「…イル、ライル!」

背中から掛かる声に、ライルはすぐには振り返らなかった。
一拍間を空けて、顔だけを動かして後ろを向けば、移動バーに掴まってこちらに向かって来る、同じ顔をした片割れがいた。

「何か用?」
「トレーニング終わったんだろ?メシ一緒に行こうぜ」

ライルは素っ気なさを露にしたような返事をしたが、ニールはそれを知ってか知らずか、そのままの調子でライルを食事に誘った。
それにライルは余計に眉間の皺を作った。

「いい歳して一緒にメシもないだろ。俺まだ忙しいんだよ。食いたきゃ他のヤツ誘えばいいだろ」

ライルはそう突き放すように言って、踵を返した。
後ろでニールが呼び止めるような声がしたが、聞こえないふりをした。
初代の”ロックオン・ストラトス”であり、ライルの双子の兄であるニール・ディランディが生きているということが
わかったのは、ライルが刹那からの勧誘を受けて一週間ほど経った頃だった。

クルー全員が歓喜した。
ある者は安堵に胸を撫で下ろし、ある者は溢れる涙を止められなかった。
その姿全てが、この組織におけるニールという存在の大きさを物語っていた。

そんなクルーの様子を、ライルは複雑な気持ちで見ていた。
ライルの胸には、幼い頃に抱いた、兄に対する劣等感がリアルに甦っていた。


双子だというのに出来の差は目に見えていて、でも兄は自身の才能を鼻に掛けることもなかった。
そんな兄に対する周りからの評価は上がるばかりで、自分はそのことを妬んで、そしてそれがまた兄との差を拡げる。

兄にはその差が見えていないのか、それとも彼なりの優しさからかわからないが、弟を立てようとした。
ライルはそれで、余計に自分が情けなく、惨めに思えてしまった。
まるで立てられなければ駄目だと言われているような気がして、それは兄に対する劣等感へと繋がって行った。
ライルはそれを感じたくなくて、ニールを避けるようになった。

兄に悪気がないのはわかる。
だからこそライルには、ニールの気遣いが重たかった。
それは、家族をテロで亡くして成人してからも変わることはなかった。

兄が生きていると知った時、ライルの胸の中に小さいながら重たいしこりが生まれたのは、間違いなかった。
「ライル」

格納庫でケルディムの整備をしているライルに声が掛かる。
ライルは相手に気付かれないように小さくため息を吐いてから顔を動かした。
ニールはキャットウォークを渡ってライルに近付いていた。

「よ。どうだ、ケルディムの調子」

ライルはニールの顔から視線を逸らし、端末に向けた。

「別に、普通だよ。俺は兄さんと違って出来が良くないから、まだまだだけど」

皮肉を込めてそう言ってやると、後ろの方でニールが苦笑いしているのがわかった。

「そんなことねぇよ。ライルは才能あるんだ、すぐに慣れるって」

あぁ、ほら。すぐにそういうことを言う。
時々、兄のこういう発言は実はわざとではないかとすら思ってしまう。

「飲み込みだって早いしさ。すぐ戦力になるさ」

ライルの中で、沸々と憤りが生まれていった。
ニールの口から発せられる言葉一つ一つが、ライルの神経を尖らせた。

「シュミレーションの成績だって上がってんだ。大丈夫。
あぁでも、お前少し右に偏るクセがあるから、それ直した方がいいかもな。右肩が少し下がり気味なんだよ」

あぁ、うるさい。
もう、いい加減にしてほしい。

「それさえ直りゃ、何にも問題ねぇよ。あ、そうだそれとな、」

さらに言葉を紡ごうとしたニールに対して、ライルの中で、音も立てずに静かに、けれど確かに何かが切れた。

「…うるせぇんだよ」

その、低く怒気を含んだような声に、ニールは何かを取り出そうとポケットへ手を入れたまま、動きを止めた。

「ライル…?」
「いい加減にしろよ。迷惑がってんの、何でわかんねぇんだよ。何もかもわかってるくせに、そうやって見ないふりして
俺のこと立てようとして…それで俺がどんなに惨めな思いしてるか、アンタわかってんのかよ?」
「…っ」
「そうやって兄貴ぶっていい人ぶって…俺がそれで喜ぶとでも思ってんのか?」

一度開いた口を、閉じる術は持っていなかった。
ライルは積もりに積もった感情を、冷静にぶつけた。

「この際だから言ってやるよ。アンタの自己満足の為に利用されんのはもう沢山だ。
金送って学校行かせて車まで送り付けて…恩着せがましいんだよ。アンタは俺の為にそうしてるんじゃない、
アンタ自身の為にそうしてるんだ。そうだろ?
俺はな、アンタの欲求を満たす為の道具なんかじゃねぇんだよ…!」

ライルは端末を放り出し、話すことも動くこともしないニールを押し退けてキャットウォークを駆けた。
格納庫の出入り口で、そこに立つ刹那と目が合ったが、ライルは何も言わずにその場を去って行った。



ライルが去った格納庫は、しんと静まり返っていた。
刹那は視線を動かして、ケルディムのすぐ側で立ち尽くす男を見た。
ニールの周りだけが、静かな中にさらに重たさを含んだ空気が流れていた。

「…ロックオン」

そうぽつりと名前を呼べば、ニールはゆるゆると顔を上げ、刹那の方を見た。
心配を掛けさせまいと笑顔を作ったのだろうが、ニールのそれは、彼にしては珍しく歪んだ、下手くそな笑顔だった。
自室のベッドに腰を下ろして、顔を俯かせるニールに、刹那がドリンクボトルが差し出した。

「…サンキュ」

そう言ったニールの笑顔は、やはりひどく下手くそなものだった。
ニールはドリンクボトルを受け取ったものの、それを手に収めるだけで、口を付けようとはしなかった。
そんなニールの隣に、刹那が腰を下ろした。

「カッコ悪ぃとこ、見られちまったな…」

自嘲的な笑みを浮かべて、ニールがぽつりと言った。
刹那はふるふると首を横に振り、「別に、気にしていない」とそう返した。


「…あいつはさ、俺の希望なんだ」

少しの沈黙を経て、ニールが口を開いた。
刹那は、前を見たままのニールの横顔を見るだけで、何も言おうとはしなかった。

「前に…話しただろ?あいつの為に、世界を変えたいって…。
俺がそれまで生きて来れたのって、あいつが…ライルがいたから、なんだよ」

刹那はいつしかの無人島での出来事を思い出していた。
ニールの家族の仇である組織にいた自分に銃口を向け、でも撃たなかった彼。
たった一人、生きている家族に想いを馳せて、少し遠い目をして、優しく笑っていた。
その想いはきっと、とてもとても深いものなのだろう。

「あいつが生きてる世界を変えたくて…それで生きて来た。…俺はさ、ライルに生かされてたんだ」

それはニールにとっての生きる理由だった。
引き裂かれた日常を嘆き悲しんでも、でも世界にはまだ片割れが生きている。
せめて、彼の生きる世界を。
ライルの生きている世界を、もう哀しい物にしたくなかった。

「…あいつには、それが重荷だったんだな…。俺は…あいつに何かしてやりたくて…」

ニールは言いかけて、口を噤んだ。
違う、そんないい物じゃなかった。

「……当たってるんだ、ライルの、言ってたこと」

ニールは視線を床に向けて、ぽつりと言った。

「あいつの為なんて、そんな建前ばっかで…生活援助してたのとか…全部、俺が満足したかったからだった…。
家族がいるって、守れるものがまだあるんだって実感したくて…ただの、自己満足だったんだ。
道具だなんて風には思ったことねぇけど…でもあいつの気持ちなんか無視して優しさの押し売りみたいなこと
ばっかして…最低だよ…俺…」

ニールはぐ、とドリンクボトルを持つ手に力を込めた。
ライルの言っていることはほとんど図星だった。
だから何も出来なかった。何も言えなかった。
否定が出来なかった。

自分自身を戒めるかのようなニールの行動を、刹那がそっと手を添えて止めた。
ニールは顔を上げて刹那の方を見れば、今も昔も変わることない真っ直ぐな赤褐色の瞳が向けられていた。

「それでも…お前がアイツを大事に想っていたのには変わりない。例え過去のことがお前のエゴだと
しても、それでもお前はこうして生きている」
「…せつ、」
「生きて、時間をゆっくり掛ければ大事だと想う気持ちはきっと伝わる。
…俺が、お前にそうしてもらったように」

刹那はそう言って、目を少し細めて優しい顔をした。
それがニールには、とても温かなものだった。
ニールは手の力を緩め、腕を伸ばして刹那の身体に回した。
ゆるゆると預けられた刹那の体温はとても心地がよかった。

「ありがとな…刹那」

刹那に向けられたニールの笑顔は、もう先ほどのような下手くそなそれではなく、いつもの優しい彼の顔だった。


「…あ、そうだ。刹那、一個頼まれごと、してくれるか?」

ニールはそう言いながら、ズボンのポケットに手を入れ、メモリースティックを取り出した。

「ミス・スメラギに頼まれてさっきライルに渡そうと思ってたんだけど…タイミング逃しちまって。
さっきの今じゃちょっと気まずいからさ…頼んでもいいか?」

断る理由もなく、刹那はただ首を横に振った。
刹那が入室許可を得て入ったライルの自室では、彼が紫煙を燻らせていた。

「何か用?あぁ、お説教でもしに来たか?」

口角を上げて歪んだような笑みを浮かべるライルの言葉を、刹那は「別に」と単調に否定した。

「兄さん何か言ってたか?可愛がってた弟に反抗されて、ショックだとか?」

くっとライルは喉を揺らして嗤った。

「…何故そこまでアイツを嫌う。たった二人の兄弟なんだろう」

動揺の片鱗すら見せない刹那の言葉に、ライルは笑みを消した。

「…アンタ兄弟とかいるか?」
「いないな」
「…じゃあ俺の気持ちなんて一生わかんねぇよ」

ふ、とライルは煙を天井に向けて吐いた。

「散々対等なフリして、家族が死んだら今度は自分が保護者代わりになろうとして。でも結局あの人は
自分が満足したいから俺に優しさ押し付けてただけなんだよ。
それがどんなに惨めで腹立たしいか、アンタ、わかるか?」
「…わからないな」
「だったら、」
「だが」

少しだけ力強さを見せた刹那の言葉に、ライルは口を閉ざした。
刹那の赤褐色の瞳が、真っ直ぐにライルを捉えていた。

「兄弟というモノがそんな風に争う為にあるものじゃないということは、わかる」

ライルは目を見開いた。
装うことを何もしないストレートな言葉は、ライルの胸に重く響いた。
刹那はただ当たり前のことを口にしただけなのに。
それがどうしてこんなにも、今の自分には重いのか。

「これを、渡せと頼まれた。…スメラギからだ」

ポケットからメモリースティックを出して、そう言う。
刹那は敢えてニールからだとは言わなかった。
憶測にしか過ぎないが、今ここで兄の名前を出すと、この男はこれを受け取らないのではと思ったからだった。

ライルは何も言わずにゆっくりと手を伸ばし、メモリースティックを手に取った。
疑われはしなかったことに、一瞬だけ刹那は気を緩めた。
その一瞬の間に、刹那はライルに腕を掴まれ、あっという間にベッドに押し倒された形になった。
目の前に、愛しいと思った人間のそれと全く同じ色の瞳があった。

「…何のつもりだ」

ライルの突然の行動に小さく眉を顰めながらも、刹那は落ち着き払った声でそう言う。
ライルはひどく面白そうに笑った。
吸っていた煙草は、いつの間にかもみ消したようだった。

「アンタ、面白いな。変な女だとは思ってたけど。…兄さんが惹かれたのもわかる気がするよ」

くすりと、ライルが笑みをそのままに笑った。

「このまま俺がアンタを奪ったら、兄さん、どんな顔するだろうな。怒るか落ち込むか…
ひょっとしたら俺殺されるかもな。
アンタも本望だろ?兄さんと同じ顔の人間に、抱かれるんだからさ」

くつくつと喉の奥で笑い、顔を刹那の首筋に近づけた。
だが刹那は、その瞳を少しも揺らすことなくただ黙ってそうされていた。
手首を押さえられ、逃げ場のないこの状況下で、刹那の赤褐色は真っ直ぐなままだった。
これに先に動いたのは、ライルだった。

「…なんで抵抗しない?俺が何しようとしてるかわかってんのか、アンタ」

ライルがそう言って刹那を見下ろせば、赤褐色の瞳がライルの眼に映った。

「しないだろう、お前は」
「…なんで、」
「ここでお前が俺を抱いても、お前にとって利益になることは一つもないからだ」

刹那のその言葉は、強がりでも何でもなかった。ただ理解したことを、素直に口にしただけだった。

「兄と比べられることを散々嫌悪していたお前が、わざわざ兄の傍にいる人間に手を出したりしないだろう。
そんなことしたって、自分を追い込むだけだ」

刹那はライルの眼を見据えて言葉を紡いだ。
ライルは、そんな刹那の真っ直ぐすぎる瞳を見ていられなくなったのか、視線を逸らした。
手首を押さえる力が弱まったのを見計らって、刹那はするりとベッドから抜け出した。

「…アンタ、兄さんの味方とかしないわけ?」

ベッドの上で項垂れるように、ライルがぽつりとそう言う。

「お前にアイツの意見を押し付けるつもりはない。お前にはお前の主張があるだろう」

少しだけ乱れた制服を直しながら、刹那が淡々とそう言う。
ライルは、何かを抑えるかのようにぐ、とシーツを握った。

「…ただ、少しだけ言わせてもらえば」

ドアの前で、刹那がぽつりと零した。
ライルは頭を上げ、その後姿を見た。

「俺にはもう、家族と呼べる人間がいない。…だから、少しだけお前達が、羨ましい」

そう言って小さく笑う刹那を、ライルはその眼に映した。

「データ、しっかり目を通しておけ」と、彼女は最後にいつもの淡々とした調子でそう言って、ドアの
向こうに消えていった。



ぽつりと部屋に残されたライルは、壁に身体を預けて無機質な天井を仰いだ。
煙草は吸う気にはなれなかった。
ただ、刹那の言葉の幾つかが頭を一杯にした。

『兄弟というモノがそんな風に争う為にあるものじゃないということは、わかる』

まるで重い鉛のような、けれどすとんと、驚く程抵抗なく胸に落ちる刹那の言葉。
ライルは天井を仰いだまま、手で顔を覆った。

「…俺だってわかってるよ、そんなこと」

零れ落ちたその言葉を拾う人間は、誰もいない。
0と1とあなたとわたし
(こんなに近いのに、こんなに遠い)
title by=テオ


10.01.26