Beautiful World−15−
昼の休憩が終わった後、再びクリスティナに教えてもらいながら一緒に仕事をした。
ニールはずっと自分のデスクにかじり付いて、図面やパソコンのディスプレイとにらめっこをしていた。
事務所内の異様な、ぴりぴりともどんよりとも取れる空気には、だいぶ慣れた。
撮影現場のそれに近いのが、たぶん理由なのだろうと思った。
午後になってからしばらくすると、現場に出向いていたという、イアン・ヴァスティとも顔を合わせた。
やはり、彼もソランのことを快く迎えてくれた。
大変な時に来て色々あるだろうけど、がんばれよと声を掛けてくれた。
そんな風に言われたのは、初めてな気がする。
時計が五時を差すと、スメラギから今日はもう大丈夫だから、帰ってもいいと言われた。
明らかに大丈夫ではなさそうな事務所内なのだが、バイトだし、初日だから、と言われ、特にそれを断る
理由もソランの中には見つからなかったので、素直に従うことにした。
ニールに一言言ってから帰ろうと思って彼のデスクを見るが、ちょうど席を外しているようだった。
クリスティナが、戻って来たら伝えておくよ、と言ってくれたので、それに甘えることにした。

事務所の扉を閉めた所で、声を掛けられた。

「あの…っ」

見ると、紹介の時にニールに口を抑えられていた人間だった。
確か、リヒテンダール・ツエーリ。
どこか緊張した様子で、肩に力が入って顔を赤らめていた。

「俺、ファンなんス…!よかったらコレにサイン、してもらえませんか!」

あぁ、そういえば彼はそうだった。
ニールやクリスティナの言っていたことをふと思い出して納得した。
そういえば、クリスティナに付いて仕事をしている間、ちらちらと視線を感じていた。
あれは、彼のものだったらしい。
リヒテンダールがコレ、と言って差し出してきたのは自分が主演をした作品のDVDだった。
ご丁寧にマジックも一緒だ。
ソランは短く、構わない、と言うと、リヒテンダールからDVDとマジックを受け取ってジャケットにさらさらと
サインをしていった。
なんだか久しぶりに自分の芸名を見た気がする。
自分のもう一つの名前であるはずなのに、変な感じだ。
サインを終えてDVDとペンをリヒテンダールに返すと、彼はとても嬉しそうな表情を見せた。
なんだかそれが、純粋にくすぐったかった。
本業からだいぶ離れているせいか、目の前の反応がとても新鮮に思えた。
ソランがリヒテンダールに何と言葉を掛けようかと少し迷っていたが、それは必要なくなった。

「リヒティこらお前っ!何やってんだ!」

少し離れたところから、ニールの声が飛んで来た。
リヒテンダールは一瞬だけびくりと肩を揺らし、それから一目散にそこから逃げていった。
逃げ足がだいぶ速い。
ニールがソランの方へ駆け寄って、リヒテンダールが去った方向を威嚇するように見た後、ぱ、とその表情を
変えてソランの方へ向き直った。

「ごめんな。言っておいたんだけどさ…」

そう言って、ひどく申し訳なさそうな顔をしていた。

「悪いやつじゃないんだ。でも、気分悪くしたらごめんな、ほんと」

何度も謝るニールに、ソランはふるふると首を横に振って、「構わない」と言った。

「ストーカーにならない程度のファンであれば死んでも離すなと社長から言われている」
「……なんともご立派な社長さんだな」


ニールは、帰ろうとするソランに対して送ってやれなくてごめんな、と言った。
元々仕事が終わった後義姉の見舞いに行くつもりだったから、心配しなくていい、と言うと、ニールは
どこか嬉しそうな顔を見せた。
体調を崩してから義姉の見舞いには一度も行ってない。
ソランが義姉を心配させまいと自ら足を遠のかせていたからだ。
その自分がまた病院に向かっても問題ないと判断したのが、どうやらこの男もわかったらしい。
なんだか見透かされているようで決まりが悪いが、嫌な気分もしない。
踵を返したソランに、「また明日な」とニールが手を振って見送ってくれた。
ソランは、小さくこくり、と頷いた。
病院の廊下を歩くと、消毒液の匂いが鼻を掠める。
なんだかひどく久しい。
こんなに見舞いに間を空けたのは初めてのことだから、おそらくひどく心配していることだろう。
病室の少し手前で歩くのを止めて、心の準備をした。
どうやら思いの他緊張しているようで、自分でも驚いている。

マリナの病室に入ると、彼女はすぐにソランに気付いた。
目を丸めたのは一瞬で、あとはひどく安心したような顔になった。
あぁ、やっぱり。気に病ませてしまっていた。

「ちっとも顔を出さないから心配していたの。大丈夫なの?」
「大丈夫だ。少し…体調が悪かったから、来るのを控えていた」

ソランの言葉に、マリナはさっと表情を曇らせた。
なるべくマリナには体調を崩したことだとかを言わないようにしている。
マリナもわかっていたのだろう。
その自分が、具合が悪かったと言っていることにただ事ではないと感じたようだった。
マリナはソランの髪を撫でたり、頬に手を添えたりして、ソランを慈しんだ。
久しぶりに触れるマリナの温かさに、ソランは安心したように目を閉じた。

「大丈夫だ、もう。だいぶ良くなった」
「…そうね、顔色も良いし。よかったわ…」

そう言って、マリナは顔を綻ばせる。
ソランの言っていることは嘘ではないと、わかったようだった。
マリナの体温は、やっぱり心地よかった。
翌朝、ソランは電車を乗り継いで一人事務所に向かった。
マリナの病院に近いおかげもあってか、通勤すること自体にそれほど苦はなかった。
昨日入ったのと同じ扉を開ける。
だが、ソランの目に入ったのは昨日と同じような光景ではなかった。
言葉に表現しづらい。
端的に言うと、空気が淀んでいる。
外の、朝日の差した清々しい空気とはまるで正反対だ。
ニールのデスクに視線を向けると、そこには彼が、唸り声を上げながら机に突っ伏していた。
見たこともないような姿に、さすがにソランは戸惑いを隠せなかった。
声を掛けるべきかも迷う。

「おはよーございまーす」

そんなソランを助けたのは、ちょうど出勤したところらしい、クリスティナの挨拶だった。
事務所の中の人間と違い、昨日と変わらない様子の彼女に、ソランはそっと安心した。
クリスティナはこの淀んだ空気に慣れているのか、別段驚く様子も見せない。
ソランの戸惑いを理解したのか、クリスティナは笑う。

「ごめんね、ビックリしたでしょ。徹夜したみたい、みんな。納期前ってね、結構こうなのよ」

そう、あっけらかんと言った。
つまり、納期の度にここの空気はこうも淀むのか。

クリスティナは自分のデスクに鞄を置いて、それから給湯室へ向かった。
全員の目覚ましにコーヒーを淹れに行くというので、ソランは手伝いに付いて行った。
昨日教えてもらったとおりに淹れたコーヒーを、ニールのデスクに置いた。
ニールは湯気の立つコーヒーに気付いて、顔を上げる。割と整っていた顔立ちだと思っていたが、今は
見る影がなかった。
弱々しく笑みを浮かべてコーヒーの礼を言い、一気に飲み干すと、彼はおもむろに立ち上がった。

「無理、ちょい休憩!」

そう投げやり気味に言って、ニールは扉を隔てた向こうへ入っていった。
部屋に入る前に、ティエリアが「一時間ですよ!」と苛立った声を飛ばしていた。
クリスティナに尋ねると、どうやら仮眠室らしかった。
こんな事務所に仮眠室が作られていることに、ソランは驚きを隠せない。仮眠室が必要な環境ということだ。

事務所内の淀んだ空気にも少し慣れ、クリスティナと一緒に室内のゴミ出しや整理をした。
時々床にビールの空き缶が転がっていたが、何も言わずにゴミ袋に放り投げた。
一通り終わった頃に、クリスティナが手招きをしてソランを呼んだ。
気のせいか、彼女の表情は何かを企んでいるような子どもみたいに見えた。
彼女が立っていたのはニールのデスクのすぐ前だった。
クリスティナは「刹那にいいもの見せてあげる」と言って、ニールのパソコンを勝手にいじくり始めた。
勝手にいじっても大丈夫なのかとも思ったが、そこは勝手知ったる、らしい。ソランは何も言わなかった。

やがてディスプレイに出てきたのは、製図の図面と、そして光をいっぱいに浴びて映る美しい建物の写真だった。
ソランは息を飲んだ。
ただのパソコンのディスプレイの、そこだけがどこか別の場所へ飛んで行ったようにすら思えた。

「これね、ロックオンが設計したの。美術館なんだけどね」

クリスティナが言う。
ソランは目を真ん丸にして、画面に釘付けになった。
ガラス張りの、アシンメトリーに建てられた建造物。

「社内コンペでね、勝ち取ったやつなの。あ、知ってる?うちの親会社」

クリスティナの問いに、ソランはこくりと頷く。ニールにも教えてもらっていたし、名前くらいは元々知っていた。
親会社の意向で、回ってきた大口の契約は系列会社の大小関わらずコンペティションに参加する権利を与えられるらしい。
本当に優れたものを実現化させたいという創設者の理念だという。
クリスティナは次々にそうやって別の建造物の写真や図面を出していく。全てニールの設計したものだと教えてくれたそれらは
ホテルや商業ビル、一般住宅まで、様々だった。
ソランはそれにただ見入っていた。
言葉には表しづらい感情が胸を占める。何か、溢れるような感覚。
単純に、見せられた建造物の全てをきれいだ、と思った。
建築の知識には乏しいが、ニールの仕事がとても丁寧で、一つ一つに丹精を込めて行っているということはわかった気がした。

パソコンの画面に見入るソランに、クリスティナはそのまま見てていい、と言ってくれた。
「そろそろロックオン起きるから」と彼女に終了を促されるまで、ソランは時間を忘れるくらいにディスプレイをじっと見続けた。
それから、ソランもクリスティナに付いて忙しい日々を過ごした。
一週間ほど経ち、ようやく、大きな山を乗り越えたらしく、事務所内の空気は比較的穏やかになっていた。
慣れないことばかりで、ソランもさすがに疲れを感じた。
終業時間を迎えようとしている所内は、どこか嬉々とした雰囲気に包まれている。
ソランはその理由がわからなかった。
時計が午後六時を指す。
すると、それを合図にしたかのようにスメラギが立ち上がった。

「さぁって、それじゃあ行くとしますか!」

スメラギの言葉に、ニールを含めた所内の人間ほぼ全員が理解を示したのか、そそくさと帰り支度をしている。
ティエリアだけはスメラギに促されるまでデスクに座ったままだった。
所内のそんな空気が全くわからないソランは、ただ茫然するしかなかった。
わけもわからぬまま手を引かれ連れて来られたのは、一軒の居酒屋だった。
何故自分がこんな所に連れられたのか全くわからない。というか、一応自分は未成年だ。
疑問を投げかけるようにニールに視線を向けると、彼はどこか嬉しそうに笑っていた。

「歓迎会だよ、ソランの」

ソランはただ目を丸めた。ニールの言葉を理解するまでに、少し時間がかかってしまった。歓迎会?自分の?
視線をニールから他の社員に向けると、彼の言葉を肯定するようにして、全員がソランに笑みを向けている。
少し遅くなっちまったけど、とニールが付け足したが、ソランは真っ白な頭にその言葉を入れることが出来なかった。

こんなことは、今までしてもらったことがなかった。
中学も高校も、大して親しい友人などいなかったから、中退する時も特に何もなかった。
本業の方だってそうだ。社長から言われているために監督や相手の男優には最低限愛想はよくしているが、それほど
深く踏み込むこともなかった。
それなのに、ほんの一週間しかいないこの場所で、自分は歓迎されるという。
ソランには不思議でたまらなかった。

飲み会には、クリスティナが最初の頃に話していたフェルトという少女も一緒になって参加していた。
彼女の派手なピンクの頭には一瞬驚きはしたが、中身はそれとは正反対らしく、クリスティナの話した通り自分に近いようだった。
フェルトも親がいないのだとぽつりと話してくれた。赤ん坊の頃に、事故で亡くなってしまったのだという。
預けられた孤児院でクリスティナと出会い、そして今一緒に暮らしている、と、小さいが芯のしっかりした声で教えてくれた。

やがてフェルトはクリスティナに声を掛けられそちらに立って行った。
空いたソランの隣には、また誰かが腰を落とす。ニールだった。
少し酒が入っているようで、彼の白い頬には赤みが差していた。
ソランとニールが並んで座る余所で、他の事務所のメンバーはひどく騒がしく酒を仰いでいた。
加えて他の個室でも宴会が開かれているようで、耳には否応なしに雑音が入る。

「どうだ?楽しんでるか?」
「…騒がしいのは、あまり」

そう言うと、ニールは苦笑いを浮かべた。

「ごめんなぁ、たぶん、あの人たち飲み会の口実が欲しかっただけだと思うんだよ。ここしばらく缶詰だったからさ。
あ、でもソランのこと歓迎してるのは本当だからな」

そこは安心していいぞ、と彼は言ったが、ソランは別に、どちらでもよかった。
ここの人間が酒を飲むための口実に自分を使おうとも、それは彼らの自由だ。
あまり豪勢に歓迎されても、それはそれで困る。人前に立つことは元々は苦手な方だ。
それでも、一瞬。
ほんの一瞬、ニールに自分は歓迎されているのだと言われたのは、胸をじわりと熱くさせた。


しばらく二人でここ一週間のことやマリナのことを話していると、ニールはスメラギに半強制的に騒がしい輪の中に入れさせられていった。
最初はぶつくさと文句を言っていたようだったが、彼も酒が入っていたせいで、飲み比べだと言われると断りもせず参戦していた。
それを、ソランはちびちびとソフトドリンクを口にしながら眺めていた。
こんなに賑やかな夜は、初めてだったかもしれない。
解散になる頃には、一部を除いた事務所のメンバーは総じて酒に呑まれる状態になっていた。
ニールも例外ではない。
クリスティナはてきぱきとぐでぐでになった人間たちを同じ帰宅方向に分けながらタクシーを呼び停めた。
ずいぶんと手馴れている。彼女がいなかったら、彼らはどうやって帰宅するのだろうか。
それぞれ二、三人ずつ同じ方向だと分けられていたが、そこにはニールは入っておらず、ソランは不思議に思った。

「さて、ロックオンをどうしようか。いっつもはこんなに酔わないから苦労しないんだけど」

そう言って、クリスティナは困ったように頭をかしかしと掻いていた。
どうやら彼だけ同じ方向の人間がいないらしかった。

「俺が送る」

迷わずに言ったソランに対して、クリスティナは目を丸めていた。
あまりここで長い時間を取るのも無駄だと思ったし、この一週間ずっとクリスティナには世話になっていた。
彼女が悩むことがなくなればそれがいいと思った。

「え、でも…大丈夫?」
「問題ない。送ったらすぐに帰る」
「ロックオンバンザーイ!!送り狼バンザーイ!!」

ソランとクリスティナが話す脇で、会話の中身を理解した数人が騒ぎ立てたのを「そこうるさい!しかも意味が逆!」と
クリスティナがぴしゃりと止めた。

「じゃあ…いいかな?ごめんね、刹那の歓迎会だったのにこんなことになって」
「平気だ。気にしなくていい」

話がまとまったところでちょうどタクシーがまた一台来たので、クリスティナが呼び止めてくれた。
返事もどこか曖昧なニールを車内に入れて、自分も座った。

「ロックオン、刹那に変なことしたら駄目だからね!」
「しないしない、うそついたらハリセンボンのんでやる!」

言葉におぼつかなさを感じたものの、それでもクリスティナはニールの言ってることを信用したのか肩を竦めて笑い、それからソランに ニールの住所の書いてあるメモ紙を渡しながら「またね。今日は楽しかったよ」と言ってくれた。
ソランはそれにこくりと小さく頷くだけしか出来なかったが、クリスティナの言葉は素直に嬉しいと思った。
揺れるタクシーの中でニールは眠気に負けたらしく、マンションに着いてからソランが支えながら歩いていく羽目になった。
身長や体系に大きく差がある為に担ぎ歩くことは不可能だ。
エレベーターの中では寄りかかられずしりと来たが、それでも部屋のある階に着くと目を覚ましてくれたから幸いだった。
ニールにおぼつかない手で鍵を開けてもらい玄関のドアを開けて中に入る。
しんと静まりかえる部屋からは、ニールの匂いがした。
寝室のベッドに彼を放り込み、スーツの上着を脱がせた頃には、ニールは完全に落ちてしまっているようだった。
それを見て、気を抜くように一つため息を吐いた。

すぐに帰る予定だったが、思ったより疲れたようだった。身体が少し重たい。
それでも、その疲れに嫌悪を感じないから不思議だ。
リビングルームを覗くと、薄明りの中でソファがあるのがわかった。
少しくらい休んでいっても、バチは当たらないだろう。そう思って、腰を下ろした。
柔らかなソファだった。座り心地がとてもいい。肌に触れる生地の感触も気持ちがよかった。
悪いと思いながらも、そろり、と横になる。座った時以上に心地よさが生まれた。
息を吸い込む。そうすると、部屋に入ったときと同じようにあの男の匂いがした。
視線を上げれば、暗い中でもちらりちらりとニールの生活の痕跡が伺える。
視界に入ってくるものや、息を吸い込めば入ってくる匂い。それら全てが、ニールのものなのだ。

不思議な夜だ。
とても騒がしい輪の中にいた。
自分の歓迎会だと言われた。
帰り際に、「今日は楽しかった」と言われた。
そうして最後に、あの男が作り出しているこの静かな空間の中にいる。

起きなければ、と思った。起きて、帰らなければ。
そう思っても、身体は動こうとしなかった。動きたくない、と思った。
目を瞑って、ソファに体重をかける。
そうすると、柔らかく包み込まれるような感覚になった。心地よかった。
いつかの、あの温かな腕に抱きとめられたのを思い出しながら、ソランはするりと意識を手放した。
こんなに気持ちが穏やかな夜は、久しぶりだった。
11.06.14


NEXT→



―――――――――
前回書いたのから半年以上経ってた。衝撃。
ニール達の勤めてるところは「ハ●クロ」の藤●デザイン事務所を参考にしているので、実際のものとはたぶん
すごく異なると思います。
あしからず。