伸ばした手が、どうか、空を切りませんように 遠い背中 しん、と空気が静まった空間がそこにあった。 微かに鼓膜を震わせるのは、周辺機材や端末から発せられる微弱な機械音だ。 メインの電源は落とされ、照明も僅かに辺りを照らすのみ。 新たなソレスタルビーイングの戦力となるガンダムの、製造ドッグでフェルトは整備端末を手に一人佇んでいた。 アロウズの解体と共に、新連邦政府が樹立された。 世界は足並みを揃え、真の平和の為に歩き始めている。 ソレスタルビーイングは、そんな新しい世界を陰で見守りながら、細々と活動を続けていた。 ガンダムに依らない、最低限の装備での武力介入を行い、紛争の芽を少しでも多く摘み取っていた。 世界の基盤が統一されたとはいえ、まだ小国や貧困が根強く残る地域ではそれが行き渡らない。 世界が一つになるには、まだ時間がかかりそうなのだ。 燻る争いの火種を消し去る為にと、刹那達プトレマイオスのクルーは日々介入を行っていた。 しかし、いつまた大きな争いが起きるともわからない。 その為の戦力が、ガンダムがソレスタルビーイングにはやはり必要だった。 プトレマイオスのクルーは武力介入の傍ら、ラグランジュ3に存在するソレスタルビーイングのファクトリーに上がり、 新たなガンダムの開発に着手し始めていた。 フェルトは、手に持った端末にぼんやりと視線を落としていた。 薄暗いドッグでは、電源の付いた端末のディスプレイがはっきりと映し出される。 そのディスプレイには、新たなガンダムのうちの一つの製造設計図が表示されていた。 機体番号、GNT-0000 QAN[T]。 刹那が駆る予定のガンダムだ。 この機体の製造が決定された時から、刹那は積極的にそこに関わっていた。 理由は刹那が得た能力にあった。 純粋種のイノベイターとして覚醒した彼は、自身が人々の意思を繋ぐ核となり、本当の意味でのわかり合う世界を 創りたいと考えていた。 彼にとって今造っているガンダムは、その思いを実現する為のもの。 彼の意志、願い、そのものなのだ。 フェルトは視線を端末から上げた。 その先には、製造過程のガンダムが静かに、けれど大きく、存在を示していた。 刹那の思いはよくわかる。 自分だってイオリア・シュヘンベルグの提唱した理念を支持し、これまで武力介入を行ってきたのだ。 目指すものは刹那と同じだ。 お互いがお互いを理解し、深め合い、本当の平和を築き上げる世界。 それなのに、この機体の開発に関わるたびに、着実に製造が進む機体を見るたびに、そしてそれに携わる刹那を 見るたびに、フェルトの胸には不安に似たものが滲み出していた。 最初、機体の基本設計、設備を見たとき、本当にこんなことが可能なのかと思った。 理論上では可能だ。そしてそれを形にするだけの技術も資源もある。 果たしてそれを現実のものにした時、本当にその通りになるのか。 だが製造が進むにつれ、フェルトの中の疑念は確信へ、そして確信は、不安へと変化していった。 全て、刹那の中の力がそれを現実化させた。 刹那は変わった。 普通の人間から、純粋種としての覚醒はもちろんのこと、彼を彼として成り立たせるものも。 後者は当然、悪いこととは思わない。 彼が未来という言葉を口にすることを、フェルトは嬉しいとすら思う。 けれど、変化を見せた刹那の視線の先が、未来よりも、ずっとずっと向こう側にあるものに向いてる気がしてならなかった。 製造される機体を見る刹那の眼は、そういう眼をしている。 自分には到底手の届かない先のその先を、彼は見ている。 それにフェルトはいつも戸惑う。 刹那が、刹那でないような気がして。 ずっと近くにいたはずなのに、知らないうちに彼だけ前に前に進んで行ってしまった気がして。 いつか、自分には手の届かないところに行ってしまう気がして。 そんな思いを、フェルトは拭い切れずにいた。 刹那は刹那だ。 ソレスタルビーイングのメンバーで、ガンダムマイスターで、仲間で。 ずっと近くにいたのだ。 彼は彼で、何も変わらない。 そう、言い聞かせても、フェルトの戸惑いは消えることはなかった。 「フェルト」 聞き慣れた、けれど今は少し不安すら感じてしまう声が、フェルトの耳に届く。 顔を動かしてドッグの入り口を向けば、刹那がそこにいた。 「どうした、こんな時間に。何かあったか」 フェルトが整備端末を持っているから、それで刹那は少しいぶかしんだようだった。 機体製造に不備があったのではないかと思っているのかもしれない。 それを否定するように、フェルトは首をゆるゆると横に振った。 「…ううん、何も。…刹那は?」 「少し、機体を見に来た」 そう言った刹那は、ドッグに収められているガンダムに視線を向けた。 あぁ、またあの眼だ。 それは、言ってしまえば新しい玩具を与えられる子どものような眼に近かった。 内から溢れるような期待に、刹那の無表情に喜びに似たものが見え隠れする。 彼はきっと、機体を通して、自分が導くべき未来に思いを馳せているのだ。 刹那は、少しだけ歩を進めて機体に近付いた。 フェルトの目には、刹那の背中が映った。 また少し、大きくなったように思えた。 それは、彼の中に存在する意志や人間性のせいかもしれない。 いつか、その背を向けたまま、手を伸ばしても届かないような、とおいとおい場所へ、刹那は行ってしまうような気がした。 きゅ、と刹那の制服の上着の裾を掴んだ。 とん、と額を刹那の背中に付けた。 まだ、手が届く。触れられる。 「フェルト…?」 意図の掴めないフェルトの行動を、刹那は不思議がっているようだった。 額越しに伝わる刹那の体温が、ただフェルトの胸をじわじわと締め付けていた。 「あんまり、遠くに行かないでね…」 刹那は刹那のままのはずなのに、どうしてなのか本当にそうだと思えない。 組織の構成員の中には、彼が革新を遂げたことを喜んでいる人間もいた。 その感情がフェルトにはわからなかった。 そんなものなくてよかった。 刹那は刹那のままでよかった。 変革なんかいらない。進化なんて必要ない。 ただ、今まで通り、自分達と同じ目線で、同じものを目指して行きたかった。 けれど、それは刹那の意志を否定する考えだ。 だから決して口になんか出来なかった。 ただ、これ以上背中が遠くならないよう、祈って、願うしかなかった。 刹那は裾を掴んだフェルトの手を取り、向き直った。 フェルトの手を緩く握る刹那の手は、昔に比べると骨が太くなっていて、大きくなっていた。 その手は、まるで宇宙で一人散ったあの人のようだった。 「俺はどこにも行かない。ここにしか居場所がない」 宥めるように、優しい声がフェルトの鼓膜を震わせた。 ひどく穏やかな手付きで、まるで幼子をあやすみたいに頭を撫でられる。 撫でられる感触の中に時々骨の固さが伝わった。 その声も、その手も、仕種も。 安心出来るもののはずなのに、どうしても、フェルトにはそれが出来なかった。 何もかも、あの人が昔自分にしてくれたものに似ていた。 『大丈夫だって、フェルト。何にも、心配なんていらないから』 あの人はそう言っていた。 言っていたのに、今は手を伸ばしても届かないところに行ってしまった。 刹那。 貴方もそうなの? 大丈夫だと、心配ないとそう言ってわたしを慰めて、そうして、知らないうちに手の届かないところに、 一人で行ってしまうの? 10.03.19 日記掲載 ――――――――― 刹那が未来を目指して前を向いて戦ってくれるのは嬉しい。 でも、あまりにその姿が崇高すぎる気がして遠い存在に思えて寂しさを感じてしまいました。 っていうお話。 |