どうかどうか、君の全てが、失われませんように

君を蝕む存在が、俺ではありませんように
Flower is beautiful
「何だ、お前タバコ止めたのか」

そう、少し驚いたように声を上げたのは、共に昼食を取ったクラウスだった。
俺がヘビースモーカーなのは周知の事実で、その俺が昼食を食べ終わった後もタバコを出そうとしないものだから、
気付いたのだろう。

「あぁ、ちょっとな」

そう言って、俺は少し笑った。
「ただいまー」

帰宅を報せるその言葉を言うことは、もうだいぶ慣れた。
最初は、中に人間がいるにも関わらず無言で玄関の扉を開けることになんとなく抵抗を受けて、それで
口から出たような言葉だった。
それまでマンションの自分の部屋に帰って来てそんなこと言ったことなかったものだから、違和感は
さすがに否めなかった。
けれど帰って来る部屋に明かりが付いていたり、寒さを感じなかったり、夕食の匂いが鼻をくすぐったりすることに、
次第に喜びに似たものを感じるようになった。

「おかえり」

何より、「ただいま」と言って、そう返してくれる人間がいることの温かさが、心地よかった。


刹那と、そしてその娘であるシリルとの同居生活が始まってから一ヶ月が経とうとしていた。
クラウスにも指摘された禁煙は、もちろん同じ空間で暮らすようになった親子の為に、自主的にし始めたことだ。
まだ生まれてから二ヶ月ほどしか経ってないシリルには、タバコの煙は害が大きいだろうと思った。
クラウスに「いつまで続くやら」と茶化されたが、これが案外苦ではなかった。
自分でも、実は不思議に思っていたりする。


最近では刹那の壊れかけた強さも、少しずつ取り戻されているように見えた。
彼女がシリルを見つめる眼は一時期のそれよりもとても穏やかになっていた。
暮らし始めたばかりの彼女は、娘に寂しそうな表情を向けることが多かった。
無理もなかった。
日を重ねるごとに、シリルは兄に似てきていたから。

寂しさを少し乗り越えた彼女は、俺に対しても時々小さな笑顔や優しさを見せてくれた。
それを見ると、とても嬉しく思った。
彼女が彼女らしさを取り戻している実感が出来た。
守りたい、と願った真っ直ぐさを守れた気がした。

だから、そうじゃない、俺の中で芽生えた別の感情なんてものは、どこかに置き去りにするべきなんだ。

俺が刹那と一緒に暮らしてるのは、刹那が自分自身を取り持っていられるようにする為で。
決して、自分に目を向けて欲しいなんて、そんな気持ちからじゃあない。
刹那はきっと、兄のことを想い続けているからこそ、気高く、真っ直ぐでいられる。

そこに入り込もうなんて、そんなこと思ったりしてはいけない。
だから気付かないフリをしなければいけないんだ。
刹那を愛しいと思う、自分の感情なんて。
そんな自分の感情を無視し続けて、三人で過ごして半年が経った頃だ。
シリルは自分で寝返りがうてるようになっていて、身体の動きが活発だった。
自分の足の指をしゃぶってるのを見たときは、さすがに驚いた。器用なものだ。

日に日に成長していくシリルの姿を、刹那と一緒になって見守る。
そういう生活が、続けばよかったんだ。

俺が、自分の感情なんか、ずっと知らないフリをしていられれば、よかったんだ。


仕事が遅くなり、日付けが変わる頃に帰宅をする羽目になった。
おそらくもう寝ているだろうと思って静かに明かりの消されたリビングの扉を開けると、そこにはダイニングテーブルに
突っ伏して眠る刹那がいた。
顔は背けられていたから見えなかったけれど、規則正しい寝息が聞こえた。
思わず苦笑いを浮かべた。
こんな風にしてないでシリルと一緒に寝てればいいというのに。
けれど、こうやって自分の帰りを待っていてくれたことに、嬉しさを感じた。

起こそうと思い肩に触れようとした。
けれど、そこでちょうど刹那が寝返りをうち、顔をこちらに向けてきた。

廊下の明かりにうっすらと浮かぶ彼女の寝顔に、心臓が大きく、音を立てた。
伏せられた長い睫毛。薄く開いた唇。何の警戒も抱かない、安らかな寝顔。

駄目だ。駄目だ駄目だ。
理性がガンガンと警報を鳴らしていた。
触れるな。触れてはいけない。
彼女の真っ直ぐさに、自分が触れたりしてはいけない、と。

けれど、身体はひどく本能に忠実だった。
刹那に触れたい。その、気高いまでの真っ直ぐさに、近付きたいと、そう思ってしまったのだ。

ダイニングテーブルに突っ伏したままの彼女の顔に近付く。
俺の中で理性なんてものは、微塵も働いていなかったんだ。
目を閉じていても、彼女の唇まであと少しなのがわかった。
その、触れるほんの数瞬だった。

「ニール…」

一気に、消え去っていたと思った理性が息を吹き返した。
彼女から離れ、改めてその顔を見る。
兄の名を呟いた刹那は、どこか哀しげに見えた。

俺を襲ったのは、嵐のような後悔だった。
何を。何をしているんだろう、俺は。

その後刹那が起きて、夕食を食べたけれど、味がしなかった。
ずっとごまかすように笑っていた。
身体がひどく、冷たかった。



理解を、してしまったのだ。
刹那と過ごして半年。
俺が刹那にしてこれたことなんていうのは、本当に些細なことしかなかったのだと。
自惚れていたんだ。
彼女が小さく笑うたびに、穏やかな表情を浮かべるたびに、彼女の心をほだした気になっていた。
何か出来ていた気になってた。

彼女が、自分を見てくれている気になっていた。


なんてちっぽけな理性なんだ。
彼女への想いを無視して、気付かないフリをして、変わらぬ生活を望んでいたのに。
結局、いとも簡単に放り出されてしまっている。

俺は馬鹿だ。
兄の代わりでいいと思ってたのに。彼女の傘になろうと思っていたのに。
それを、今さらつらいと思っているなんて。

何もかもから目を背けていたんだ。
自分の無力さにも、兄の存在の大きさにも、刹那への、溢れそうな感情にも。


彼女の真っ直ぐさを、守りたかった。
けれどきっと、このまま役立たずの理性を持ち続ければ、俺が刹那を壊すんだ。
欲しいと願う本能が、彼女の凛々しいまでの真っ直ぐさを、蝕んでいくんだ。


それでも、俺がこの生活を終わらせようという気にはなれなかった。
仮に離れたとして、それで刹那がシリルを抱えて一人で生活する力はまだなかったから。
だから、それを言い訳にして離れようとしなかった。

離れたくないと、思ってしまう自分がいたんだ。
なんとかして頼りない理性をかき集めるように三人での生活を続けて。
気付くと、暮らし始めてからもうすぐで一年になろうとしていた。
シリルは目覚しく成長した。
伝い歩きが出来るようになったし、ほんの少しなら一人でも立つことが出来た。
シリルと一緒にいるのは、少しだけ楽だった。
この子はきっと、俺の持っている感情なんて理解出来ないだろうから。
無垢な笑い顔に、救われたりなんてしていたんだ。


「シリル、もうすぐ夕飯だぞー」

休日で、久しぶりに家で過ごした日の夕方だった。
まだ食事の手助けを必要とするシリルは、俺達よりも少しだけ食事の時間が早かった。
刹那はキッチンで彼女の食事の支度をしていた。
リビングのカーペットに寝転んでいたシリルの身体を抱き上げる。

「っと、なんだまた重くなったなお前」

小さな存在の成長を実感し、微笑ましさに似たものを感じる。
子どもの成長は、本当にあっという間だ。

「…ァパ」
「ん?」

シリルから発せられた声に、耳を傾けた。


「パァパ」

それは、彼女が初めて口にした言葉だった。

刹那が兄の映っている写真をシリルによく見せていたのは知っていた。
指差して、「お前の父親だ。パパ、だぞ」なんて言っているのも見たことがあった。
それが、こんな結果を生むなんて、思いもしなかった。

「…違うって」
「ぁう?」

シリルを抱いたまま、カーペットに座り込む。
立っている気力がなかった。

「違うって、シリル。パパじゃない。俺は、お前のパパじゃねぇよ」
「パァ…パ?パァパ、パァパ」
「…違うんだよシリル…違う…俺は、違うんだ…」


どんなに似ていても。どんなに同じでも。
俺は兄にはなれない。俺は、ニールじゃない。
だから、シリルの父親にもなれない。
刹那の一番近くにいて、支えてやれる人間にも、なれない。
俺は、何にもなれないんだ。

ちらりと盗み見るように、刹那の方に視線を向けた。
彼女の顔には、ただ後悔の色が見えた。

込み上げるものに堪えるように、腕の中の小さな存在を、強く強く閉じ込めた。
それからのどこか色を失くしたような日々に終わりを告げたのは、刹那だった。



「ライル」

彼女は穏やかに、でも悲しそうに、俺の名前を呼んだ。
その顔はひどく綺麗だった。

言わないで。何も、言わないで。
そう心の中で叫んでも、口はどんな言葉も紡がず、ただ彼女の言葉を待つだけだった。

「ここを、出ようと思う」

抑揚のない、でも、優しい声。
女性のわりに低音な彼女の声は、初めて聞いたときから好きだった。

刹那はわかっていたのかもしれない。
俺が、刹那に愛しさを向けていることを。
そしてそれを、見て見ぬふりを続けていたことも。
何もかも、気付いていたのかもしれない。

それでも、俺の傍にいてくれていたのかもしれない。

「今まで、ありがとう。お前がいてくれたから、俺は何も手放さずにいられた」

彼女は俺を優しく抱きしめて、そう言った。
俺は、彼女の身体に触れることが出来なかった。
触れる資格がなかった。
彼女の真っ直ぐさを蝕もうとすらした俺には、彼女に触れる資格なんかなかった。
だから彼女が言った言葉はひどく胸を突き刺した。
そんな風に、言わないでほしかった。
だって、結局何も出来やしなかったのだから。
兄の代わりにも、彼女の傘にも、何にもなれやしなかったのだから。

離れたくなかった。離したくなかった。
でも、一緒にいることなんか、もう出来なかったんだ。
「なんだ、お前結局禁煙は断念か」

休憩中に紫煙を燻らせた俺に、クラウスが言った。

「…あぁ。もう、吸わない理由がないから」

そう言って吸い込んだ煙は、ひどくまずかった。
時々空を見上げる。
彼女が泣いてないか。彼女が一人で押しつぶされてないか。

でももう俺のこの手では、彼女を雨から遮ることは、出来ないんだ。



ただ、俺がこの手を放したことで、彼女の美しいまでの真っ直ぐさが失われずに済んだのだと、
そう、願うしかなかった。
09.10.23