Beautiful World−4−
すぅ、と音もなく閉じていた眼を開く。
それが彼女にとっての覚醒だった。
彼女にとって「寝る」ということは、ただ身体を休めるだけの行為でしかなかった。
夢も見ない。だからと言って、深く安らぎを得られるわけでもない。
もう慣れたことだった。

彼女はゆっくりとベッドから起き上がり、寝巻き代わりにしているTシャツを脱ぎ捨てた。
クローゼットを開け、適当に服を選び、着込んで行く。
髪を適当に、寝癖が目立たないように手で整える。
そして仕上げに、チェストの上に置いておいた花のモチーフのネックレスを、丁寧に首にかけた。
一瞬だけ、四・五日前、妙に関わりのあった男の顔が浮かんだが、すぐに消し去った。
自分が想うのは、たった一人の人間だけでいいのだ。
事務所までの、もう慣れた道のりを、電車を乗り継いで行く。
降りる駅が近くなるたびに、胸の奥が乾いてひび割れたような感覚に陥る。
いや、本能でそうしているのかもしれなかった。
そうやって、心を無にして、ただ「仕事」に臨んで行く。


事務所に着いて、真っ直ぐに向かったのは、事務所が間借りしているうちの上の階の一番突き当たり、
社長室だった。
今日は撮影自体はない。
社長からの直々の呼び出しだ。

重い造りのドアをノックすれば、中からしたのは間延びした、でも重たい男の声だった。
一瞬だけ息を吸い、気持ちを整えてからドアを開く。

「よぅ、来たな。待ってたぜ、『ソラン』」

姿勢を崩した状態で本革製の椅子に腰掛けていたのは、クルジスプロモーション社長、アリー・アル・サーシェス
その人だった。
伸びた赤毛にブランド物のスーツは、妙に似合っていた。
ソラン、と呼ばれた少女は、返事もせずに黙って、社長机の前に立った。

「ほらよ、今月の分だ。てめぇで確かめな」

そう言って、社長は少女の前に茶封筒を指で弾いて渡した。
少女はやはり黙って茶封筒に手を伸ばし、それを開いた。
今月、自分がどれだけ金を稼いだかを報せるそれは、いつも通り、六ケタの数字が並んでいた。

「十万はいつも通りこっちで引かせてもらうぜ」

口角を吊り上げ、社長はそう言う。

「全く法律ってぇのは面倒なもんだな。働いた分はきっちり金出さなきゃいけねぇんだからよ」

最初から引けりゃあめんどくせぇことしないで済むのによ、と笑いながら言った。

少女は踵を返し、社長室を後にしようとした。
だが、それは許されなかった。

「おいおい、誰が勝手に帰っていいって言った?」

じっとりと、絡み付くように言葉を発せられ、ぴたりと歩を止める羽目になる。
社長は少し乱暴に椅子から立ち上がり、少女に近付く。
そして手を挙げ少女の顎を掴み、ぐ、と上を向かせた。

「他ントコの事務所の男優からなぁ、苦情が来てんだよ。てめぇが思ったよりフェラがヘタクソだったってなぁ」

もう、慣れたことだ。
自分はこうしてこの業界でやっていく術を身に付けたのだから。
社長のこうした「レッスン」は、もう、当たり前なのだ。
少女は黙って社長の言う事に従った。

それは、この世で最も大切に想うたった一人の姉の為に他ならないのだ。
赤黒く張り詰めた肉棒から解放されたのは、顔に白濁の欲望を三度ほどかけられ、ようやくのことだった。

「全く、やれば出来んじゃねーか。次から手ぇ抜くんじゃねぇぞ」

じゃねぇと「仕事」減らすぞ、と、脅しのようなその言葉を少女に投げかけながら、社長は自身のモノを
ズボンに収めた。
ズボンの周りは、社長が再三少女に指示を出した甲斐からか、汚れがなかった。
社長はタオルを棚から出し、少女におざなりに投げ付けた。
少女はそれで適当に顔や髪を拭くと、無言で立ち上がった。

「今月は後二本控えてる。しっかり稼ぐんだな、『刹那・F・セイエイ』」

背中から聞いた言葉に返答もせず、少女は社長室を後にした。
真っ先に向かったのはシャワールームだった。
髪にへばり付いて乾き始めている白濁も、青臭い口の中も、全部、洗い流したかった。
汚れたままの身体で、姉に会いたくはなかった。
姉まで汚れてしまう気がしてならなかった。
ただ、どんなに洗い流しても真っ白になることは決してないのだ。
もうこびりついてしまった。
全身に浴び続けた男の欲望も、この世界の汚らしいやり取りも、何もかも。
事務所を後にして、向かったのは姉のいる場所だった。
電車を再び乗り継ぎ、目的の駅で降りる。
この道のりと、そして姉の傍にいる時間だけは、少女にとって安らぎだった。
何にも侵されない、休まれる時間。
冷たい部屋で一人睡眠を取っている時よりも、よっぽど良かった。


「あらソランちゃん、お姉さんのお見舞い?えらいわね、いつも」

着いた病院で、顔見知りになった入院患者に挨拶され、ぺこりと会釈して姉のいる病室へ向かう。


辿り着き入ったいつもの病室は、彼女にとって「いつもの空間」ではなかった。

「や、久しぶり。お邪魔してるよ」

そう言って、手を挙げてどこか含んだように笑う男に、最初はただ驚いた。
ブラウンの、ゆるくウェーブのかかった髪に、空色の眼。
覚えは確かにあった。
だが何故。何故この男が、ここにいる。

「今日は来るのが早かったのね、ソラン」

姉がにこやかに、何事もないようにそう言う。
男が何の障害もなくごく自然にこの場に馴染んでいることに、徐々に苛立ちを覚えた。

「今日は早上がりだったんですよ。俺も、早めに仕事を切り上げて」

男がそう言うことに、理解が出来なかった。
何故自分が早く来た理由をこの男が話す。しかも、その言い方はまるで、

「いい人が職場にいるのね。姉さん、今までソランがどこで働いてるのかわからなくて不安だったけど、安心したわ」

まるで、自分とこの男が一緒に働いているみたいな言い方ではないか。

「建築のデザイン事務所なんて、きちんとしたところでよかったわ」

全力で全てを否定してしまいたかったが、にこやかにそう話す姉に、今更違うということは言う気になれなかった。
姉の隣でにっこりと笑う男を殴り飛ばしたいのを、必死で抑えた。
「どういう、つもりだ…っ」

男を病室から引きずり出し、問いただした。

「どうって…お見舞い?」

小首を傾げ、平然とそう言う男に、再び苛立ちを覚えた。
この男は、嫌いだ。

「どういうことだ、俺とアンタが同じところで働いているなんて…」
「知らない男がいきなり見舞い来たって怪しすぎるだろ?お前さんの知り合いだって言ってもやっぱり怪しいし。
だから、それなら俺の会社で働いてることにすれば自然だな、と。
まぁ、咄嗟に思い付いたにしては我ながら上出来なウソだったよ」

ふざけるな。
二度と、関わるなと言ったはずなのに。

「…何故ここがわかった」
「この間会ったとき雨降ったろ?その後風邪引いちまって、で、この病院に来たらお前さんがお姉さんの見舞いに
来てるとこ偶然見たってわけ」

後付けたわけじゃねぇぞ?と、男が付け足して言ったが、そんな簡単に信用出来るほどこの男を知っている
わけではなかった。
だから、少女が男に送ったのは、疑いの眼差し、ただそれだけだった。

「信じてないって顔してんなー。まぁ仕方ないか。
一応、ウソは一個も吐いてないぜ?風邪引いたのも、あと、俺の仕事も」

そう言って男が出したのは名刺だった。
そこに記してあるのは確かに建築のデザイン事務所とわかる社名だった。
だが、こんなものはいくらでも偽造出来る。
男の名前だって本名かどうかは定かではない。
そういうのを、何度も見て来た。

「帰れ。もう二度とここに来るな」

少女はそう言い捨てて、踵を返した。


「ソラン」

進めようとした歩は、男の声でぴたりと止まった。

「っていうんだな、本名」
「…だから何だ」

男に背を向けたまま、そう言い放つ。
不快だった。
よく知りもしない男に、自分の名前を口にされることは。

「いや、特にこれと言ってはないけど…あぁでも、いい名前だな、とは思った」


名前を付けてくれたのは母だった。
どんなにつらい状況にも立ち向かえるようにと男名を付けたといつだったか話してくれた。
もう、ずいぶん前の話だ。

「あんま似てないんだな、お姉さんと」
「…当然だ。血が繋がっていない」

姉が自分の姉となったのは、十歳になるかならないかの頃だ。
父と別れた母は、別の男と一緒になった。
その男の連れ子がマリナだった。

「そっか、血、繋がってないのか…。でも、仲いいんだな。
心配してたぞ、お姉さん。俺のとこで働いてるって言ったら安心してた。
…言って、ないんだな、仕事のこと」
「…言えるわけが、ないだろう」

言えば確実に、姉はやめろと言う。
そして、そうまでしなくてもいいとも言う。
それでは駄目なのだ。
それでは、姉を助けてやれない。

「だったら、都合がいいんじゃねぇの?俺の吐いたウソ」

意図が掴めず、男の方へ向き直った。
男は別に企んでいるような表情は見せていなかった。

「…どういうことだ?」
「もしお前さんが今後もお姉さんに『仕事』のこと言うつもりないなら、せめて安心させる為に
俺の吐いたウソ利用してもいいだろ?」

男の言うことは一理あった。
変に隠し続けているよりも、その方がずっと楽だ。
そういう点から見れば、この男の嘘は価値が出てくる。

「…なぁ、ちなみに、やめるって選択肢はないわけ?」

言っている意味がわからなかった。
やめる?「仕事」を?
そんな選択肢、あるはずがないのに。

「あるわけがない、そんなもの」

そう言うと、男は今日初めて困ったような顔を見せた。

「…そっか…。なんか、さ…あんま、自分から望んでやってるようには見えねぇから…
無理してやる必要、ないんじゃねぇかと思ってさ…」

「ふざけるな」

男の言葉に、間髪入れず、少女が怒気を含んだ声を上げる。

「アンタに何がわかる。余計な口出しするな。
…二度と、ここへは来るな。姉さんにも近付くな。もう、関わるな」

男の戸惑った瞳など気にすることもなく、言葉を発した。
そのまま踵を返して、院内に戻った。


ふいに見上げた空が男の瞳と同じ色で、ソランは、ただ不快そうに顔を顰めた。
09.09.12


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R指定の境界線がどこまでかわからなくなりました。爆。