Beautiful World−16−
微かな物音と、カーテンから漏れ出る光でソランは目を覚ました。
目に入ってくる、記憶にない部屋の光景に一瞬だけ困惑したが、すぐに思い出した。そういえば、自分のアパートに戻るのが
億劫でニールの部屋の、やけに座り心地のいいソファに沈み込んだのだった。
ソランは固まった自身の体をもぞりと動かし、少しだけ体の筋を伸ばす。すると、自身の肩にタオルケットがかかっていることに
気付いた。眠る時にかけた記憶はない。
ソファから体を起こし、部屋に視線を巡らせると、ニールの姿が視界に入った。彼は昨日の余韻を感じさせることなく何やら手際よく
作業をしていた。
規則正しい音が聞こえるから、きっと朝食を作っているのだろう。
向けられる視線を感じたのか、ニールもこちらに顔を向け、ソランが起きたことに気付く。

「おはよう。昨日はごめんな、迷惑かけちまって」

そう言って苦笑いを浮かべ謝るニールに、ソランは「別に、気にしていない」と淡々と答えた。

「朝メシもうすぐ出来るからさ、少し待っててくれな」

ニールは再びキッチンの方に顔を戻し、作業を始めた。
やがて熱せられたフライパンで油がはねる音と一緒に、香ばしい匂いがソランの鼻をくすぐった。

ただソファで待っているのも退屈に思えて、ソランは部屋の中を見回した。
昨日は暗がりでよく見えなかったニールの部屋が、よく見える。掃除の行き届いた、きれいに整頓された部屋だった。
ふと、テレビラックの側にある戸棚に置かれた写真が目に入った。
気になって、ソファから立ち上がり写真を手に取った。
ずいぶんと古い写真だ。家族で撮られたものだった。
両親と、双子の兄弟、そして、末の子であろう妹が、全員レンズに向けて楽しそうに笑顔を作っている。
ニールの家族の写真と考えるのが自然だろうが、それにしたってずいぶんと古びている。
何故わざわざこんな古いものを飾っているのだろうか。
そんなソランの疑問を断ち切るように、背中から声が掛かる。

「俺の家族だよ。父さんと母さんと、あと双子の弟のライル。それから、妹のエイミー」

朝食を作り終えたのか、いつの間にかニールがキッチンから出て背後に立っていた。
ニールはソランから写真を取り、一人ずつ指を差しながら懐かしいものを見るみたいにして顔を綻ばせていた。
ソランは、そんなニールに疑問を投げかけるように視線を向け、やがてニールもソランの視線に気付き、小さく笑う。

「古い写真だろ。もう十年以上前のなんだ。家族全員で撮った、最後の写真なんだよ」

静かな告白に、ソランは思考を止めた。
口にする言葉が上手く思いつかず、ただニールを見るしかなかった。
「何故」、とは聞けない。答えなんて、限られたものしかない。
ニールは、ソランの困惑を救い出すみたいに、小さく笑った。

「俺がな、14の時。交通事故だったよ」

ソランが出来るだけ重く受け取らずに済むように、柔らかい口調で話しているのがわかった。
それが余計につらく感じた。
ニールは続けて話した。

「俺は事故の時たまたま一緒にいなくてさ。警察から呼び出されて病院行ったら、両親と妹、もう冷たくなってた」

ソランには、その時のニールの気持ちを理解するのは難しかった。
想像するのは簡単だ。ある日突然に、両親と妹を失う。
それは、きっとソランが考えるよりもずっと絶望的なのだろう。
たぶん、味わったことのある人間にしかわからないものなのだ。

けれど、わかったこともある。
彼が必要以上に自分たち姉妹に関わろうとする理由は、ここにあったのだ。
彼は、大事なものが自分の目の前からなくなってしまう悲しさやつらさを知っている。
それをきっと、自分に味わわせたくなかったのだろう。

「すまない」
「え?」
「アンタのそういう事情を何も知らないで、勝手なことばかり言っていた…」

"失くしたこともないくせに"
"何も知らないくせに"

そんな軽率な言動を繰り返した自分を恥じた。
彼の行動は、決して軽々しい偽善や同情などではなかったのに。

「気にするなよ。だって知らなかったんだ、ソランがそう考えるのも当たり前なんだよ。
それにさ、一人残されたわけでもないんだ。ほらこの、双子の弟。生きてるからさ。まぁ、最近はあんま連絡取れてないんだけど。
ていうか俺の方こそごめんな。朝っぱらから辛気臭い話してさ。
俺は大丈夫なんだよ。もう、十年以上も前の話だし」

ニールはそう言って笑ってくれた。
逆に気を遣わせてしまったことに、ソランは申し訳なく思った。
彼は笑ってはいるけれど、きっと、未だに事故のことを忘れてはいないのだろう。
部屋にその場所を確立させている家族の写真が、それを物語っている。
彼はどんな思いで事故からの十年余りの月日を生きてきたのだろう。
出来上がった朝食を二人で向かい合って食べる中で、ソランの中には一つの思いが巡っていた。

そうだ。自分は、ニール・ディランディという人間のことを何も知らないのだ。
ニールにアパートまで送ってもらった後、軽くシャワーを浴びて着替え、義姉のいる病院に向かった。
休日の院内は、入院病棟だけが少しだけにぎやかで、人の出入りが多かった。

マリナに、ニールのデザイン事務所での仕事の話をした。
ソランの話に、マリナは一つ一つ丁寧に相槌を打っていた。心なしか、なんだか嬉しそうだった。
歓迎会が開かれた時の話もした。マリナに、「あら、今頃?」なんて突っ込まれて、しまったと思ったが、自分が入ってから
しばらくはひどく忙しかったのだと言ってごまかした。
事務所の人間はみんな酒好きだった。自分の歓迎会と称しつつも、実は酒が飲みたい口実だった。ひどく騒がしくて、最後は
ほとんどの人間が酔いつぶれていた。

「楽しかったのね」

マリナが言う。
ソランは、小さく目を丸めた。そんなに楽しそうに話していただろうか。
けれどしばらく考えて、それから、こくり、と頷いた。

「騒がしいのは、あまり得意ではなかったけれど…でも、嫌じゃ、なかった」

飲み会の場でニールにはあまり乗り気でないような返答をしてしまったが(実際に少なからず気後れもしていたのだが)、
心の底からそこにいたくないわけではなかった。
フェルトという、同年代の人間とゆっくり話したことも新鮮だった。
何より、他人に受け入れてもらうということが、あんなにも胸をじわりと熱くさせるものだとは知らなかった。

ソランが答えると、マリナが嬉しそうに目を細めた。
きっと喜んでくれている。人と関わることを避けてきた自分が、人と関わって嫌じゃないと感じられたことを。
なんだか、くすぐったかった。
でも、マリナにたくさん聞いてほしいとも思った。

「ディランディさんのおかげね」

マリナは、やっぱりどこか嬉しそうな顔をしてそう言った。
義姉の、言う通りだった。
思い起こしてみれば、ニールがああやって、しつこいぐらいに世話を焼いてくれなければ、きっと今自分はこうやってマリナの
傍にいられなかっただろう。
体調を崩したのをきっかけに泥沼状態に陥って抜け出すことなど出来なかったはずだ。
ニールが根本的な問題を解決したわけではない。
現状を言ってしまえば何も変わっていない。
自分は未だにAV女優なんて仕事をしているし、マリナの病状が好転したわけでもない。
それなのに、気持ちは驚くほどに軽くなっている。
あの、胸や胃でぐるぐるとどす黒く渦巻いていた感情は、ソランの中にはもうなかった。

不思議だ。ニールの近くにいると、気が休まるようになってしまっている。前は苛立ちの方が大きかったのに。
マリナと一緒にいる時と、近いようで違う。
いつも真っ直ぐな言葉を吐いて、胡散臭いぐらいに温かい。
ニールの言葉は、何度もソランの頭を過ぎった。その度に、胸が重く音を立てながらも視界がクリアになる感覚があった。
間違いなく、あの瞬間に自分は救われていたのだ。

彼を彼として作り出しているものは何なのだろう。
自分は、ニール・ディランディという人間のことを何一つまともに知らなかった。知ろうとしなかった。
家族を事故で失くしていたことも、双子の弟がいたことも。
他にはどういうことがあったのだろう。
知りたい。
ニールのことを、近くにいて、もっと知りたいと思った。

「…そうだな。そう、思う」

マリナの言葉に返事をした。
ソランが肯定をしたことに、マリナはにこりと笑う。
たぶんもう、ずっと前からだったのだ。
自分が気付いていなかっただけで。
認めてしまうと、こんなにもストンと胸に収まってしまう。

ソランはそっと、誰にも気付かれないように自分の気持ちに名前を付けた。
一瞬だけ、慣れない感覚にくすぐったさを覚えたが、すぐに治まった。

ニールのことを想うと、気持ちが温かく和らいで、でもほんの少しだけ苦しくなる。
それは紛れもなく、彼のことが「好き」なのだという、ただ、それだけのことなのだ。
11.08.11


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久しぶりに、短いスパンで更新できたかな、と。(二か月かかってるよ…
ソランがようやく自覚。
もう少し入れる予定だったんですが、これ以上入れると変に長くなりそうなので一回切りました。