Beautiful World−20−
電話をかけ続け、出ない相手に焦らされながらも粘って、結局向こうが折れるように電話に出たのは ソランとの約束の期日を明日に控えた時だ。 どことなく予想はしていたが、実際に相手にこう出られると落胆を隠せない。 会ってほしい、と要件を言うと電話越しでも向こうが嫌悪を滲ませたのがわかる。 俺、そんなに何かしたっけ。 電話じゃ駄目なのか、と相手が言うと、ニールは素直に 「金の話だ」と伝えた。 それで、向こう側もただ事ではないのを察してくれたのか、渋々ではあるがその日の夕方会う約束を してくれた。 電話を切った後、ニールは寝室のチェストの引き出しから古い紙に丁寧に包まれている印鑑を取り出した。 こんな形で使わせてもらうことになるなんて、と両親に申し訳なさは募った。 けれど、迷いはなかった。 休日のカフェテラスは、夕刻ながら混み合っていた。 相手がまだ来ていないことを確かめると、ニールはテラス席に座って先にアイスコーヒーを頼んだ。 いつ振りだっけ、会うの。 最後に顔を合わせたのを思い出そうとしたが、二年か、三年くらい前、という曖昧な記憶しか掘り起こす ことしか出来なかった。 ぼんやりとそんなことを考えていると、ふと近付く人影に気付いて顔を上げた。 「よ、久しぶり」 ニールが少し口元を緩めて言ったが、相手は表情を動かそうともしなかった。 しばらく会っていなかったが、前の時とそう変化がなかったので安心した。 相変わらず、似てるな、と自分のことながら毎度同じことを思う。向こうに気付かれない程度に、こっそりと 苦笑いをした。 「ごめんな、ライル。急に呼び出したりして」 「ほんとだよ。急すぎる」 丸一日電話を無視してたのはお前の方だろ、という不満は飲み込んだ。そんなことを話しては本題に入れない。 ふ、と息を吐いて気持ちを切り替えたニールは、ライルの後ろに立つ女性の存在に気付いた。 初めは別のところの連れ合いかと思ったが、ライルの側にぴたりと付いている。どう見てもライルの連れ合いだ。 聡明な印象を受ける、初めて見る女性だった。 ニールが掛けるべき言葉に迷っていると、それを察したのか彼女は柔らかく笑った。 「初めまして、アニュー・リターナーと言います。弟さんと、お付き合いさせてもらっています」 「あ、そうでしたか。それは、どうも…えと、弟がお世話になっています」 相手の丁寧な物腰に、思わず調子を合わせて応える。 聡明な印象を与えながらも、優しく笑う女性だと思った。 しかし彼女が同席するとは、聞いていなかった。なんだか妙に和やかな雰囲気になりかけて、ニールは拍子抜け してしまう。 これから話すのは、家族間で話すべき内容だ。そこに、ある意味で部外者が立ち入るのは、ニールには躊躇いが あった。 ニールがその考えをぶつけるようにライルに視線を向けると、どこか面倒そうに重くため息を吐いた。 「ほんとだったらデートだったんだよ。それを無理言って時間空けてくれたんだ」 それは、悪かったと思う。けれどそれとこれとはまた別の問題である気もした。 そう思うニールの思考を補うかのように、ライルはさらに口を開く。 「それに、もうすぐ家族になるんだ。だったら、無関係でも部外者でもないだろ」 一瞬、思考が止まって、納得できるまで時間が掛かってしまった。 ちらりと、アニューの手に目配せをした。彼女の左手には、見てすぐにその意義がわかるような指輪が はめられていた。 「あ、あぁ。そっか、なるほど。そういうことなら…うん」 納得はしたが、落胆もした。 この弟は、そんな大切なことを今まで一言も報告してくれなかったのだ。 もしかしたら自分の知らない内に籍も入って式も済まされるのではないか、と思いますます寂しさが 募ったが、それを口にする勇気もなくて何も言えなかった。 ライルとアニューはニールの向かい側の席に座り、揃ってアイスコーヒーを注文した。 「この後店予約してるから、話すんだったら早くしてくれよ」 思いもよらない状況に少しだけ最初の勢いがしぼんでしまっていたが、ニールは気を引き締め直した。 ソランは今でも、一人病院で唯一の家族を失うかもしれない恐怖と戦っているのだ。 真っ直ぐに目の前の片割れと向き合って、口を開いた。 「父さん達の遺した金を、使わせてほしい」 事故で両親と妹を失った双子には、両親が遺してくれた財産があった。 まだ幼かった双子はそれらを面倒を見てくれている親戚に預けて、進学費用などに宛がった。 二人が18になった時、親戚はその金をこちらに渡した。 「これからは必要な時に二人で相談して使いなさい」と言って、印鑑をニールに、通帳の方をライルに それぞれ手渡した。 通帳を覗くと、600万ほどがの金額が記されていた。まだ学生の二人には、それは途方もない数字に思えた。 そして、二人で約束した。 「出来るだけ、使わないようにしよう。いざって時、困った時にだけ、父さん達に助けてもらうようにしよう」 その約束通り、二人はそのお金にはほとんど手を付けなかった。 お守りのようなものだった。 本当に困った時には、両親が助けてくれる。その気持ちを糧にしながら、生活をしていった。 「理由は?」 事前に金の話だと伝えていた為か、ライルはニールの申し出にさして驚いた様子もなく淡々と言う。 当然、理由は話さなくてはいけない。これは、二人のお金なのだから。 「手術費」 ニールが短くそう言うと、最初の申し出に微動だにしなかったライルの目が見開かれた。 少し失敗した。簡潔に言おうと思ったら、簡潔すぎて誤解を与えてしまった。 ライルの隣に座る初対面の彼女ですら、驚いた顔をしている。 慌てて訂正した。 「や、俺じゃ、なくてな」 ニールの言葉に、ライルは肩に入った力をすとんと抜きため息を吐いた。その姿が、ニールには少し意外だった。 この弟は、もしかしたら案外自分の身を案じてくれていたのかもしれない。 その、少し自意識過剰な気持ちは顔には出さず、ニールは再び口を開いた。 ソランやマリナのことを説明し、その二人が置かれている状況も話した。 時間がないと言っている弟には悪いが、出来る限り丁寧に話した。あの二人が、どんなに追い込まれてしまって いるのかを、わかってほしかった。 ライルは、険しい表情をしながらもニールが話すのをじっと黙って聞いていた。 そして、ニールが話し終えると、長くため息を一つ吐いて、口を開いた。 「どこまで馬鹿なんだ、アンタは」 その、重く攻撃的な言葉に、ニールは表情を硬くする。 だが、ライルの反応はある程度予測できた。ニールは身じろぎもせず弟の厳しい言葉を受け入れた。 「あの金がどういう金かなんて、俺とアンタが一番よくわかってるはずだろ?それを、自分のならまだしも、 赤の他人の手術をするために使いたいなんて、よくも言えるよ」 「悪いとは思ってる。でも、今手術しないと助かる見込みがないんだ。そのための資金を、妹は自分を犠牲に してでも出そうとしてる」 「それが俺達に何の関係があるわけ?第一貸した所で返ってくる保障なんてどこにもないだろ。手術終わって トンズラされたらどうすんの、兄さん。それこそ詐欺の可能性だって捨て切れないだろ」 「そんなことは、」 「ないって言い切れる?絶対?他人から見たらこんな都合のいい話ないぜ。典型的な詐欺の手口じゃん」 「お前…っ」 心無いライルの言葉に頭に血が上り、思わず掴みかかろうとしたが、どうにか理性が働いて留まった。 感情的になってはいけない。話し合いを破綻させては、何もかも終わりだ。 「ライル、いいすぎよ」 隣でずっと無言を貫いていたアニューがライルを諌める。 アニューの静かで、けれど鋭さのある声はニールも同時に冷静にさせてくれた。 ライルの言うことは、仕方のないことだ。 弟はあの姉妹と接していない。客観的に見たら、きっと誰だってライルと同じ考えになるのだろう。 そう思うと、胸が軋んだ。 赤の他人からすればあの二人はその程度の存在になってしまうのだ。 どんなにかソランが苦しい思いをして働いて生きても、それは、世界にはただの小さな点にしかならない。見向き すべき事象にもならない。 それを、ひどく悲しい、と思った。 両親と妹が死んだ時もそうだった。 ニールは世界が終ったように目の前が真っ黒になった。実際世界はこれで終わってしまうのだとすら思った。 けれど、周囲が忙しく慌ただしいだけで、世界は何一つ変わらなかった。 テレビ番組はいつも通りで、電車もバスも問題なく動いた。 それが不思議でたまらなかった。 でも、そういうものなんだ、とも思った。 それが、とてもとても、悲しかった。 世界は、「そんなこと」では何も変わらないのだ。 「根本的に思い違いしてるから言うけどさ」 ライルが言う。 「もし俺が金使っていいって言ったとして、お姉さんの手術が成功したとしても、その姉妹が最終的に救われる わけじゃないんだぜ?」 ニールは何も言わなかった。 ライルが、何を言おうとしているのかわからなかった。 「手術が成功しました、めでたしめでたし、じゃないって言ってんの。後には何が残ると思う? 兄さんへの負い目だ。 赤の他人に金出してもらって、それでのうのうと生きていけるわけがないんだよ。しかも、相手が一個人なら なおさらだ。 何かに付けてその姉妹は兄さんのことを思い出すよ。どんなに時間が経っても兄さんに助けてもらったっていう 事実は消えない。 それは過去になればなるほど、どんどん重荷になっていくんだよ。 そんなのは、本当に救われたって言えるわけ?」 「でも、」 「でもじゃねぇの。兄さんがその姉妹とどういう関わり方してたか知らないけど、所詮は赤の他人なわけ。 赤の他人が身内ヅラして助けたって、そんなの困るだけなんだよ」 ライルの言うことを、ニールはようやく理解する。 そしてそれは、少なからず以前にニール自身の頭を過ぎったことでもあった。 自分の行動が結果的にあの姉妹の重荷になるのではないかと、そう危惧しなかったわけではなかった。 「兄さんは、何も変わんないね」 ライルは幾分声を和らげ、でもやはり呆れたような口調で言った。 「兄さんはいつもそうやって”誰かのため””他人のため”って動いてるけど、それが相手にどれだけの 負い目を与えてるかわかる? 無意識的な同情が、どれだけ他人を傷付けるか、考えたことある?」 ライルの言葉には、妙な実感がこもっていて、それがニールの胸を突き立てた。 弟は、もしかしたら自分のことをずっとこんな風にして見ていたのかもしれない。 だから、遠ざかって行ってしまったのかもしれない。 「いつまでもそうやって優しさばっかり振りかざした生き方してると、いつか兄さん自身が傷付くんだよ」 わかっている。そんなことは。 結局自分の行動が誰も救えないかもしれないなんてことは、ニール自身もわかっていた。 ただもう、嫌だった。 「わかってる」 「わかってない」 「わかってるよ、ちゃんと。もしかしたら俺のやろうとしていることは、誰の為にもならないかもしれ ないってことは」 ”自分のせいだ”と、その細い肩を彼女は震わせていた。 崩れ落ちそうな身体を、頼りない二本の足で支えながら、絞り出すような声でただただ自分を責め続けていた。 そんな思いは、もう捨てさせたかった。 嫌だった。彼女が自分を責め立てるのが。 目の前でそんな彼女を見るのが、もう嫌だった。 「…でも、ごめん。頼むよライル。 俺は、もうあの子が泣くのを見たくない。苦しんでる姿を、見たくないんだ」 「…自分が何言ってるかわかってる?それは、」 「わかるよ。とんでもないエゴだって、ちゃんとわかる。 でも、好きなんだ。だから、何とかしてやりたいんだ」 ライルは、何も返さなかった。 おそらく、ニールのあまりに身勝手な言い分に呆れ返っているのだろう。 もう何でもよかった。胸に溢れている気持ちを、全部出してしまいたかった。 「ライル、俺は怖いんだ。 父さんや母さんやエイミーが死んでも何も変わらなかった”世界”をまた目の当たりにするのが、怖いんだよ。 父さん達の時は何もできなかった。でも今度は、まだ間に合う。もしかしたら、救えるものがあるかもしれない。 変わる世界が、あるかもしれない。俺は、知りたいんだ。 俺にもちゃんと、大事に想ってるものが救えるんだって」 言い切った後の少しの沈黙を、ライルが静かに破る。 「…言いたいのは、それだけ?」 ニールは、こくりと頷く。素直な感情を全部さらけ出してしまった。 もう言葉にするべき気持ちはニールの胸に残っていなかった。 「そういうのはさっさと言えよ。時間の無駄。 いちいちややこしいんだよ、兄さんは」 そう言い捨てると、ライルは椅子から立ち上がってアニューを促した。 きちんとした返答を出さないライルにアニューも困惑した様子で引き留めようとしたが、それには取り合わず あっさりと踵を返してしまう。 アニューが去り際に会釈をしてくれたのが少し救いだった。 ライルとアニューが去った後、ニールは大きなため息と共にど、と肩を落とした。 時間の無駄、と一蹴されてしまった。明確な返事はなかったものの、望みは絶たれたと考えた方がよいかも しれない。 あんな風に、自分勝手な感情ばかりをさらけ出してしまったのだ。ライルは、ほとほと呆れたことだろう。 自分のマンションに帰った後、ヤケ酒でも煽ろうかとも思ったが、とてもじゃないがそんな気分にはなれなかった。 眠ろうかと思ってベッドにもぐり込んでも、後悔ばかりが胸を押し潰して、睡魔は一向に訪れない。 もっと、きちんとした説得の方法だってあったのに、感情的に自分勝手な理由ばかり吐露してしまった。 情けなくてたまらない。 お金の工面ができなかったことを、ソランに言わなくてはいけない。 けれど、手は携帯電話に伸びようとすらしなかった。 自ら彼女に苦渋の決断をさせるようで、恐ろしくてたまらなかった。 気持ちが重く沈む中で、ニールはその晩ほとんど眠らずに過ごし、ソランとの約束の三日目を迎えることになってしまった。 翌日上の空の状態で仕事をこなしながら、時計が着実に進んでいく現実に気が滅入った。 昼頃にはソランに報告をしなければいけない。あまり長引かせても意味はないのだろう。 同僚たちが次々と昼食休憩に入る中、ニールは視線だけを資材資料に向けてデスクに座っていた。 何と言って、謝ればいいだろうか。 期待をさせたその挙句の顛末がこれだ。 ただただ、申し訳なさが募った。 時計を見た。昼休憩が半分程すぎ、そろそろソランへ連絡しなくてはと気持ちを固めたところで、 ニールの携帯電話が着信を報せた。 ニールが駆け足で待ち合わせの駅前に向かうと、相手は既にそこで待っていた。 「アニューさん」 ニールが呼び掛けるとアニューはこちらに気付き、目を細める。 「ごめんなさい、突然呼び出してしまって。でも、早い方がいいと思って」 アニューはそう言うと持っていた鞄を探った。 突然の、しかも昨日顔を合わせたばかりの弟の婚約者からの呼び出しに、確かに困惑を隠せなかった。 「これを、ライルから渡してほしいと預かりました」 そう言って彼女が取り出したのは、古びた、父親名義の通帳だった。 二人でずっと大切に取っておいた、両親が遺してくれたお守り。 ニールが、望んでいたそれ。 必要としていたものが目の前にある現実に胸が湧き上がる感覚を覚えつつも、信じられない、という のが素直な感想だった。 だって昨日、弟はあれだけ自分の行動を否定していたのだ。 ニールが困惑していると、アニューは小さく笑い、口を開いた。 「お兄さんは、ライルに嫌われていると、思っていましたか?」 アニューからの問いに、ニールはすぐには答えられなかった。 なんの前振りもない突然の質問に当惑したのもそうだが、答えが出なかったわけではなかった。 ただ、それを自ら肯定する勇気は、今のニールにはなかった。 ニールが何も言わないでいると、アニューはそのまま話を続けた。 「確かに、ライルがお兄さんとのことで傷付いていたのは事実だと思います。それは、本人も話していました」 アニューの言葉に、いよいよニールの自信は萎れてしまう。 昨日のライルの話からもそれは十分伝わってきたが、第三者から肯定されるとやはりずしりと胸が重くなる。 だがそんなニールの胸中を知ってか知らずか、アニューの口から続けられた言葉は意外なものだった。 「でも、傷付いたから、嫌いになったから離れたわけではないんです。それをまず、信じてあげてください。 ライルが何より気にかけていたのは、お兄さん自身が傷付くことでした」 ニールは返す言葉も見つからずに、ただアニューの話に耳を傾けた。 アニューは穏やかな表情のまま話を続ける。 「ライルから、ご家族の話を色々聞いています。中でもやっぱり一番多いのはお兄さんの話です。 共有する時間が多かったというのももちろんだと思いますが、でも、ライルにとってお兄さんというのは それだけ存在が大きいからだと思います。 いつも言っています。『物分かりのいい顔していつも自分の主張を言わない、他人ばっかり優先しようとする エセいい子ちゃん』って」 なんだか、ずいぶんな言われようだ。 アニューは穏やかな顔をしながら言っているが、それが余計に言葉の辛辣さを際立たせているようにも思えた。 ニールがこっそり傷付いていると、アニューはそれを察してか肩を竦ませ小さく笑う。 それから、少し表情を沈ませて彼女は再び口を開いた。 「『出来のよすぎる兄さんのおかげで俺はいつもみじめな思いばっかさせられてたんだ』。 ライルはよく、そう言ってました」 その言葉に、ニールの胸が軋む。 自分が出来がいいなんて風には思ったことはなかったが、ライルはいつも、自分のせいで暗い気持ちを抱えて いなければいけなかったのだろう。 それを、今になって弟の婚約者から聞かされる現実にニールはひどく気落ちした。 「だから、双子のはずなのに対等じゃなかったって。 いつも年上ぶって物分かりのいい顔をして周りに合わせて自分の主張を言わない。他人優先で自分のことは 後回し。そういうところが、ライルには一番、負い目に思う部分だったようです。 双子のはずなのに、いつも守られているみたいだったって」 『兄さんはいつもそうやって”誰かのため””他人のため”って動いてるけど、それが相手にどれだけの 負い目を与えてるかわかる? 無意識的な同情が、どれだけ他人を傷付けるか、考えたことある?』 昨日のライルの言葉が頭を過ぎる。 ずっと自分はそうやって、無意識のうちに弟を追い込み、傷付けてしまっていたのだ。 ライルへの申し訳なさや自分に対する情けなさがぐるぐると駆け巡り、身体が鉛のように重く感じる。 だがその身体をふっと軽くしてくれたのは、アニューの言葉だった。 「でもライルは、お兄さんのこと優しい人だって言ってました。 時々、その優しさが鬱陶しくなるくらいだって」 後半の容赦ない言葉に、ニールは再び眩暈を覚える。もはやフォローされているのかそうでないのかわからない。 アニューはそんなニールを余所に、話を続ける。 「優しいから、損をするんだって。 自分のことは二の次、後回しで、いつも本当に欲しいものは言わない。 ライルは、そういうお兄さんが心配だったんです。 そのまま、何も変わらずただ優しいだけの人では、本当に大事なものや必要なものが、手に入らない。 手に入っても、手離してしまうって。 大事にするべきものを取り違えて、いつしか、自分自身を傷付けてしまうんだって。そう、話してました」 アニューの言葉が、じわりじわりと胸に温かさを運んでくる。 ニールはただ黙って彼女の言葉に耳を傾けた。柔らかな言葉たちは、まるで春を呼ぶ風のように思えた。 「ライルは、喜んでました。 お兄さんがあの日、ただ優しさからだけの行動じゃなくて、欲しいものを、大事なものを失くしたくないっていう 気持ちがあったことを。 お兄さんにとって、本当に大事なものが傍にあるんだってわかったから。 それをちゃんと、取り繕った言葉じゃなくて、全部正直に話してくれて。守られてばかりだった自分を頼ってくれた のも、嬉しかったんだと思います」 彼女はそこまで言うと、少しだけ申し訳なさそうに笑った。 「ごめんなさい、他人の私が、こんな風に家族のことに口を出して。でもあの人は、絶対に自分からは言わないから」 「あ、いや全然。むしろ、ありがとう。そんな風に言ってもらえて、気持ちが軽くなります…」 結果的に、思わず感情をさらけ出したことがライルの気持ちを動かしたようだった。 ニールがそう言うと、アニューは目を細め「よかった」と笑う。 「ライルに会ってあげてください。あの人は意地っ張りだから、きっとまた渋ると思うけど…でも、本当はもっと 話したいと思うんです。 あの人がずっと抱えてた気持ちとか、お兄さんの側から離れた理由とか、話していないことが、たくさんあると思います。 そういうのをどうか全部、話し合ってください」 アニューは、優しく微笑んだ。最初会った時にも思ったが、とても柔らかく、優しく笑う人だと思った。 ライルが彼女を好きになった理由が、なんとなくわかった気がする。きっと、彼女の隣にいると、心が安らぐのだろう。 「これは、ライルの気持ちなんです。だから、どうか受け取ってください」 アニューが差し出す通帳を、ニールはそろそろと受け取った。 重い、と思った。 大したことのない紙の束のはずのそれは、ニールの手にずしりと存在を感じさせた。 そこには様々な人の気持ちが乗せられているのだろう。 亡くなった両親と、双子の弟。 重い、と感じたが、それを負担に思うことはなかった。 むしろ、嬉しさが募る。 自分は、大事なものを救うことを許されたのだと思えて、胸がじわりと熱くなった。 心の中で、そっと両親と弟に伝えた。 使わせてもらいます。 「あと、これも受け取っていただけますか?」 アニューはもう一度鞄を開け、封筒を一つ取り出した。 厚手の、上質な紙で作られた白い封筒だった。 普段はあまり使うことのない、それこそ、特別な日のために準備されるものだ。 目の前に差し出されたその封筒を見て、ニールの中には色々な考えが巡る。 まだ二人の式は執り行われてはいなかったのだ、という安心感。 またそれとは真逆の、自分が行ってもいいものだろうか、という迷い。 「ライルは渡さなくていいって言ってたんですけれど。でも、たぶん彼が一番来てほしいのは、 お兄さんだと思うんです。 意地っ張りだから絶対、口には出さないでしょうけど」 どうか、受け取ってください、とアニューに促され、ニールは大事にそれを手にした。 「ありがとう、その、色々…。 ライルのこと、よろしく頼みます」 ニールがそう言うと、アニューは目を細め、「はい」と頷いた。 「手術、うまくいくことを願っています。きっと、ライルも。 式でお会いできるの、楽しみにしています」 アニューは最後にそう言ってくれた。 嬉しい、と思った。 自分と同じように願ってくれている人がいること、弟と少しずつでも歩み寄れるかもしれないこと。 受け取った通帳と結婚式の招待状を大事に抱えて、ニールは病院に駆け出した。 病院で一人待っていたソランに、事の説明をした。 彼女は初め状況が理解できないとばかりに目を丸めて話を聞いていたが、やがて、ほろり、と 一粒だけ涙をこぼした。 そして、搾り出すように、「ありがとう」と口にした。 まだ手術が成功したわけでも、姉妹を取り巻く環境が変わったわけでもない。 けれど、少しだけ”世界”の変わる瞬間を目に出来た気がした。 13.03.11 ――――――――― 次で終わります。長かった…! |