隣に貴方がいる。 たったそれだけのことが、世界をこんなにも美しく見せてくれる。 Beautiful World−21− マリナの手術は、三時間ほどに及んだ。 待合室ではソランはずっと一人だったが、孤独でもなかった。いくらかの緊張や不安はあった。手術の成功を、 ひたすらに祈った。 ただ、恐怖はなかった。 ソラン自身も不思議だったが、心当たりがないわけではなかった。 ニールに握られた手が、ずっと温かかった。 どうしても抜けられない仕事がある、ということで、ニールは今ここにはいない。そのことを、彼はひどく気に 病んでいる様子だった。 「ごめんな、本当に。できれば一緒にいたかったんだけど」 ニールはそう言って、ソランに謝ってきた。 ソランと違い、ニールが長時間拘束される義務はない。 だから、そこまで謝る理由などニールにはないのだが、それでもそうやって気にかけてくれることが、ソランには 嬉しかった。 病院を去る直前、彼はソランの手を包み込むように握った。 温かい手だった。その手に、熱を移すくらいに力強く、でも優しく握られた。 「手術、うまくいくよきっと。マリナさんは、お前のことを置いて行ったりしない。絶対だ」 そう言って、長い時間、まるで祈るようにそうしていた。 その手が、ニールが去ってしばらく経っても温かいままだった。 ニールが、自身がいられないかわりに温もりを残してくれたように思えた。だから、待合室に一人でいても、怖くはなかった。 温かさの残る手を、ソランはそっと頬に添えた。 ニールの残してくれた温もりや言葉が、ソランに孤独を忘れさせてくれた。 手術の終了を看護師が告げに来ても、まだニールの手の感触は残ったままだった。 麻酔からマリナが目を覚ましたのは、手術から二時間ほど経ってからだった。 始め宙を彷徨っていた目は、やがてソランを捉えると安心したようにふ、と細められた。 「ソラン」 喉が渇いているのか、久しぶりに声を発したためか、マリナの声は空気を震わせる程度のか細いものだった。 それでも、義姉が再び目を開け、自分の名前を呼んでくれた現実に、ソランは込み上げそうになった。 「ありがとう、ソラン」 マリナが、再び声を発する。 「ごめんなさい、今まで、貴方に色々なものを、背負わせて、しまった…」 「義姉さん、無理には、」 目覚めたばかりの状態で、ゆっくりではあるものの多く話そうとするマリナをソランは止めようとした。 マリナが何を話そうとしているのかわかったから、というのもあった。懺悔の言葉など、マリナの口から聞きたくなかった。 だが、マリナは口を閉じようとはしなかった。 マリナは布団からゆるゆると手を伸ばし、ソランの頬に手を添える。 「もう、いいから」 「え?」 「もう、私のために、つらい思いは、しなくていいから…。これからは、自分のことだけ、考えて…」 「義姉さん、それは、」 ソランが発する言葉を押しとどめるように、マリナはそっとソランの口元に手を添える。 まるで、それ以上話す必要はない、と言うような仕草だ。 マリナの方も何も言わず、ただ穏やかに、けれどどこか憂うような表情で微笑んでいた。 やがて、疲れが出たのかマリナは静かにまた眠りに付いた。 もしかすると、と思った。 もしかするとマリナは、全てを知っていたのではないだろうか。”仕事”のこと、母の借金のこと、ソランが今まで 吐いてきた、嘘全て。 知られたくない、と何も話さなかったソランに合わせるように、何も聞かなかったのかもしれない―――と、そこまで 考えてソランはそれらを否定した。 それを、今更追及しても何の意味もないと思った。マリナがあれ以上何も言わないのなら、自分も今まで通り何も話さない 方がいい。 マリナが眠ってしばらくしてから、ソランは病室を出て、ゆるゆると院内を歩いた。 マリナは、「自分のことだけ考えていい」と言った。そういわれてソランの頭に過ぎったのはニールのことだった。 一度は捨てた感情だった。本当は、捨てた”つもり”になっていただけで、ずっと胸の底にはあったのだ。 ソラン自身も、今更そのことを否定しようとは思わなかった。 マリナの手術を待つ間、彼の手に、言葉に、どれほど救われたかわからない。 けれど、本当にいいのだろうか。このまま、思うままに気持ちを伝えることは、間違いではないだろうか。 マリナを置いて、自分だけが前に進むのではないだろうか。 そんな考えが、どうにもソランを足踏みさせる。 答えの出ない考えを巡らせていると、病院の出口だった。 自動ドアが開くと、初夏の生暖かい風が頬を掠める。手術が始まる頃には高かった日が、西に傾き始めていた。 「ソラン」 呼ばれた声に、は、と顔を上げる。 ニールが、ひらひらと手を握りながらこちらに向かってきていた。 手術が終わった頃に、無事に済んだ、と連絡を入れておいてあったから、それで来たのだろう。 仕事は一段落したのだろうか。 「マリナさん、どうだ?」 「さっき、目が覚めた」 ソランがそう言うと、ニールは「そうか、じゃあよかった」と嬉しそうに目を細める。 その、柔らかな表情に、ほ、と心が軽くなった。 おかしな話だ。ほんのさっきまで、この男ので悩んでいたのに。 てっきり病院に入ってマリナの顔を見に行くと思っていたニールは、そのまま踵を返した。 「…会いに来たんじゃ、」 「いや、目が覚めたのがわかればいいさ。手術終わってすぐじゃ疲れてるだろうしな」 その言葉に、ソランは自分が安心していることに気付いた。 ニールはマリナには会いに行かない。そのことに、胸を撫で下ろしている。 しかし、そんな浅はかな自分に、嫌気が差しているのも事実だった。 「もうアパートに帰るだけか?」 胸の中に複雑な気持ちが残ったまま、ソランは無言で頷く。 「じゃあ送ってくよ。せっかくだから、ちょっと寄り道でもして行こう。ずっとここにいたから疲れたろ?」 特に用事もない。ソランは、ニールの誘いのままに、車に乗った。 助手席の窓から流れる景色を眺めながら様々なことに考えを巡らせた。 これまでのことと、そして、これからのこと。 時たま視線をニールの方へ向けた。隣に座る男は、真っ直ぐに前を見てハンドルを握っている。 車内はずっと無言だったが、空気はどこか柔らかく感じた。 ニールが車を止めソランを連れて来たのは埠頭だった。 傾いた西日が水面に反射して、いくつも光を生み出している。その、美しい光景に、ソランは目を細めた。 「きれいだろ。仕事に行き詰るとさ、たまに来るんだ」 柵に手を掛け、海の方を見たままニールが言う。時々吹く強い海風が、彼のウェーブのかかった髪をなびかせるのを、 ソランはじっと見た。 そうして、ゆるゆると口を開く。 「ありがとう」 ニールはソランの方を向いた。何か言いたげなのがわかったが、ソランは構わず口を開いた。 どうしても、伝えたかった。 「アンタがいなかったら、俺も、義姉さんも、どうなっていたかわからない。 本当に、ありがとう…」 言葉一つでは足りなかった。ニールがいなければ、本当に、何もかもが終わっていた。 もっと、感謝の気持ちを伝えたくて、しかしソランには上手くいかなくて、それがもどかしかった。 代わりに、繰り返し繰り返し、「ありがとう」と、「すまなかった」を口にした。 「金は、いつか必ず返す。母親の借金もあるから、いつになってしまうかわからないが、でも、いつか必ず、返すから」 「いいよ、そんなの。返そうなんて、思わなくて。俺がしたくて、勝手にしたことなんだから」 ソランは、ニールの言葉を拒否するように、首を横に振った。 そういうわけにはいかなかった。あれは、彼の両親が家族のためにと遺した金だ。 それを、命を救うためとは言え他人が勝手に使って、そのままにしていいはずがなかった。 「俺の方こそ、ソランにお礼言わなきゃいけないんだ」 ニールの言うことがわからず、ソランはいぶかしげな顔をした。 救われたこちらの方がお礼を言われるなど、聞いたことがない。 ニールは肩を竦めて笑った。 「弟と、話せたんだ。もうずいぶん会ってなくて、連絡しても、そっけなくて。 …俺はもう、修復なんて出来ないのかと思って、ちょっと諦めてた」 弟の存在があったことを、いつかニールに聞かされたのをソランは思い出していた。 その時は、あまり連絡が取れてないのだと、笑ってはいたけれど、どこか寂しそうだった。 今のニールは、その時とは違う、穏やかで、嬉しそうな表情をしている。 「でも、正直な気持ちぶつけて、わかってもらえた。ライルの、弟の気持ちも知るきっかけになった。 結婚式にも呼ばれたんだ。 これから、たくさん話して、すぐにとはいかないかもしれないけれど、わかり合えるかもしれない。 ソランのおかげなんだ。ソランが、きっかけをくれた。ありがとうな、本当に」 ソランはふるふるとかぶりを振った。自分は何もしていない。ニールが弟とわかり合えることができるのは、紛れもなく 彼自身の力によるものだ。 でもそれでも、ほんの少しでも彼のためになることに自分が関われたなら、それは嬉しかった。 「ソラン」 ニールの低く、けれど柔らかい声が呼び掛ける。 顔を上げると、声のままの、優しい面持ちをしていた。けれど、その碧色の眼には、決意のようなものが伺えて、 ソランの心臓を一つどくりと大きく鳴らした。 「ソラン俺は、お前のことが好きだよ」 なんて、穏やかな声で言うのだろう。 ずっと聞いていたいとすら思う、低く心地の良い声は、言葉と共に何の抵抗もなくソランの体に染み入る。 ニールの眼は真っ直ぐにソランを見据えていた。逸らせなかった。いや、逸らしてはいけなかった。 彼は真摯に自分に想いを告げてくれた。だから、自分も向き合わなくてはいけなかった。 ニールと出会って、ソランの世界は瞬く間に広がった。 彼と触れ合う度に感情が揺れ動き、温もりを覚えた。 最初の頃は不要な感情だと思っていた。けれど今は、彼を想うことを素直に嬉しいと思っている。 ニールが自分を好きだと言ってくれて、心から嬉しかった。 それまで胸の内にあった不安が、嘘のように消え去った。 ソランにはもう、それで十分なくらいだった。十分、満たされた。 「…俺も、たぶん、アンタのことが好きなんだと思う」 ニールの頬が瞬間、緩んだのがわかった。それを遮るように、ソランは言葉を続ける。 それが彼を落胆させるものだとしても、ソランには躊躇いはなかった。 「けれど、やはり俺には義姉さんを置いて行くことができない。手術は成功したけれど、まだ治療は必要だ。 まだ、金がいる。俺は、今の仕事をやめるわけにはいかない」 マリナは、「自分のことだけ考えていい」と言ってくれた。けれどソランには、どうしても手放しにそれを選ぶことは できなかった。たくさん考え、迷ったが、それがソランの出した結論だった。 ニールのことは好きだ。それはもう、ソランの中で偽りようのない感情だった。 けれど、それよりも優先させたいのは、やはりマリナのことだった。 自分の最もつらい時に一緒にいてくれて、救い上げてくれたマリナを、もう苦しめたくはなかった。 何よりソランの中で、あの日、瞬間的にとはいえ、マリナを呪った事実は消えない。 マリナは関係ない、と言うかもしれない。ニールはお前のせいではない、と言うかもしれない。 それでも、あの日、あの一瞬。自身の感情に飲み込まれた自分を、ソランは許すことが出来ない。 もちろんマリナの傍にいたいのはそれだけが理由ではない。そんな罪悪感や義務感を差し置いても、ソランにとって マリナは唯一無二だ。 二人で一緒に生きたい、と心から思う。前とは違う、自分を犠牲にする生き方ではなく、マリナと二人、肩を並べ、 これからを歩んで行きたい、と。 だから、そうするためには「仕事」を手放すわけにはいかなかった。 何もかもを投げ出してこの男の胸に飛び込むことは、ソランには出来なかった。 「…アンタのことは好きだけれど、アンタを一番にはできない。……すまない」 ソランは目を伏せ、頭を下げた。これでこの男との繋がりが絶たれても、それはそれで構わなかった。 一瞬でも自分の心は満たされた。それでもう、十分だった。 生暖かな海風が髪を揺らした。しばらくの間ソランの耳に入るのは風や波の音だけだった。 「いいよ、それで」 ニールが、静かに言う。耳に届いたその言葉に、ソランは顔を上げる。 「ソランはそれで、いいんだよ。俺はそういうソランだから、好きになったんだよ」 あぁ。 あぁ、どうしよう。 どうしてこの男は、そうやって受け入れてくれるのだろう。 自分の言っていることはどうしようもなく自分勝手なことなのに。拒まれても仕様のないことなのに。 手に届きそうな幸福感に、ソランはただ戸惑いを覚えた。 ニールは再び口を開いた。 「大事なものがいっぱいあったっていいんだ。天秤にかける必要なんてない。 ただ、重くなって、抱えきれなくなったら、俺に半分持たせて。俺もソランの大事なもの、一緒に守っていくから」 いいのだろうか。 この胸の隅に宿った、どうしようもなく身勝手な望みを口にして、許されるのだろうか。 ニールを見た。 揺るがない優しい碧色がそこにあって、それが、ソランの口を開かせた。 「……アンタを、一番にはできない。それでも俺は、アンタの傍にいても、いいだろうか」 「いいよ。いい。俺は、ソランと一緒にいたいよ」 卑怯だ、と思った。 他でもない自分が。 だって、こんな風に言ったって、この男は受け入れてくれてくれる気がしたから。 許してくれるのが、わかったから。 満たされるような幸福感の片隅で、小さな罪悪感が生まれ、ごちゃまぜになって、ソランは涙を零した。 それでも、彼と一緒にいたいと思った。 どんなに後ろめたさが募っても、彼と、生きていきたいと願った。 ニールは、そっとソランの体を抱き寄せた。彼の体温が伝わってくると、その温もりに目を閉じ全て委ねた。 いつか、全て話したいと思った。母のこと、あの日、マリナを呪ったこと、ニールに話していない、自身の奥底の 感情、全部。 すぐじゃなくていい。いつか、ゆっくりと時間をかけながら、この人に全部出せたら、と思った。 そっとソランは閉じていた目を開く。 映ったのは、太陽の光が反射した、眩しいくらいに輝く世界だった。 世界はどこか軽薄で、悲しく、苦しい。 けれど、美しく映る時もある。 それは間違いなく、貴方が隣にいる瞬間なのだ。 13.10.15 ――――――――― 長いこと、ほんとうに長いことお付き合いありがとうございました。 書き始めて四年…。ようやく着地できました。自分でほっとしています。 色々と目を覆いたくなるような稚拙な点もあるかと思いますが、ここまで読んでいただいたこと、ほんとうに 感謝の気持ちでいっぱいです。ありがとうございました。 |