Beautiful World−7−
少女と最後に会ってから、二週間が経とうとしていた。 ニールは、あれから一度もマリナのいる病院に足を運ぼうとはしなかった。 突き付けられた現実が、ニールをそうさせなかった。 彼女が「刹那・F・セイエイ」として仕事を続けているのは、義姉の治療と、母親の残した借金の為。 彼女の年齢と、そして学歴のことを考えれば、月に50万もの金額を稼ぐには、今の仕事を続ける以外にないのだ。 もし仮にやめたとしても、そこに今以上のリスクが伴ってくるのは必然だ。 リヒテンダールに、彼女が分類付けされている"キカタン女優"について詳しく教えてもらった。 不審そうな顔を浮かべつつも、彼は話してくれた。 一般的にAV女優と呼ばれる単体女優と違い、出演作品数に制限がないこと。 個人の名前が売れているので、それなりにギャラが出ること。 また逆に、単体女優というものは最初に出演したものから、どんどんギャラが減っていくこと。 つまり、三つに分類された単体・企画・キカタンの中で、彼女の入っているキカタン女優が、最も 効率よく金を稼げるのだ。 ニールはそのリヒテンダールの話に、ただ納得するしかなかった。 だから彼女は、多少度が過ぎているような作品にも出るのだ。 名前を売るだけでは必要な額が稼げない。 作品に出続けるだけではいつまでかかるかわからない。 だから彼女は選んだのだ。 自分と、そして最も大切な存在が生きる為の、最良の方法を。 それを選ばざるを、得なかったのだ。 けれど、このままでいいはずがなかった。 彼女に今の仕事を続けさせたくはない。 きっと続けていれば、闘病中のマリナよりも彼女の方が先に駄目になってしまう。 そんなことを、させたくなかった。 それに、彼女が自ら望んで仕事をしているようには到底見えなかった。 望んでもいないことを続けさせたくはない。 少女のあの強い瞳が保たれなくなれば、きっとマリナも責任を感じてひどく心労が加わるだろう。 待っているのは崩壊の悪循環だ。 あの姉妹にそんな思いはさせたくはなかった。 けれど、どうやって? 開いた通帳の残高は、彼女の月の給料よりも少し高い程度の額。 これとは別に貯金用に利用している口座の分を足しても、せいぜい彼女の三か月分の給料にしか過ぎない。 彼女の母親の残した借金がどのくらいあるかは知らない。 けれど、並大抵の額でないことは確かだろう。 それでも、少しずつでも自分の給料から彼女に手渡していけば、足しになるはずだ。 …でもそんなことをして、今度は自分が生活出来なくなるんじゃないか? 今得ている給料だって、そこそこに高いとは言え他人に手渡せるほど余裕なんてない。 微々たる援助でどうにかなるほど、彼女を取り巻く現実は甘くない。 結果的に、あの姉妹の足かせになるだけだ。 それに、少女が他人からの金なんか受け取るとは思えなかった。 彼女の眼は、他人を全く信用しない眼だ。 それだったら、彼女の事務所に直接話をしに行くという手だってある。 …いや。行って、どうなる? 彼女の所属している事務所はきちんと法的手段を踏んで設立された会社のはずだ。 彼女はその中で矛盾のない契約を結んでいる。 母親が借りた借金というのは、その会社から借りた可能性だって高い。 そうなれば、綻びを見つけることなど不可能だ。 仮に無理矢理踏み込んだとしても、結果的にそれは彼女に皺寄せが全部行くことになるだろう。 彼女は、ソランは今の仕事をやめるわけにはいかないのだ。 やめれば生きていく手段を失うのと同じだからだ。 それを、無理矢理にやめさせようとするのは、結局ただのエゴにしかすぎない。 一方的な自分の物差し、常識、感情を、ただ彼女に押し付けているだけなのだ。 目の前で再び失うことを恐れている、ただの自分勝手な心情。 彼女の言った、「偽善」という言葉がニールの胸を突き刺した。 「続けさせたくない」なんて建前を押し付けて。 本当は、「続けてる彼女を見たくない」だけなのに。 そんなことは、ソランには微塵も関係ないというのに。 仕事帰りにふらりと立ち寄ったレンタルビデオ屋で、小さいが「刹那・F・セイエイ」のコーナーを見つけた。 やるせない、どうしようもない気持ちが、ただニールの胸を占めた。 ソランが心も体も削って金を稼いでいることを知っているのに、何も出来ない。 こうしている間にも、彼女は男優と肌を重ねているのだろう。 結局、今の自分が彼女にしてやれることは何もないのだ。 子どもの頃は、大人になればなんでも出来ると思っていた。 守りたい物だって、自分の力で守れるのだと信じていた。 もう、失くさないで済むと疑わなかった。 でもそんなのは理想論だった。 金も権力も、何も持たないただのサラリーマンの自分では、彼女に手を差し伸べることすら、出来ないのだ。 ニールはリビングのソファに身を投げた。 いつもは身体を柔らかく包み込んでくれるそれは、どうしてだか心地よさが生まれなかった。 「こらっ」 ぱこん、という小気味よい音と共に、ニールは頭にそれほど強くない衝撃を受けた。 ぼぅっとした意識が、それで呼び戻された。 上を見上げれば、上司であるスメラギ・李・ノリエガが眉間に皺を寄せて立っていた。 「全くいい度胸ね。こーんなデタラメな数値割り出してこのアタシに出してくるなんて」 そう言って差し出されたのは、つい先ほどニールが頭を叩かれた書類の束だった。 確か、今発注を受けている依頼先の、測量値や材料費の概算を割り出したものだった気がする。 「あ、すいません違いましたか…」 「違うも何も、これじゃ崩壊する家作れって言ってるようなもんよ」 スメラギの眉間の皺は引っ込むことはなく、寧ろニールのどこか曖昧な態度にさらに皺を寄せる羽目になった。 「すいません」と再び口にするニールだったが、それはどこかうわ言のようだった。 それに、スメラギがため息を吐いた。 「全く…何かあった?最近変よ、貴方」 スメラギの言葉に、ニールは顔を俯かせた。 それは肯定を意味していた。 再び、スメラギがため息を吐いた。 「仕方ないわねぇ。今日、夜奢ってよ?」 給料日前でつらいんだから、と彼女は付け足してニールに書類を渡した。 話を聞いてくれるのだろう。 その気遣いに、ニールは少しだけ救われたような気がした。 仕事帰りにスメラギと共に入ったのは、つい最近オープンしたばかりのバーだった。 あまり堅苦しい雰囲気に包まれず、居心地はよかった。 二人並んでカウンターに座り、それぞれ酒を注文した。 平日ともあって店内に客はあまりおらず、わりと静かだった。 注文した酒も、すぐに二人の前に出された。 「それで?どうしたの?」 スメラギがそう尋ねて来たが、ニールはすぐには口を開かなかった。 開けなかった、というのが正しいかもしれない。 それを言葉にするには、口が重すぎた。 「もし…もしも自分の近くに、どうしてもやり遂げなければいけないことがある人がいて、 その人がたぶん…そのことを望んでなくて、でもそれをやめるわけにはいかない時…ミス・スメラギは、 どうしますか?」 最大限、オブラートに包んだ言い方だった。 全てを話すには、彼女のプライバシーの侵害に関わる。 「…貴方は、やめさせたいの?」 「…出来れば。やめさせたいし…やめてほしい。…でも、やめたらきっと、その人は大切なものを失くす ことになるんです」 どうして両方を取れないのだろう。 どうして、どちらか一方しか選べないのだろう。 天秤にかけなければ、失ってしまうなんて。 こんなのは、あまりに不公平だ。 世の中には欲しいものを欲しいままに得ている人間だっているのに。 どうして純粋に、ただ守りたいと、傍にいたいと願うことが、許されないのだろう。 ニールは無意識にグラスを持つ手に力を入れていた。 氷が、無機質に音を立てた。 09.11.04 ――――――――― 短いんですが、少し切ります。 これより先進むとかなり長くなってしまうので…。苦笑。 |