Beautiful World−5−
来る前に寄った果物屋のビニール袋を手に、ニールは人の波を時々分けていく。
平日の夕刻近くでも、患者は大勢いた。
入院病棟に入れば、それまでの人が作り出すざわめきは消え去った。
病室に入る前に念の為、ネームプレートを確認しておく。
記憶に間違いはなかった。

「こんにちは」

廊下側に近い方のベッドで、起座して本に目を落としていたマリナに声を掛ける。
マリナは顔を上げると、あぁ、と納得したような顔を見せた。
病室を見回したが、"ソラン"はいないようだった。

「先日はどうも。挨拶もそこそこに帰ってしまってすみません」
「とんでもないです。また来て頂いて…」

マリナはベッドの側にあった丸椅子を指して、どうぞ、と言った。
ニールは、どうも、と返してそれに座った。

「これ、よかったら」

そう言って、手に持っていたビニール袋を差し出す。
中身は梨だった。

「すみません、わざわざ…」
「気にしないで下さい。そんなに高いものでもないので」
「ありがとうございます。…今日は、ソランは…」

最初だけにこやかにお礼を言ったマリナだったが、まだ顔を見せてないのだろう義妹の所在をニールに尋ねた。

「俺は営業の帰りだったんで。たぶんまだ、事務所にいますよ」

にこやかな表情と共に発したそれは、偽り以外の何物でもない。
だがそう答える以外に自然な返事がなかった。
実際少女が今どこで何をしているかは、ニールにはわからない。
ただ、「仕事」をしているのだろうな、という見当だけは付いた。
マリナはニールの返事に、安堵したような顔を見せた。

「仕事のことを聞いても、今まで何も答えてくれなかったんです。
だから、危ないことしてるんじゃないかと心配してたんですけど…」

こうしていい人の下で働けているみたいで、安心しました、とそう言いながら、マリナはベッド脇にある
床頭台に手を伸ばして、果物ナイフと小皿を取り出した。
梨を剥く彼女の手付きは慣れたものだった。

ニールは、心の中で苦笑いをした。
実際は危惧した通り「危ないこと」をしていると知ったら、彼女はどんな顔をしてしまうのだろうと思うと、
口が裂けても言えなかった。
嘘は吐き続けた方がいいようだ。

マリナは果物ナイフを持っていた手を止めた。
少しだけその表情には影が見えた。

「…あの子には、悪いと思っています。私が病気なんかしたばかりに、入院費も治療費も出させている」

あぁ、やはり。
マリナの言葉に、ニールはただ納得した。
彼女が頑ななまでにあの仕事を続ける理由。
それはやはり、義姉の病気を治したいが為だった。
逆にそれ以外に、少女があの仕事をする理由が、ニールには思い付きも、当てはまりもしなかった。

「…本当は、あの子が苦労する理由なんて何もないんです。
上辺ではもう、赤の他人も同然だから」

マリナの言葉に、ニールは首を傾げた。
少女の言ったことをそのまま受け取れば、二人は義姉妹のはずだ。
それなのに、「赤の他人」とは、どういうことだろうか。
ニールの疑問を察したのか、マリナは小さく笑った。

「そこまでは話していないんですね、あの子」
「えと…血が繋がっていない、とは聞いていたんですけど…」
「えぇ、血は繋がっていません。連れ子同士だったんです」
「"だった"…?」

過去形で話されたそれに引っかかりを覚え、ニールはそこを繰り返した。
マリナはまた小さく笑った。

「五年程経って、また離婚したんです。ファミリーネームが違うから、疑問に思われたでしょう?」

そう聞かれ、ニールはごまかすように笑った。
ニールは彼女のファミリーネームを知らない。
てっきり、義姉のそれと同じ、"イスマイール"だと思い込んでいた。

マリナはそんなニールの心の内に気付かずに言葉を続けた。

「それでも、ソランは私を姉と慕ってくれました」

そう言うマリナの表情は、優しさに満ちていた。
それは少女が義姉を見る眼に似ていた。
彼女がマリナを見る目は、とても穏やかで、とても優しい。
本当に、大切なのだとわかる。
守りたいのだろう、姉を。
文字通り、その身体全てを駆使してまで。

「あの、失礼ですが…親御さんは…」

答えなど、聞かなくても想像が付く。
だってそうでなければ、少女が義姉の入院費を出さなければいけない理由がない。
マリナはやはり小さく笑って答えた。
少しだけ、困ったような表情も見えた。

「父は離婚後少しして事故で死にました。ソランの母親は…ソランを置いて出て行きました」

マリナの顔から、表情が消えた。

「久しぶりにあの子の家を訪ねて、部屋の隅で小さくうずくまるソランを見つけました。
その時にはもう…三日も何も口にしていない状態でした」

ニールは無意識のうちに、膝に置いた自身の拳に力を入れていた。
彼女の母親に何があったかは想像の域を超えない。
どうしても一人家を出なければならなかったのは確かだ。
そしてソランが切り捨てられたのも、事実だ。

「しばらくは二人で暮らしてました。私が仕事をして、ソランは学校へ通って…。
でもそれも長くは続きませんでした。私が身体を壊してから、ソランは学校を辞めました。
まだ18なのに…私がソランの将来を奪ったようなものです。
それでもあの子が側にいてくれると嬉しくて、あの子の為に生きようと思ってしまう。
…勝手、ですね。わたしが生きていられるのは、間違いなく、ソランが働いてくれているからなのに…」

涙は見えない。声も震えてはいない。
けれどきっと、自分の無力さに一人で幾度となく泣いたことだろう。
それでも。

「それでも、大切な人だから生きていてほしいと、きっと、思ってます…」

ニールは言った。
生きたくても生きられなかった人間はすぐ身近にいた。
ニールの言葉に、マリナは顔を上げた。
その視線の意図を知って、小さく笑った。

「俺も、家族がいません。14の時に事故で死にました。守りたくても、何も出来ませんでした。
生きていてくれればと思ったのは、もう、数え切れないくらいです」

守る余地すら残されていなかった。
目を覚ました時にはもう両親も妹もこの世にはいなかった。
少女の気持ちは痛いほどわかった。
生きていてほしい。守りたい。側にいてほしい。
少女が何もしなければ間違いなく彼女の大切な存在はいなくなってしまう。
大切な誰かを失ったときの感情はよくわかる。
暗い海に投げ落とされて、息も出来ないような感覚。
今でも時々思い出す。
あの時あぁしてれば、と、繰り返し繰り返し思う。

「…そう、だったんですね。すみません、嫌なことを思い出させてしまって」

申し訳なく言うマリナに、ニールは笑って返した。

「いいんです。もう、十年も前の話です」

ニールが笑って返したから、マリナもつられて小さく笑った。
果物ナイフを持った手がまた動き始めた。
時々動きに合わせて揺れる長い黒髪は、とてもきれいだった。
マリナの話からすれば、入院期間はそれなりにあるのだろうが、それを感じさせない。
それは、もしかしたら義妹に少しでも心配をかけさせまいとする、強くも優しい意志の現れかもしれなかった。
一通り切り終えると、マリナは果物ナイフをしまって、ニールに小皿を差し出した。

「よかったら、一緒にどうぞ」
「あ、どうも、すみません…」

マリナは床頭台から取り出したフォークを二本、それぞれ切られた梨に刺した。
一本はそのまま自分の口に持っていった。
ニールはマリナが口にしたのを見て、それからフォークに手を伸ばした。

「…あの、答えたくなければ、答えなくて構いません」
「はい」
「病気は、何を…」

マリナはフォークを持っていた手を降ろした。
視線も、少し俯き加減だった。

「心臓です」

少し小さく、でも、はっきりと、そう言った。

「あまり、良くないと先生から言われました。もう一度発作を起こせば、危ない、とまで…」
「…そのことは、妹さんは…」
「知りません。私が先生にも言わないようお願いをしました。ただでさえ大変なのに、
これ以上の負担は掛けられません」

きっと彼女も出来る限りの力で、義妹を守りたいのだろう。
達観しているようにも聞こえるそれは、彼女の強さに思えた。
一見すれば儚げに見える彼女も、義妹と同じ。
きっと、計り知れないまでの強さを持ち合わせているのだろう。

「…ディランディさん」
「はい」

マリナがニールに向き直る。

「あの子が、ソランが自分のことを他人に話したのは、きっと初めてです。警戒心の強い子だから。
貴方に、これからもソランのことを頼んでも、いいですか?」

真っ直ぐに、青く透き通った眼がニールを捉えていた。
少女とは血の繋がりがないはずなのに、ひどく似たものを感じた。

「…はい」

ただ短く、ニールはマリナの言葉に応えた。
応えたかった。
応えて、自分と同じ思いをさせたくないと思った。
この姉妹に悲しい顔はさせたくなかった。

だからこそニールは、少女をあれ以上踏み込ませてはいけないと思った。


ふと視線を感じて、ニールはマリナの後ろへ目を動かした。
マリナも一緒になって同じ方向を向いた。

病室の入り口に、険しい表情で立っている彼女がいた。

「ソラン、いらっしゃい。ディランディさんから梨頂いたの。貴方もどう?」

マリナは変わらぬ雰囲気で少女に話し掛ける。
義姉を見る時の眼でさえ、戸惑いに満ちていた。
自分が動いた方がよさそうだと判断したニールは、丸椅子から立ち上がった。

「それじゃあ、俺はこれで」
「あら、行ってしまうんですか」
「えぇ、姉妹水入らずの方がいいでしょうから」
「…今日は、ありがとうございました。またいつでもいらして下さい。何も出せませんけど」

ニールは笑うだけで、返事はしなかった。
少女の目の前で「また来る」と約束することに気が引けた。

病室を出る直前に、少女がマリナに「少し出て来る」と言ったのが聞こえた。
少女が少し後ろで、ニールに付いて来ているのがわかった。
「ごめん、悪かった」

病院を出て、後ろにいる少女に向き直ってまず謝った。
忠告を無視したのはこちらだ。責められても仕方ない。

「二度と現れるなと、言ったはずだ」

少女の赤褐色の眼が鋭かった。
今までで一番強烈だ。

「ごめんって。もう来ない。…たぶん」

自信はあまりなかった。
自分のおせっかいな性格がまたここへ向かわせるような気もしていた。
少女はニールの「たぶん」を聞くと、より一層顔を強張らせた。
ニールは苦笑いを浮かべた。
存外、マリナの知らないところで自分のことを話しているのでは、とも思った。
そう思わせるくらい、少女の眼は自分に心を許したようには見えない。

けれどそれでも、ニールは少女を止めたいと思った。

「なぁ、やっぱり止めよう、『仕事』。これ以上続けたら、きっと君がお義姉さんより先にダメになる。
お義姉さんに心配かけたくないだろ?だから、止めよう」

悲しい顔はさせたくなかった。
だから、これが今自分に出来る精一杯だった。

けれど現実は、どこまでも暗く冷たかった。
いいや、自分が、甘かったのかもしれない。

「…っなら…っ」

少女が唇を噛んでいた。

「なら月に50万、アンタに稼げるのか!?」
「…っ、ご、じゅう…?」
「治療費と入院費、それから、母の残した借金、全部アンタに、払えるのか!?」

母親の残した借金。
思いもしなかった現実だった。
そうかだから、母親はいなくなったのか。娘一人に、返さなければいけない金だけを残して。

ニールは何も言えなかった。
月に50万。
自分の給料では到底及ばない額だ。
彼女の仕事の給料が高いのだろうということは予備知識としてはあった。
一瞬にして理解してしまった。彼女がこの仕事を手放さない理由を。
18歳で、しかも学校を中退した身がそんな額を普通の仕事で稼げるはずがない。
彼女は自分自身を売り払い、何もかも捨て去った。

たった一人の大切な存在と、そして、目の前から消え去った母親の尻拭いをする為に。

「…っ」
「何も知らない人間が、偽善で物を言うな…!
もう二度とここに来るな。アンタの顔なんか、二度と見たくない…っ」

少女は踵を返して、病院に戻って行った。
ニールはただその後姿を見て、唇を噛むことしか出来なかった。
手は伸ばさなかった。
伸ばそうとも思わなかった。
伸ばしたって、こんな手では少女を救い出すことなど到底出来ないのだと、知ってしまった。
09.10.03


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