だから逆に、ソランはその答えが意外だった。
だが、その言葉が、気持ちが、ソランをゆるりと絆していくのは確かだった。

「…すまない」
「ん、どういたしまして」

車内はそれから、柔らかな沈黙に包まれた。
会社の駐車場に車を停め、ニールの会社だという三階建てほどの、それほど大きくはないビルが
ソランの目に入った。
会社に入る前に、ニールが少しバツの悪そうな顔をして笑っていた。

「今わりと忙しいからさ、結構バタバタしてるんだ。だから、先に謝っとくな」

忙しい所に入るという元々の約束だ。
ニールの言葉に、ソランは別段表情を変えることはなかった。


だが、オフィスに足を踏み入れた瞬間、ソランはさすがにその表情に驚きと戸惑いを浮かべた。
ひどく張り詰めたような空気と騒がしさ入り乱れている。
ソランの職場であるスタジオも時折似たような空間を持っているが、まさかこんなところでも
それを味わうことになるとは思わなかった。
忙しい時期だ、とは確かに聞いていた。
ソラン自身も、こういった場に馴染みがないからイメージでしかない。だがこういう、普通のオフィスの
中というのは、もっと静かな緊張感に包まれているものだと思っていた。

「リヒティ資材の資料どこやった!?」
「あーっと、確か上の棚っス」
「おぅい、ここの確認申請まだか」
「おいおい誰だぁこんなトコにファイル山積みにしてんの」
「スメラギさん」
「あ、ごめぇん。だって他に置くと来なかったんだものー!」
「デスクの上のビールの空き缶捨てればいいんスよ!!」
「おーぅい…」

目まぐるしく人が動く。言葉が飛び交う。
果たしてここに自分が入って本当に役立てるのか。ソランは少なからずそんなことを思った。
ちらりと視線を上に向けて自分をここに連れた男を見れば、駐車場で見たバツの悪そうな笑みが、さらに
色濃くなっていた。
ソランはそれに対して、何も掛ける言葉が見つからなかった。
「ミス・スメラギ」

ニールはソランに少し待ってろ、と言ってオフィス内に足を入れた。
そして、茶色の整った巻き毛をした、おそらく位置的にニールの上司に当たるであろう女性に声を掛けた。

「全く、重役出勤とはいい度胸ね。この忙しい時に」
「すいません。ほら昨日話した例の手伝いしてくれる子、連れて来たんで会ってもらえます?」

ニールがそう言って、ソランの方に視線を向ければ、女性もソランを視界に入れた。
納得したような表情をした後、彼女はオフィス内の人間に少し外すと声を掛けて動いた。
ニールが手招きをしてソランを呼び寄せたので、ソランはそれに従ってニールの後に付いた。
オフィス内を少し歩いたが、ここの人間は忙しさのせいでソランに気付かなかったようだった。


扉一枚隔ててソランが入ったのは、接客室のような部屋だった。
女性と向かい合うような形でローテーブルを挟んでソファに腰を下ろす。ニールはソランの隣に座った。
ニールの上司であろう女性は、なんだかこのオフィスにいるよりも自分の職場である収録現場の中心にいた方が
様になるようなスタイルの持ち主だった。

「採用!」

――一瞬、何を言われたか理解出来なかった。
隣に座るニールも同じだったようで、表情こそ視界に入らなかったものの、言葉を失っていた。

「ほら何ぽかんとしてるの。ロックオン、その子に色々教えてあげてね。貴方コピーの仕方わかる?
わからなかったら彼に聞いて。あと、お茶淹れるのもしてもらいたいから、」
「いやいやいや、ミス・スメラギ!」

そそくさと、ニールとソランそれぞれに言うべきことだけ口にしてソファから立ち上がろうとする上司を、
ニールがようやく我に返り慌てて引き止める。
ソランも、ニールのその声でようやく現実に立ち返った。

「あら、何?」
「何、じゃないでしょう。面接してあげてくださいよ。一応履歴書書いてもらったんですし!
ほらソラン、履歴書!」

そう言われて、手に持っていた履歴書を彼女に渡した。
ニールにミス・スメラギ、と呼ばれた彼女は渋々、と言った様子でソランから履歴書を受け取り、ソファに座り直した。
最初はただ表面的に目を通しているだけのようだったが、その表情には徐々に笑みが浮かべられていった。

「へぇ…クルジスコーポレーション。知ってるわ、AVの事務所でしょう?
貴方、そこの所属タレントなのね」

女性が口にしたことに、ソランはやはり、と思った。
その会社が何をやっているかわかる人間ならば、そこに注目するのは当然だ。
いや、仮に知らなくとも、18歳の人間の履歴書にそのことが記してあれば、誰だって目をやるだろう。
この会社とは、例え空気が似ていても全く持って程遠い仕事の人間なのだ、自分は。

「あぁ、そうだ」

だがソランは負い目も引け目も感じずに、ただ彼女の言葉を肯定した。
それが自分の仕事であり、生きる術であり、そして、大切な存在を守る為の術なのだ。
ここまではっきりと、たじろぐ事もなく口に出来るのは、きっと、隣に座る男が自分の生き方を肯定してくれた
からなのだろう。

「そんな仕事をしている人間を、雇う気にはなれないだろうか」

それでも選択する権利は向こうにある。
彼女は採用だ、と言ってくれたが、それは今はソランの中でなかったことになっている。
履歴書に目を通す前のことだ。今はもう気が変わっているかもしれない。
だが、女性が口にしたのは予想したのとは別のものだった。

「いやねぇ、言ったじゃない"採用"って。面白いじゃない。なかなかないわ、AV女優と一緒に仕事するなんて。
それに、貴方も気に入ったし。ロックオンが連れて来るだけあるわね。
改めて歓迎するわ。ようこそ、建築デザイン事務所・プトレマイオスへ」

ソランはニールへ思わず視線を向けた。
本当にいいのか、というのを確認したくなったのかもしれない。
ニールは、そんなソランに穏やかな顔をして頷いた。
それで、ようやく受け入れられたという安心を覚えた。
ニールの上司はスメラギ・李・ノリエガと言った。
社員に紹介するから、ということで、接客室を出てオフィスに戻ることになった。


「ロックオン遅いよー!忙しいのわかってるでしょー!?」

オフィスに戻るや否や、そう切羽詰ったような声で女性がソランの隣に立つ男に向かってそう言った。
ゆるくウェーブのかかった髪を後ろで一つにまとめている女性は、ニールやスメラギよか幾分年齢が若そうに見える。
両手に抱えられた大量のファイルがオフィス内の忙しさを物語っているようだった。
悪い悪い、と苦笑いを浮かべながらニールがそれに応える。
そのやり取りに、ソランは小首を傾げた。
女性は彼のことを「ロックオン」と呼んだ。彼が出会ったばかりのころに渡してきた名刺には、確かに
「ニール・ディランディ」と記してあったのに。
そういえば、スメラギ・李・ノリエガも彼のことを「ロックオン」と呼んでいた気がした。
あの時は彼女の予期せぬ言葉に気に止める余裕がなかった。

「あれ、誰?その子」

ニールのすぐ側に立っていたソランに、女性が気付く。
それをちょうどいいタイミングとしたのか、スメラギが声を上げた。

「はいはい注目ー。今日からアルバイトとして働いてくれる子紹介するわよ」

スメラギの言葉に促されるようにしてソランは少しだけ前に出た。
視線が自分に向けられる中で、口を開こうとした時だった。
ガタガタっと椅子を引っくり返した様な大きな音が立ち、ソランは言葉を飲み込むしかなかった。
音のした方へ視線を向けると、社員の一人の男性がひどく驚いたような顔をして自分を見ていた。
まるで珍獣にでも出くわしたような顔だ。

「せ、刹那・F…っ」

男性社員がそう言おうとする口を塞ぐ手があった。
ニールのものだった。
男性社員とは距離があったにも関わらず、よくあの一瞬の間に動いたものだ。
必死に自分を指差して男性社員が何かを言おうと悶えているが、ニールがそれをさせなかった。

「えっとな、彼女、ソラン・イブラヒム!建築関係の知識とかはないけど、がんばるらしいから!
な、ソラン!」

突然にそう振られ、ソランは反射的に頷くしかなかった。
何か言葉に出そうと思ったが、言うべきことは全てあの男が言ってくれてしまったので、他に何も
思い浮かばなかった。
台詞以外に他人の前で何かを話すことがほとんどないものだから、こういう時どうしたらいいかわからなく
なってしまう。
ソランが何も口にしないことで、少しの間だけ沈黙が生じてしまったが、スメラギ・李・ノリエガが
その場を終わらせてくれたので、それ以上のおかしな空気が漂うことはなかった。
そのことにソランは少しだけ安心して、誰にも気付かれないように小さくため息を吐いた。
10.07.25


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やっと書いた…。しかしかなり中途半端で申し訳ない…。