Beautiful World−3−
少女は先ほどのニールと同じように空に視線を向けていたが、ニールの視線に気付き顔を動かした。 ニールのことを「昨日いきなり抱きしめてきた男」であると気付いた少女は、無表情のその顔に少しだけ 嫌悪を滲ませた。 「よ。昨日は、どうも」 ニールはそう言って軽く挨拶をする。 あまり重苦しい空気は苦手だった。 少女は聞こえないフリをしているかのように顔を逸らした。 ニールはそんな少女の態度に、後に続く言葉を口に出来ずにいた。 少女の纏っている雰囲気からして、昨日ニールが感じた「画面の中の彼女とのギャップ」はどうやら 勘違いではないらしかった。 全てを拒絶しているような、そんな雰囲気。 けれど、そこに潔さすら感じてしまう。 今ニールの隣にいる少女が持つ空気は、言葉に表すならそういうものだった。 だがその空気にそのまま押されるわけにはいかない、とニールは口を開いた。 「君に届け物。昨日、落ちてたんだよ」 そう言って、ズボンのポケットからあのネックレスを出した。 少女はちらりと一度視線を動かし、そしてニールの持っている物の正体に気付くと、その赤褐色の 眼を見開いた。 少女の行動は素早かった。 ニールが気付いた時にはもう、手に持っていたネックレスは少女によって奪われていた。 「…何故アンタがこれを持っている」 低く、ぼそりと発せられる言葉。 画面の中の「彼女」とは、かけ離れた口調だった。 少女がニールを「敵視」する眼はますます強くなった。 そのことに、ニールはため息を吐く。 「だから、君がいなくなった後、道に落ちてたの。盗んだんじゃねーぞ?」 第一盗んだならわざわざ届けたりしないだろ?と付け足したが、少女がニールを見る眼は変わらなかった。 どうやら嫌われたようだ。 出会いが出会いなだけに、仕方ないのかもしれないが。 少女はニールとの間に少し距離を置いて、前に向き直った。 ニールには、自分を視界に入れないための行為に見えてしまった。 その空気に耐えかねて、ニールも前に向き直る。 雨は相変わらず止む気配を見せない。 ちらり、と横目で少女を見る。 少女は、ニールから奪い返したネックレスをひどく大事そうに手に握り、それを慈しむかのような 穏やかな表情を見せていた。 それは、画面の中の彼女とも、ニールが今まで接していた彼女とも、どれとも違う表情だった。 ニールの視線に気付いた少女は、途端に無防備なその表情を消し、また敵意を表に出した。 そのことを、少なからずニールは残念に思った。 「なんか、アレだな。演技してるときとは、ずいぶん違うんだな」 ぽろりと、口からこぼれた。 少女はニールのその言葉に特に反応を示さなかった。 相変わらず正面を向いたままだ。 「なんで、今の仕事やってんだ?なんかこう…君と合わない気がすんだけど」 ニールは構わず続けた。 どうしてだか知りたいと思ったことが山ほどあった。 虚勢を張る彼女の姿は、どう考えても男を煽る姿とは正反対だ。 少女は、やはり返答しなかった。 代わりに、手に持っていたネックレスを自身の首にかけていた。 「あれから、大丈夫だったか?追われてたやつ…」 これも気になっていたことだ。 いや、大丈夫だったかということは、今目の前にいる彼女を見ればわかることだ。 だからこれは前振りにしかすぎない。 ニールが知りたかったのは、その「理由」だ。 彼女がAV女優という職に就いていたとして、それで追われるような理由がわからなかった。 確かに危ない仕事であることに変わりはない。 イメージにしかすぎないが、こういう仕事は、裏で危ない組織が動いている気がしてならない。 つまり彼女はその「危ない組織」に関わっているかもしれないのだ。 あんなに、真っ直ぐな眼をしているのに。 少女はやっぱり何も答えなかった。 ニールはそれ以上口を開くことはしなかった。 諦めもあったし、今以上に少女の纏う空気を険悪なものにしたくなかった。 雨はまだ降り続いていた。 「仮に」 雨の音にかき消されない、芯のしっかりした声がニールの耳に届いた。 少女を見た。 やはり、前を向いたままだった。 「仮に俺がこの仕事をやっている理由や、昨日追われていた理由を知ったところで、何になる」 少女が自分のことを「俺」と言ったことに、ニールは驚いた。 けれどそれより驚いたのは、自分の質問にまともに返してくれたことだった。 少女は数歩、前に出た。 雨が当たらないギリギリのところだった。 少女はニールの方に向き直り、しっかりと視線を合わせた。 強い強い、赤褐色の瞳がニールを捉えた。 「アンタには何も関係ない。二度と関わるな」 そう言って、まだ雨の降る空の下に駆けて行った。 ニールは反射的に少女へ手を伸ばしたが、それは空を切るだけで終わった。 その後も雨は止む気配を見せず、ニールは意を決して雨の中へ飛び出した。 走りながら、彼女の真っ直ぐな瞳が頭を離れなかった。 翌日はのぼせる頭と鼻水との格闘だった。 帰った後充分に身体を温めたつもりだったが、どうやら最低限の回避にしか繋がらなかったようだ。 鼻がつまって、それで余計に頭に熱が篭った。 仕事も思うようにはかどらない。 「なぁにロックオン、風邪?」 「まぁ、そんなトコです」 上司であるスメラギが尋ねてくる。 ニールは苦笑いを浮かべながら答えた。 「昨日やっぱり当たっちゃったみたいだね、雨」 アレルヤがそう言う。 言葉を発するのもなんだか面倒で、ただこくりと頷いた。 「情けない。たるんだ思考だから風邪など引くんです」 厳しい発言をしたのは、アレルヤの隣のデスクに座るティエリアだった。 いつもはある程度否定してたが、今は残念ながらその気力もなく、ただ受け流した。 鼻がムズムズしたと思ったら、次の瞬間にはオフィス内にくしゃみが鳴り響いた。 「あー汚いわねー。ロックオン、もう帰っていいからそのついでに病院行ってきなさい」 「や、でも…」 「いーの。他の人たちにうつされても迷惑だし、それに今抱えてる商談自体は決めてくれたも同然だし。 最近無理させてたから、半休あげるわよ」 一応やんわりと断ってはみたが、ニールにとってはこれ以上ない話だった。 取引先との商談のこともあり、だいぶ疲労が溜まっていた。 「いいんですか、マジで…?」 「いーわよ。その代わり次の会議までにはちゃんと治して来なさいよ?」 そう言った上司の顔が、ニールには一瞬だけ女神に見えた。 残して来た仕事が少し気がかりだったが、アレルヤに引き継いだから問題はないだろう。 気持ちだけは、会社にいる時よりは楽になった。 会社に一番近い総合病院で診察を受けたニールは、待合室で自分の番号を呼ばれるのを待った。 ぼんやりと院内を見渡す。 ラックから出した雑誌は、もう読み終えてしまった。 視界の片隅に、見覚えのある癖毛を見た気がした。 だがタイミング悪く番号を呼ばれ、仕方なく立ち上がる。 手早く会計を済ませ、先ほどの癖毛の持ち主が消えていった方へ小走りに駆けた。 どうしてだか、また会いたいと思った。 ニールが入ったのは入院病棟だった。 外来の病棟に比べて随分と静かだ。 辺りを見回したが、目的の人物は完全に見失ってしまったようだ。 あの特徴的な癖毛はおそらく彼女、刹那・F・セイエイであることに間違いはないだろう。 誰かの見舞いだろうか。彼女は仕事をしているし、その可能性が高い。 だが、少女を見失った時点で、ニールのそれは推測の域を超えることはない。 病室をしらみつぶしに探す気力はさすがになかった。 諦めて踵を返そうとした、その時だ。 聞き覚えのある低音が、耳に微かに入ってきた。 病室の一つを、ちらりと覗く。 四人部屋の手前側に、ネックレスを大事そうに握った時と同じ顔をした少女がいた。 どくり、と胸が音を立てる。 穏やかな顔だ。表情が少ないことに変わりはないが、それでも見てすぐにわかる。 ニールがひしひしと感じていた少女を纏う拒絶の空気も、今はどこにも見られない。 「ソラン、ちゃんとご飯食べてるの?また少し痩せたみたい」 ニールの耳に、少女のものとは違う女性の声が届く。 自分の姿が見えないギリギリのところまで顔を覗かせ、病室内を見ると、長い綺麗な黒髪の後姿が 目に入った。 「食べてる。姉さんこそ食べてるのか」 少女の声がした。 『ソラン』 女性は少女のことをそう呼んだ。 少女のリアルネームだと考えるのが自然だろう。 そして少女の口から出た、『姉さん』という言葉。 ニールは病室の入り口にある名札を見た。 少女のいる位置と照らし合わせたそこには、「マリナ・イスマイール」と記されていた。 ニールは初めて少女の本質に触れた気がした。 けれどそれ以上触れることは許されない気がして、ニールは踵を返した。 帰り道、昨日とは違った表情の少女が、ニールの頭を離れなかった。 09.09.03 |