追い付きたい
追い付けない

あぁ、なんてじれったい
乾いた唇に潤いを!
カーテンから差し込む光に徐々に意識が覚醒する。
ぼんやりと目を開ける。
いつもの、見慣れた天井だ。
まだ少しまどろんだ状態で身を捩った。

隣にいたはずの彼女がいなくて、一気に目が覚める。

がばりと起き上がり、もう一度確かめたけれど、やっぱり夢ではないようだ。
彼女が眠っていたであろう場所に触れたが、そこにはもう彼女の体温は残っておらず、 ただ
冷たいシーツがあるだけだった。
一つ、ため息を吐いて気持ちを切り替えようと試みる。
こんなことは初めてじゃあない。
いちいち考え込んでいたら身が持たない。

それに、彼女と俺の表向きの関係を考えたら、彼女の判断は正しいのだ。

視界を動かして目に入ったのは、リビングスペースにあるローテーブルに置かれた、一人分の朝食。
だいぶ住み慣れた1Kのアパートの、そこだけがなんだか空気を変えていた。
律儀なものだ。
朝早くに起きて、わざわざ台所に立ち、たぶん、俺の分だけの朝食を作ってここを出る。
作ってくれ、と頼んだ記憶はない。
だから、これは彼女の厚意だ。

けれど少し冷めた朝食は、俺の胃を満たすだけで、心にはぽっかり穴が空いたような気分にさせた。
どこかすっきりしない気分のまま、いつもの通学路を歩く。
晴れ晴れとした夏の朝日は、余計に気持ちを萎えさせた。
途中、クラスメイトの何人かと出くわし挨拶をする。
笑顔はたぶん、怪しまれない程度に出来ていたと思う。


校門をくぐると、俺の心持ちはまた変化した。
彼女と同じ空気を吸う。
そんな感覚が、嬉しくもあり、でも苦しくもある。
俺自身も、よくわかっていないのだ。
けれど、こんな気持ちになるのは、紛れもなく、俺が彼女に、恋をしているからなのだ。
八歳も年上の、彼女に。


下駄箱に手を掛け、開ける。

俺の上履きの上に覆いかぶさってその存在を主張するように、一通の手紙が、ぽつんとあった。

あぁ、またか。
ただでさえ気分は落ちている状態なのに、そこに拍車を掛けなくてもいいだろうに。
とは言えこの手紙を書いた人物は今日の自分の気持ちなど知る由もない。
向こうは必死の思いでこの手紙を書いたのだ。
わかっている、これは、ただの八つ当たり。
手紙を少しだけ無造作にポケットの中に押し込んで、上履きを履く。
一歩、また一歩、教室に向かう。
それは、彼女に再び会うまでの距離がどんどん短くなっていることとイコールだった。


ガラリ、と音を立てて教室の引き戸を開ける。
教室内はにぎやかだった。
まぁ、予鈴ギリギリのこの時間だから、当たり前と言えば当たり前だ。

「おはよう、ニール。今日は遅いんだね」
「おはよ、アレルヤ。…ちょっとな、寝坊しちまって」

そう言うと、アレルヤは「珍しいね」と言って納得したようだった。
もちろん、嘘だ。
起きたのはいつも通り。
けれど、出来るだけ遅く支度をして出来るだけゆっくりと通学路を歩いた。
気分が乗らなかった、というのもある。
でも、敢えてそうして時間を掛けたのは、学校で、彼女が教室にやって来るまでの時間が長いと、
耐え切れなくなってしまいそうだったからだ。
待って待って、時間が過ぎるのをただじっと待って、彼女が来るのを待つ。
その、なんとも言えない焦燥感に、押しつぶされてしまいそうな気がしたからだ。

アレルヤと一言二言交わすうちに、予鈴が鳴る。
少しだけ、胸がどくりと音を立てた。


まだ教室内は騒がしかった。
大抵の生徒が席に着いて、後ろや隣の人間と会話をしていた。

雑音しか聞こえなかった耳に、きゅ、という廊下とスニーカーとが擦れ合う音が入る。
すぐにわかる。
彼女は、飾り気のない白いスニーカーを校舎で履いているから。

ガラリと、何のためらいもなく教室の扉が開かれる。
彼女が入って来たのとほぼ同時に教室内はそれまでの騒がしさが嘘のように静まり返る。
それだけで、彼女が何だか特別な人間のように思えてしまった。
彼女の横顔は、昨日の晩など幻だったかのようにいつも通り凛としている。
日直が抑揚のない声で、「起立、礼」と言えば、みんな同じ動きをする。
俺は一拍遅れてしまった。

「おはよう。欠席者…いないな。
この間配った進路希望用紙、提出まだの人間は今日中に提出するように。以上、連絡終わり」

教室内に漠然と視線を動かして、それから、女性にしては少し低い、でも聞いてて決して嫌ではない声で、
連絡事項を淡々と伝える。
ぱたん、と彼女の手にある出席簿が音を立てて閉じられた。

「何か質問は?」

彼女は再び教室内に視線を動かす。

その一瞬、でも、しっかりと、彼女と俺の視線が交わったのがわかった。

どくりと、心臓が音を立てて鳴る。
これだけで、昨日の夜が嘘ではなかったのだと物語っていた。
彼女の赤褐色の瞳は、いつもどこまでも真っ直ぐだ。

「…ないようだな。なら終わりだ」

彼女は、少しわざとらしく俺の視線から外れるように下を向いた。
日直が再び号令を掛けるが、それが終わるのも待たずに、教室を後にした。
彼女のいなくなった教室はまた騒がしさが戻った。
俺が、彼女、刹那・F・セイエイに恋をしたのは、高校一年の時だから、もう二年も前になる。
両親と妹を突然の事故で亡くした哀しみから、ようやく立ち直った頃だ。
進みたい高校があって、世話をしてくれている親戚に無理を言って一人暮らしをさせてもらった。
双子の弟は、別の高校の寮に入っている。
余談だが、どうやら俺は弟に嫌われているようだ。
その、高校に入学してからしばらく経った頃だ。
刹那に、恋をしたのは。
年上が好きだ、とは自覚していたが、まさか八歳も上の、しかも学校の教師を好きになるなんて、夢にも
思わなかった。

最初は、凛とした立ち姿に惹かれた。
それから校内で見かける度に目で追いかけて。
はっきりと、これは恋だ、と自覚したときには、もう半分彼女目当てで学校に行っていたようなものだった。

一年の頃は彼女が担任ではなかったから、彼女が受け持つ古典の時間がとにかく待ち遠しかった。
叶わない恋だとわかっていた。
けれど、どうしてもどうしても諦め切れなくて、彼女に何度も何度も好きだと告げた。
最初は相手にしてもらえなくて、次には「真面目に勉強しろ」と叱咤され、ついには呆れられ。
それでも彼女が好きで、彼女が欲しくて。

叶わない、と思っていた恋が実を結んだのは、二年の夏だった。
いつものように好きだ、と言ったら、彼女は小さく笑って、
「周りには、内緒だ」
と言って、俺の手を取ってくれた。
本当に、今でも信じられないのだ。
無口で無表情で頑なな、そんな彼女が自分の一番近くにいてくれるなんて。


浮かれていたのは二年の冬までで、それからは、今みたいな、嬉しいような、苦しいような、そんな心境と
戦う毎日が続いている。
不安なのだ。
彼女は自分よりもはるかに大人で、しかも担任の教師で。
八歳も年下で生徒の自分は、果たして彼女と一緒にいて許されるのか、と。
そもそも本当に、彼女は俺のことを好きでいてくれてるのか。
刹那は時々俺のアパートに来て、夜を共にして、そして、まだ朝日が昇りきらない頃に去って行く。
その時間はどこか空虚なものに思えてしまう。
俺ばかりが、彼女を求めているのではないかという思いに駆られる。
わかっている。刹那と俺の、教師と生徒という関係を考えれば、彼女の行動は間違いなく正しい。
もし周囲に俺達の関係が知られれば、彼女はおそらく職を失い、俺も、今まで通りの学生生活は送れないだろう。
それは援助をしてくれている親戚にあまりに申し訳ない。
刹那は公私混同をすることもなく、学校では俺を「生徒の一人」として扱っている。
でも、その教師としての彼女を見るたびに、本当に自分は彼女と付き合えているのかと思ってしまう。
彼女の、必要なこと以外は話さない性格と、普段あまり動かない表情が、その思いを強めていく。
別れたくはない。
彼女を手放すことなんて、今の自分には考えられない。

頭では彼女の行動も性格も理解している。
けれど、感情がそれに付いて行ってくれないのは、やはり、自分がまだ子どもだからなのだろう。
胸にしこりがあるような感覚になる度に、その感情自体に嫌気が差す。
自分の不甲斐なさを、ありありと感じてしまっているようだった。
ぼぅっとしたまま、放課後を迎える。
鞄を持って、特別棟の裏に向かった。
朝、下駄箱に入っていた手紙の主に、返事をするためだ。
重たい気持ちを引きずったまま、校舎内を歩く。
手紙の子のことを考えなければいけないはずなのに、頭の中は相変わらず刹那のことばかりだ。

辿り着いた特別棟の裏で、手紙の主であろう子が、恥ずかしそうに顔を俯かせていた。
よくわかる。
俺も、刹那に気持ちを伝えるたびに、恥ずかしいような、苦しいような、でも伝えなきゃいけないようなそんな
ごちゃまぜの気持ちが胸を占めていた。
「好きです」と、振り絞るように言った子の言葉を、出来るだけ出来るだけ、やんわりと、差しさわりのない理由で断る。
立ち去る彼女の眼には、涙が溜まっていた。

また一段と、胸が重たくなった気がする。
それを抱えていられなくて、校舎の壁に寄りかかる。
空が青かった。
コツン、と頭の少し上で窓を叩いたような小さな音が聞こえた。

空に向けていた視線をそのまま後ろの方へ持っていくと、そこにいたのは、焦がれてやまない、想い人。

「…っ刹那…先生…!」

驚いた。
思わず二人でいるときの呼び方を口にしてしまい、慌てて直した。
学校では名前で呼ぶなと、再三言われていた。

彼女の担当教科は古典だから、この特別棟にはほぼ用事がない。
その彼女が、どうして。
刹那は窓を開けて、俺よりも少しだけ高い視線でその赤褐色の瞳を向けてくる。
それだけで心臓がうるさい。
それほどまでに、刹那に惹かれている自分がいることを実感してしまう。


「泣いていたな」

一瞬、何のことかわからなかった。
すぐに、さっきの子のことだとはわかったけれど、でも彼女がその話題を出してきたことにも驚いた。
だって、ここは学校だ。
普段彼女がプライベートな話を持ち出すことを嫌悪すらする場所だ。

「聞いてた…?」
「あぁ」
「ちゃんと、断ったぜ…?」
「知ってる」

断った、とわざわざ言っている自分が、少しおかしかった。
刹那は、もしかしたらそんなこと微塵も気にしてないかもしれないのだ。
あぁ、苦しいな。

「…人気者だな」

刹那が、そう言う。
どういう意味で言ったのかがわからなかった。

「もしかして、妬いちゃった?…なんちゃって、」

冗談交じりに、そう言う。正確には、冗談にもなるように、そう言う。
妬いて欲しい、なんていう俺の、願望でもあった。
けれどそれを否定されたときのダメージを、少しでも減らしたかった。
小心者なのだ。

刹那は、少し驚いたような顔をして、それからちょっとだけ穏やかな顔を見せた。

「いけないか?」
「…は、」

え。
え、え、え。
ちょっと待った。今、何て言った?
「いけないか?」って、そう言ったか?
どういう意味だ。

…つまり、つまりだ。
「いけないか」ってのは「妬いちゃ駄目なのか」ってことで、つまりは「妬いてる」ってことで。
それはつまり、「俺が告白されて、それでやきもち妬いてる」ってことで…。
あ、どうしよう。
馬鹿みたいだ。今まで考えてたことが、一瞬で吹っ飛んだ。
なんて単純なんだ、俺。

信じられない、とばかりに刹那を見ていたら、彼女は俺の気持ちを見透かしたように、小さく笑った。
どきりと、胸が高鳴る。

「朝、ちゃんと食べたか」
「…食った。上手かった」
「そうか」

少し生じた、沈黙。
その間に、気持ちが高ぶって、何か言わないと持たない気分になった。

「せつ、」
「今日」

それを、彼女が短くあっさりと切る。
刹那の言葉を待った。

「また行ってもいいか、家」

朝落ち込んでいたのなんか、もうずっと過去のことみたいだった。
彼女の口から紡がれるその言葉が、今の俺の全てだった。
好きでいていいのだと、許された気がした。

俺が思い切りよく頷くと、彼女はまた小さく笑った。
あぁどうしよう。気持ちが溢れそうだ。
もしかしたら彼女は本当に妬いてくれたのかもしれない。
いや、いい。そういうことにしてしまえ。

「…せつなぁ」
「"先生"。…何だ?」

呼び方をまた注意される。けれどそんなこと、今は気にならなかった。

「どうしよう、今すっごいキスしたい…」
「……馬鹿か」
「馬鹿でいいよ、もう、馬鹿でいい。馬鹿なくらい、先生が好きだ」

刹那は俺の馬鹿みたいな告白に、目を丸める。
呆れるかと思えば、彼女はそれを否定するように目を細めた。

「お預け、だ。家に行ったら飽きるくらいさせてやる」

あぁどうしよう。なんでそんなに俺の胸を高鳴らせるんだ。
刹那は踵を返し、その場を後にした。

窓から見える彼女の後姿は、どこまでも綺麗だった。
毎日がじれったい。

でもやっぱり、君に恋することは止められない。
09.07.18

title by=テオ


―――――――――
10000HITのキリリクでした。
「ニル刹♀で年齢逆転」とのことで、教師と生徒にしてみました。
果たしてご要望に添えられたかどうか…!
でもリクエスト、どうもありがとうございました!
もしご希望に添えなかった場合はいつでも言ってくださいませ…!