Beautiful World−17−
ニールへの気持ちを自覚したからと言って、ソランの中で別段大きな変化があったわけではなかった。 ニールとは変わらず接しているし(この時は自分の乏しい表情に少なからず感謝をした)、周りがソランの中で生まれた 感情に気付いてる様子もなく、安心した。変化はあまり好きな方ではなかった。 ただ、ニールと話したり、彼の傍にいたりすると、胸に陽だまりが出来たように温かくなって、けれどどこかそわそわと 落ち着きがなくなっていくような感覚は、否定出来なかった。 デザイン事務所でバイトをさせてもらうようになって一か月ほどが経ち、だいぶ仕事にも事務所の空気にも慣れてきていた。 この間、ここでの初めてのバイト代を渡された。開いた明細に書かれた金額は本業であるAV女優ののよりはるかに低いもの だったのに、どうしてだかそれが気にならないぐらい充足感が込み上げた。 同じように機械的に数字の並ぶ一枚の紙切れなのに、こちらで手渡された明細表の方が重く、温かみを感じるのだから、 不思議だ。 クリスティナやフェルトとは、よく休日に会うようになった。 携帯の番号を聞かれたので教えたら、頻繁に連絡が来る。主に、クリスティナから。 昼食を一緒に取ったり、服屋に行って最近の流行をあれこれ物色したりもした。 最初の頃は慣れないことばかりで戸惑い、どう行動すればいいかわからなかったが、クリスティナが上手に引っ張ってくれた。 クリスティナに言わせるとフェルトがもう一人増えたような感覚らしい。 よくフェルトと一緒になって彼女の着せ替え人形にさせられた。 やっている当人は楽しそうだから、それでいいのかもしれない、と思った。 クリスティナやフェルトと会う時間が増えて段々とその空気に慣れてくると、年相応の行動をしていることが新鮮に思えて、 戸惑いが小さく消えていった。 そんな、ゆっくりとした満ち足りたような時間を過ごす中で、ソランの中にあるニールへの感情は、静かに静かに温められていた。 誰にも、ニール本人にも言えないまま、自分の胸の内に仕舞われたままだった。 このままで今は十分だと思った。彼の近くにいて、春の陽だまりのような温かさを得られれば、それでいいのだと。 けれどニールは以前、自分のことを好きだと言ってくれた。あの気持ちは、今もまだ持ってくれているのだろうか。 もしそうだとしたら、自分はどうするべきなのだろう。伝えるべきなのだろうか。自分も、ニールを好きだと。 わからなかった。 満たされる感情の一方で、胸をじりじりと焦がしていくような感覚が、ソランを悩ませていた。 そんな日々を過ごす中で、ある時ソランの携帯電話に一件の着信が入っていた。仕事中で気付かず、不在着信になっている。 フラップを開いてディスプレイを見ると、ご丁寧に留守電も入っている。 それで、もしや、と思った。 「え、休み?」 デスクで書類に目を通していたスメラギに声を掛け、話をした。 ニールはちょうど現場に行っているらしく、事務所内にはいない。 「あぁ。明日、急ですまないが休みをもらえないだろうか」 「まぁ、今はとりあえず落ち着いてるから大丈夫だけど」 「なら、頼みたい」 電話は、社長からだった。 留守電には短く、『仕事だ。二日後事務所に顔出せ』と入っていた。 休息を言い渡されて約二か月。久しぶりの”仕事”だった。 その日のデザイン事務所での仕事を終えてアパートで夕食を取っている途中、携帯電話が着信を報せた。 サブディスプレイにあったのは、ニールの名前だった。 何故だろうか。 いつもは何のためらいもなく彼の電話に出るのに、今は少し、通話ボタンを押すことを躊躇していた。 かと言って出ない理由も見つからないので、少し遅れてニールからの電話に出た。 『ソラン、お疲れ。今大丈夫か?』 「あぁ」 耳に響く低くて少し重めの声に、ソランは自分の気持ちがほっと一息つくような感覚になったのに気付く。 やっぱり、出てよかった。あの通話ボタンを押すのに生まれたためらいが逆に不思議なくらいだ。 ニールの電話は、スメラギに申請した休みの話だった。 本来であればニールには直接話さなければいけなかったのだろうが、現場に行っていた彼とは、結局終業時間まで会うことが なかった。 おそらく、ソランが帰った後スメラギから聞いたのだろう。 ソラン自身、ニールが電話を掛けてきた時点で、何となく、話の内容に見当は付いていた。 何かあったのか、とニールは心配げな声を出した。 その声に少しだけ気持ちがそわりと動きつつも、「問題ない」と淡々と返した。 「社長から連絡があった。事務所に来いと。それで、休みがほしかった」 事実だけをそうやって話すと、電話越しにニールの戸惑いが伝わった。 仕方のない反応だろう。彼は、あわよくば自分を本業であるAV女優の仕事を辞めさせたいとさえ思っていたのだから。 それでもソランが社長からの呼び出しの件をニールに話したのは、彼に知っていてほしいという思いがあったからかもしれない。 なのに、どうしてだろうか。 事実を話した途端、この胸が重く痛みを覚えたのは。 『社長からって、それってもしかして』 「あぁ、仕事だそうだ」 『そんな、大丈夫なのか、だってまだ、』 「問題ない。体調はもうだいぶいいし、それに、いい加減働かないといけない」 知らず、早口になった。 やっぱり今日の自分は少しおかしい。 ニールがこの話を聞いて快く思わないのはわかりきっていたことなのに、電話越しに彼の言葉が届くたびに胸が重くなっていく。 話すべきではなかったのだろうか。 でも、ニールは自分の仕事のことを知っている。これで嘘を言う方がおかしい。 『なぁ、ソラン、』 ニールが一段と声を低くして、何かを言おうとしていた。 駄目だ。 「明日、早いからもう休む。突然そちらの仕事を休むことになってすまなかった。それじゃあ」 『なぁっソランっ』 矢継ぎ早にそう言って、ニールの言葉を受け付けようとしなかった。これ以上何かを聞くと、どこかおかしくなりそうな予感がした。 電話を切った後に耳に響く無機質な音が、ソランの胸をさらに重くした。 翌日、予定通りに所属事務所に向かった。 昨日感じていた胸の重さはある程度軽くなっていた。というよりは、あまり考えないように努力した。 久しぶりに足を踏み入れた事務所は、どこか居心地が悪かった。元よりこの場所に安らぎなど求めていなかったのだが、 それにしても、落ち着きを感じなかった。 二か月という休息期間は、思いのほか長かったのだろうか。 社長室に向かう途中の廊下で、何度か顔の知っている人間とすれ違った。共演したことのある男優やスタッフだ。 その誰もが、”刹那”の存在に気付くと一瞬だけ驚いたような顔をした後、意味ありげな視線を向ける。 二か月も顔を出さなかったのだ。当然の反応だろう。 この業界は入れ替わりが激しいから、しばらく顔を見なければそれは引退とほどイコールになる。 だから”刹那”とすれ違った人間ほぼ全てが、「あぁ、やめてなかったんだ」と思っただろう。 やめるわけがない。 まだ、やめるわけにはいかない。 マリナの病気を治し、母の残した金を返すまでは。 そう、思った途端、ソランの胸がツキリと痛んだ。 その理由がわからず、首を傾げる。やっぱり自分は、昨日からどこかおかしい。 久しぶりに顔を合わせた社長は、相変わらず仕立てのいい高級そうなスーツを着こなしていた。 挨拶もそこそこに、今回の”仕事”の監督との打ち合わせが始まった。 打ち合わせ自体は、淡々と、スムーズに進んだ。 「今回は刹那ちゃん二か月ぶりの仕事ということだから…リハビリの意味も含めて内容はわりと軽めになってるよ」 監督の言葉に、社長が続けて言う。 「感謝するんだな、刹那。カントクさんの計らいだ」 何故だろうか。 ”刹那”と呼ばれること自体は、別に久しぶりでも何でもない。(現にニールの職場でもその呼び名で通っている) それなのに、どうしてだろうか。 ”刹那”と呼ばれるたびに胸を占めていく、この妙な違和感は。 気持ちの置き場が見当たらない、不安すら覚える感覚。 そんなに緊張しているのだろうか、久しぶりの”仕事”に。 でも何故、先ほどからニールの姿が頭を過ぎって離れないのだろう。 こんなことではいけない。 せっかく久しぶりに入った”仕事”なのだ。しかも、制作側が自分に譲歩してくれている。 これでしくじっては、また振り出しに戻ってしまう。 いい加減収入を得なければ、マリナの治療に支障が出てしまう。 それだけは避けなくてはいけない。 そう思い、ソランは気持ちを切り替え打ち合わせに集中した。 けれど胸の片隅には違和感が残り続け、いつまでもニールの姿が頭を掠めていた。 打ち合わせが終わった後、ソランは足早に事務所から出た。 ここにいたくなかった。 駅に向かって、ちょうど来ていた電車に駆け込んだ。 マリナに会おうと思った。 マリナの温かさに触れれば、この正体もわからない胸を占める不安も、溶けてなくなるだろうと思った。 病院に着いて、マリナの病室に真っ直ぐ向かった。 病室の入り口まで来たところで、軽やかな談笑がソランの耳に入った。 マリナの場所からだった。 なんだか病室に入りづらくなり、入り口からそろりと中を覗いた。 その瞬間に、ドクリと、胸が重たい音を立てて軋んだ。 病室にいたのは、ニールだった。 マリナと二人で、穏やかに、でも楽しそうに話をしている。 その雰囲気が、あまりにも絵になっていた。 ソランは急いで踵を返して、病院から出た。 出来るだけ病院から離れたくて、先ほど乗ってきたばかりの電車に再び乗り込んだ。 胸の中で色々なものがごちゃまぜになって、気持ち悪かった。 体中にドロドロとした感情が巡り巡っているみたいだった。 それまで正体のわからなかった不安は、一気にその姿を現した。 頭の中で何度も何度も先ほどのマリナとニールの姿が呼び起された。 とても、いい雰囲気だった。 きっとどこの誰が見てもお似合いだと思うだろう。 ニールは顔立ちが整っているし、義姉だってとてもきれいだ。年だって二人とも近い。 自分がニールの近くにいたって、あんな風にはきっとなれないだろう。 マリナにはいい相手だ、ニールは。 病院にずっといて、外の世界と関わりがない。せっかくあんなにきれいなのに、もったいない、と常々思っていた。 だから、ちょうどいい機会ではないか。 これで病気が治れば、マリナの将来は何も心配いらないだろう。 でも、自分は? 今やっている”仕事”に終わりなど見えない。母の借金があとどれくらいで返せるのかも見通しが立たない。 そんな、闇を手探りするような状態で、マリナの病気を治すために働いているのに。 彼女が少しでも元気に生きられるように。 好きでも何でもない、素性も知らない男に、股を広げているのに。 ニールのことだってそうだ。 彼は、自分を好きだと言ったのに。あんなにもあっさりと、彼女は持って行ってしまう。 いつかの母の言葉がよみがえった。 『一生借金に追われて暮らせばいい。AV女優なんて汚らわしい仕事、ずっと続けてればいい。後悔すればいいわ』 一生。 自分は、ずっとずっとこんな暮らしを続けて行くのだろうか。 ”汚らわしい”と吐き捨てられた仕事を、誰かのために続けて行くのだろうか。 年相応の行動もまともにできず、好きな男と一緒にもなれない、そんな生き方を。 頭も気持ちもぐちゃぐちゃだった。 ただただ重苦しい感情に支配された。 焦り。苛立ち。不安。 自分がもう何を考えているのかはっきりわからなかった。 目の前が真っ暗になりそうだった。 誰のせいで、こんなことになっている? どうして自分がこんな思いをしなければいけない? マリナさえ、 マリナさえいなければ、こんなこと――――― そう考えた途端、ソランは弾かれたように頭を真っ白にした。 今。 今自分は、何を考えた? マリナさえ、いなければ―――? 何を考えている。何を馬鹿なことを考えているんだ。 必死で否定した。そんなことはない。そんな考えはあっていいはずがない。 でも、一瞬でも頭を過ぎったのは、確かだったのだ。 ソランは自分が怖くなった。ぞくりと寒気がした。 マリナがいてくれなければ、今の自分はいないというのに。自分の生きる理由は、マリナがいるからなのに。 嫉妬に駆られ、激情に飲み込まれていく。 知らなかった。自分がこんなに、恐ろしい人間だとは。 自覚なんて、しなければよかったのだ。 ニールのことを想う気持ちなんて。ずっと、気付かないふりをして、マリナのことだけを想っていればよかったのだ。 そうしたらこんな風に、恐ろしい考えを持つこともなかったのに。 しばらく本業の方に打ち込もう、と決めた。ニールのデザイン事務所に足を運ぶのもやめて、マリナにも会うのをやめよう。 きっと会うことをやめていれば、こんな気持ちは忘れてしまう。 マリナへの嫉妬も、ニールを想う気持ちも。 全部全部、捨ててしまおう。 全て元に戻っただけだ。一番最初に。何もなかった頃に。 マリナのためだけに生きればいい。 ただそれだけの気持ちがあればいいのだ。 それだけあれば、自分は生きていける。 自分には、春の陽だまりのような温かさなんて、到底似合わないのだ。 11.09.27 ――――――――― おぉ…やっと書いた…。やっとここまで来た…。 ラストに向かって猛ダッシュです。たぶん…。← |