Beautiful World−8−
カラン、とグラスの中の氷が音を立てて動いた。 店内は静かな空気で包まれていた。 「その人は、やめたいと一度でも言ったことがあるの?」 スメラギのその問いに、ニールはふるふると首を横に振った。 「自分が、勝手にそう思ってるだけです。自ら望んでやっているようには見えない。ただそれだけです。 …でもきっと、それを選ぶ以外になかったんだと、思います…」 ニールはそれ以上言葉を紡ごうとしなかった。 それ以上、言えることがなかった。 沈黙が生じた。 スメラギがグラスに入ったウィスキーのロックを飲み、そして口を開いた。 「もし仮に、貴方の言う通りその人が本当に望んでなかったとしても、それを続けなければ大事なものを 失くしてしまうというなら、やめさせようとする貴方の行動は、ただの傲慢よ」 重く発せられたその言葉は、ニールの胸に鉛を入れた。 わかっていた。 わかっていても、他人から言われると、つらかった。 自分に出来ることは何もないのだと実感してしまう。 「でもね」 少し声のトーンを変えた彼女の言葉に、ニールは顔を上げる。 スメラギは、小さく笑みを浮かべていた。 「例えば立ち止まってしまった時、疲れてしまった時。 その人が休める場所を作ってあげるのも、一つの支えの形よ。やめさせることだけが、助ける術じゃないわ。 人間だもの。どうしても休息は必要よ。 休みたいと願ったとき、差し出せる手が、貴方にはあると思うわ」 ふっと、胸が軽くなった気がした。 胸に入った鉛はいつの間にか姿を消した。 何かを、見出した気がした。 「大切なものがあるならそれを守らせてあげればいいのよ。守ることを続けさせてあげればいいの。 …それはやっぱりエゴかもしれない。でも、決して押し付けではないわ」 にこりと、スメラギは笑いかけた。 その言葉や優しさに、救われたような気分になった。 失くさずにすむかもしれない可能性に、ニールは何かが込み上げそうになった。 出来るだろうか、自分にも。 彼女の心が休まる場所を作ることが、この手で出来るだろうか。 作り出したい、と思った。 大切なものを守ろうとする彼女を、守りたいと思った。 「…ありがとう、ございます」 心から、そう言葉を紡いだ。 「それにしてもねぇ」 少し声色を変えたスメラギに顔を向ければ、彼女はどこか含んだような笑いをしていた。 嫌な汗が、ニールの背中を流れた。 「貴方からそんな話が聞ける日が来るなんて思わなかったわぁ。 なんだか雛の巣立ちを見る親鳥の気分だわ」 「…何が、ですか…」 そう言ったニールに、スメラギはいよいよにやりと笑った。 彼女がこういう顔をする時、大抵よくないことが待っているのは、もう充分すぎるくらい経験済みだった。 「で、どんな子なの?ロックオンをそこまで悩ませちゃうような女のコは」 あぁ、やっぱり。 「…誰も女の子だなんて言ってないでしょう…」 「あらぁとぼけちゃって。男相手にそんな風に悩むわけがないじゃない。 安心してるのよ?貴方ったらいい男なのにそういう浮いた話一切出てこないんだもの」 スメラギのその言葉に、ニールは驚きを感じた。 家族が事故で死んでから、特別な存在を作らないよう過ごしてきたつもりだった。 失うことの怖さを知っていたから。 けれど、いつの間にかニールにとって少女は紛れもなく「特別」になっていた。 最初から、惹かれていたのかもしれない。 彼女の力強く、生きようとするその瞳に。 「今度紹介しなさいよー?」 相変わらず含み笑いをするスメラギは、バーテンダーに新しく酒を注文していた。 「…酔ってるでしょう、ミス・スメラギ」 「酔ってないわよ、まだ三杯目なんだからぁ」 バーテンダーから新しく酒を差し出された彼女はひどく楽しそうだ。 ニールは財布の中身を、こっそりと確認した。 彼もまた給料日前であることに変わりはないのだ。 翌日の仕事帰り。 ニールはとあるオフィスビルの前にいた。 ここに来るのは二度目に彼女に会って以来だった。 しばらくすると、彼女がビルの入り口から姿を現した。 ニールの姿を見た途端、怪訝そうな表情を浮かべた。 だがニールは何も気にする様子はなく、彼女に近付いた。 「…現れるなと何度言えば、」 「ごめんな。でも、どうしても言いたいことがあって来た」 何か出来ると信じたい。 自分のこの手は、きっと空を切るだけのものじゃないと。 「ソラン」 ニールは丁寧に、少女の名前を呼んだ。 真っ直ぐと、彼女の赤褐色の瞳を見た。 「俺、もうお前さんに仕事やめろなんて言わない」 「やめてほしいのは、本音だけど」と小さく付け足した。 ソランは一瞬だけ目を丸めた。それからすぐ、眉を顰めた。 何を言っているのかわからない、という顔だった。 ニールはそのまま言葉を紡いだ。 「でも、もしお前さんが仕事に疲れたり、行き詰ってどうしようもなくなったら、すぐ飛んで行くから。 俺は金も何もないけど、お前さんが大事なもの守っていけるように、傍にいるから」 金も権力も何も持ってない、ただのサラリーマンだ。 世の富豪たちから見れば、ミジンコみたいな存在だ。 でも間違いなく、誰よりも君が頑張っていることを知っている。 大切な大切なものを守るために生きてることを、知っている。 「つうわけで、コレ、俺のケータイ番号と、あとメアド!」 そう言って、ニールはソランにメモを渡した。 自分に繋がる番号だ。 ソランは、相変わらず怪訝そうな表情を滲ませていた。 「何かあったら連絡しろよ。すぐ行くからな」 それまで何も言わなかったソランが、ようやく口を開いた。 「…アンタ、何故そこまでする。何を企んでる?」 「別に何も企んでねぇよ。ただ、お前さんがお義姉さんのこと守れればいいなって思ってるだけ」 「嘘を吐くな。何考えてる」 ソランは鋭い眼をニールに向けた。 そこまで聞かれれば素直に答えないわけにはいかないが、どうにも気が引ける。 「いや、何ってなぁ…ここでそれ聞く?」 「さっさと言え。何故ここまでする必要があるっ」 「うー…あー」と言葉にならないような声を上げて、ニールは自分の頭を掻いた。 再びソランが急かすような声を出して、それでようやく、決意したように顔を上げた。 「お前さんが、好きだから」 真っ直ぐに赤褐色の瞳を見て、迷いなくそう言った。 「…な、」 「じゃ、そういうわけだからっ。何かあったら連絡しろよっ。 あ、メモ捨てんなよ!お兄さんこう見えてナイーブなんだからな!」 ひどく驚いた様子のソランが何か言う前に、ニールはそこからそそくさと立ち去ろうとした。 告白した途端、一気に恥ずかしさが襲ってきた。 言い逃げだ、とも思ったが、今は羞恥心が勝った。 「ソラン!」 立ち尽くしたままのソランに、少し離れた場所から振り返り声を掛けた。 「またな!」 そう言って、ニールは手を振って足早に去った。 身体中が熱くて、とにかく走った。 思わぬ告白からの恥ずかしさもあった。 けれどそれ以上に、達成感が胸を占めた。 自己満足だ。彼女は何も変わらないかもしれない。むしろ迷惑に思うかもしれない。 けれど見出した。 自分のこの手は、何か出来るのだと。 世界がほんの少し、明るく見えた。 09.11.06 ――――――――― ようやくニール視点で躊躇いなく「ソラン」と打てることに安堵してます。笑。 前回よりさらに短くてすみません…。苦笑。 |