仕事が休みで、何もする気が起きないそんな午後の昼下がりに、俺は自宅の近くの公園にいた。
口寂しさを紛らわす為購入した柄付きのキャンディーは、ひどく作り物の味がした。
腰を下ろすベンチは日差しを浴びて温かい。
休日ともあって、子どもがわりと大勢遊んでいた。
空気はまだ少し肌寒さを感じるが、日差しはとても柔らかだ。
公園の木々は芽吹き始め、花はその蕾を開こうとしている。
もう春が来ようとしている。

それなのに俺の心は、あの日のまま止まっている。
刹那と別れて、もう12年という月日が経とうとしていた。
あれから、刹那とは一度も会っていなかった。
連絡は取っている。月に一度程度、刹那からプライベート用の番号に電話がかかってくる。それだけだ。
俺から連絡をしたことは一度もなかった。
連絡を取ろうとしても、どうしてもその瞬間に迷ってしまう。
俺は手離した。その選択が、どうしても行動を起こさせない。
理由なんか関係なかった。
例え口火を切ったのが刹那だとしても、刹那にそうさせたのは紛れもなく俺だったからだ。
その俺が、今さら刹那に会えるわけがなかった。
同じことを、ただ繰り返し、馬鹿の一つ覚えみたいにしているんだ。



結局、あの一年で俺があの親子にしてあげられたことはなんだったのだろうか。
俺がしてやりたかったことも、すべきだったことも何もせずに終わってしまった。
刹那は最後に「ありがとう」と言っていたけれど、それは彼女の優しさであって、事実ではない気がした。

ドアを開けると温かい感覚。誰かが側にいてくれた感覚。
与えられてばかりいたのは、俺の方だったのかもしれない。
必要としていたのは、刹那ではなくて俺だったのかもしれない。

答えは出ていない。
12年経った今でも、何の結果も見出せずにいる。
ぼぅっと、空を眺める。
今日はまだ雨は降っていない。
ぼんやりとした視界の片隅で、誰かが俺の隣に座った。
視線を動かせば、そこにいたのは一人の少女。
柔らかなブラウンの巻き毛を後ろで一つに束ねたその姿は活発そうな印象を与え、
横顔から伺える青みがかった緑の瞳はくりっとしていて愛嬌があった。
近所の子どもだろうか。

「こんにちわ」

人懐こい笑顔で挨拶をされ、一瞬驚く。
だが別にあしらう理由もないので、笑顔で返した。

「パパやママとはぐれたか?」

俺がそう言うと、少女は少しむくれた。随分と表情豊かだ。
ころころ変わってなんだかおもしろい。

「そんな歳じゃないわよ。もうジュニアサイクルにも通ってるレディよ」

少女のその言葉に、苦笑いを浮かべた。
中等教育を受けている年齢には見えなかった。もう少し幼く見えたのだ。
おそらく、コンプレックスなのだろう。彼女は面白くなさそうに口を尖らせている。
それに嫌な印象は受けない。寧ろ可愛らしさすら感じる。

「そりゃ悪かった。お散歩ですか、お嬢さん」

ポケットに入っていたキャンディーを一本、少女に渡す。
少女からむくれた表情は消え、今度はすました顔で俺からキャンディーを受け取った。

「そんなところ」
「一人か?」

少女は頷いた。

「おじさんも、一人?」

少女の罪のない「おじさん」という言葉が、さくりと胸を刺した。
いやだが、もういい歳だ。間違いではないだろう。

「一人だよ」

少女はキャンディーの包みを開けて自身の口に咥えた。
彼女の口の中には嘘くさいレモンの味が広がっただろう。

「恋人いないでしょう、おじさん。こんな晴れた昼下がりに公園で一人キャンディー舐めてるんだもの」

鋭い洞察力に、思わず苦笑いをする。
そこには少し自嘲も含んでいたかもしれない。

「君の言う通り、独り身だ」
「もったいない、せっかくいい男なのに」
「お褒めの言葉をどーも」

口の中に入れていたキャンディーはいつの間にか姿を消し、後には棒だけが残った。
それは捨てずに、口の中に入れたままにしておいた。

「恋人は作らないの?」
「あぁ」
「どうして?好きな人いるの?」
「…あぁ、いるよ。もう、ずっとずーっと、好きな人」

忘れることなんか出来やしなかった。
厳密に言ってしまえば、それはもう恋ではないかもしれない。
凛々しさを持ち続けた彼女の影を、ずっと追い続けているだけなのかもしれない。
あの日の彼女への後ろめたさを、そのままにしているだけかもしれない。
けれど、彼女が自分の心に残り続けているのも事実で、他の女に目が行かないのも、また事実だった。

「その人に、好きだって言わないの?」
「…言わないよ」
「どうして?」
「…言ったって、何にも変わらないから」

俺がこの気持ちを言ったところで、俺と刹那の関係に変化は生まれない。
刹那も、変わらない。
それでいいんだ。
今さら何を変える必要がある?
刹那は刹那のままだ。
俺が手を離し真っ直ぐさを取り持ったままの、あの刹那のままだ。

「言ったら何か変わるかもしれないのに?」
「いいんだよ。変わらない方がいいものも、あるんだ」

そう、変わらない方がいい。
変化を恐れているんだ、俺は。
この気持ちを伝えて変化が訪れるのなら、何故もっと早くそうしなかった?と、そう突き付けられることを、
恐れているんだ。

「…ふーん。大人ってみんなそうなの?」
「…さぁ、どうだろうな。でも、もしかしたらそうかもな…」

その他大勢のことは知らない。
変化を好んでいるかもしれないし、俺のように恐れているかもしれない。
他人のことだ。よくはわからない。

「なんだか面倒なのね、大人って。スクールじゃ意中の相手との関係をどうやっていい方向に変えるか
みんな必死なのに」
「…そのうちわかるさ」

いいや、もしかしたらわからないかもしれない。
俺がどんなに歳を重ねても答えが出ないように、この少女もまた大人になっても理解しがたいことがあるかもしれない。

「あーぁ。なんだか大人になるのが憂鬱になったわ。せっかく早く大人になりたかったのに」

空を仰いでそう言う少女に、苦笑いを浮かべた。
それは悪いことをした。よりにもよって出会った大人がこんな悪い見本では、彼女も願望に躊躇いが生まれることだろう。
きっと彼女にとって、大人になるということは自由を手に入れ輝く未来が待つ世界に飛び込むことなのだ。

「大人になったら、何がしたい?」
「ママを守りたいの」

意外な答えと共にそこに見えたのは、彼女の幼い印象をかき消すような、大人びたものだった。

「…ママ?」
「わたしパパがいないの。赤ん坊の頃に死んじゃったって、ママが教えてくれたわ」

彼女の言葉に、母子家庭というものがそれほど珍しくない世の中なのだと実感する。
今は制度も変わって母子家庭にそれなりの援助がされているが、彼女がまだ赤ん坊の頃は生活もつらかっただろう。
それは、あの親子と同じ境遇であったのだろう。
少女の大人びた表情の理由を知った。
もうこの歳で、守りたいものを見つけているのだ。

「…ママはね、強いの。わたしを一人で育ててくれたの。
一人で仕事をして、家のこともして。わたしが不憫しないようにって、一生懸命がんばってくれたの」

彼女も、そうなのだろう。
彼女の中にある強さは、きっとたった一人の娘を守っているのだろう。
凛としたあの後姿はいつまでも俺の中で色褪せない。
美しく、真っ直ぐに立ち続ける。

「でもね、やっぱり弱いところだってあるの。
一人じゃどうしても限界があって、その度にママは悲しそうな顔をするわ。
支えられなきゃ、すがらなきゃ生きていけないって、そんなんじゃいけないのにって、いつも言うの。情けないって。
涙は流さずに、泣いてるの」


『ライル』

電話越しの彼女の声は、いつもどこか弱々しかった。
「どうした」と聞けば、「少し声が聞きたかっただけだ」と言う。
その度に見上げた空では雨が降っている。

刹那も、この子の母親のように泣いているのだろうか。
壊れそうな強さをなんとかして取り持とうと、どうしようもない哀しさを俺への電話に乗せているのだろうか。

「だからわたしは早く大人になりたいの。
大人になって、ママに『それはちっとも悪いことじゃないよ』って言って、抱きしめてあげるの。
自分のこと許そうとしないママを、わたしが許してあげるの」


『ありがとう』

最後に彼女がそう言った時、俺は手を伸ばさなかった。
あの時は伸ばす資格がないと思った。
でも、違ったのかもしれない。
ほんの少しでも彼女に触れていれば、ほんの少しでも腕を伸ばしていれば、どんなに小さくても彼女の支えになっていた
かもしれない。


ぽつり、と頭に滴が落ちる。
あぁ、雨だ。
そう思ったときには、もうさぁさぁと小雨が降り出していた。

刹那は、泣いているのかもしれない。たった一人で。
俺のこの手は、一体何の為にあるのだろう。
彼女を一人きりで泣かせるためにあるはずじゃ、なかったのに。

パンっとという小気味よい音がする。隣を見れば、少女が傘を開いていた。
広場で遊んでいた子ども達は、いつの間にか姿を消していた。
少女は、少しばかり俺に寄って、そして開いた傘に一緒に入れてくれた。
髪や服を濡らしていた雨は、それでふっと消えた。
身体が少しだけ軽くなった気がした。

「抜けてるのね、おじさん。傘持って出ないなんて」

そう言って、少女は笑った。
その笑顔は、子どもらしくてとても愛らしい。

雨を遮る傘。
少女の差してくれるそれに、俺もなりたかった。
彼女を守りたかった。

答えもまだまともに出ていないのに、再び彼女の傘になろうなんて考えは、傲慢すぎる。
今さら、この手が彼女の支えになれるはずがないのに。
それなのに。



雨はいつも通りすぐに通り過ぎていった。
雲の切れ間から、光が差し、それがとても暖かかった。

少女は傘を閉じ、そしてベンチから立ち上がった。
帰るのだろう。
それに少し落胆している自分が、なんだか可笑しかった。

「わたし帰るね。ママが心配するといけないもの」
「あぁ…」

少女はそのまま踵を返さず、俺の目の前に立った。
そして、再び真っ直ぐに俺の眼を見た。


「―――ありがとう」

彼女は穏やかな顔をして、そう言った。


「…?あぁ、キャンディー、か?」

少女に礼を言われるようなことはそれぐらいしか思いつかなかった。
俺がそう言うと、少女は穏やかな顔から少し崩して別の笑顔を作った。

「まぁ、それでいいわ。とにかく、お礼が言いたかったの」

よく、意味がわからなかった。
最近の若い子の間で流行ってでもいるのだろうか、そういうのが。
俺が何かを言う前に、少女は踵を返した。
少し離れた位置で、またこちらを振り返る。

「ねぇ、今度ママに会わせてあげる!」
「…君のママに?……いや、別に…」
「遠慮しないで!キャンディーの分のお礼だと思ってくれればいいわ」

「じゃあ、またね」と、小さく手を振って、少女はその場からいなくなった。
彼女が立ち去った後のベンチはなんだかひどく寂しく感じた。
けれど彼女がもたらした暖かさは心に残っていた。
不思議な子だ。初めて会ったのに。
髪に少し滴る雨が、全く気にならなかった。

見上げた空は、とてもとても青かった。


少し考えた後、ジャケットのポケットに入れていた携帯電話を取り出した。
フラップを開いて、ボタンを操作する。
ディスプレイに表示された、彼女の名前。
最後の通話ボタンを押すのに小さく息を吐いて、そして指を動かした。


「―――あぁ、もしもし、刹那?うん、俺…。
あのさ…これから時間、あるか?うん、少しでもいい。

…会いたいんだ」


答えなんかまだ出ていない。
でも、君にその答えを聞いてもいいだろうか?
あの一年が君たちに何を与えられたのか、確かめてもいいだろうか?

この手が今さら彼女を支えることが出来るなんて思ってはいない。
それなのに君に会いたいと願う俺を、許してくれるだろうか?
何か出来るかもしれないと思っている俺を、受け入れてくれるだろうか?


吹いた風はまだ少し冷たい。
けれど日差しは暖かかった。

ようやく、ここから動けそうな気がした。
Spring has come
(俺があの少女の正体を知るのは、ほんの少しだけ先の話だ)
09.11.13