見えないよね、伝わらないよね、(それなら、いいんだ)
与えられた休息時間に、刹那は裏庭を歩いていた。
特に目的はなかった。
しいて言えば、木陰で一休みでもしようかとぼんやり考えていたところだった。
少し先にある大きな楓の木は、刹那がよく訪れる場所だった。

しばらく歩いたところで、刹那は見慣れた二人の姿を見つけた。
同じ従者仲間のクリスティナとフェルトだった。
二人共楓の木を見上げていた。
クリスティナが刹那の存在に気づき、視線をこちらに動かした。

「刹那、どうしたの」
「ここで寝ようかと思っていただけだ。そっちこそ、どうした」
「あれ…」

刹那の問いに答えたのはクリスティナではなくフェルトだった。
彼女は視線を楓の木に向けたままだ。
「あれ」というフェルトの言葉に、刹那も視線を上げた。
高い木の枝に、猫が身体を震わせていた。

「自分で登って、降りれなくなっちゃったみたいなのよ」

クリスティナが困ったような声を上げた。
刹那自身、そこまで気にすることなのかどうかはわからなかった。
たかだか猫だ。しかも、自分から登って降りれなくなるような。
放っておけばそのうち自分でどうにかするだろうと思ってはいる。
だが、この猫を気に掛ける二人を放っておくには気が引けた。
クリスティナとフェルトは、刹那がこの屋敷内で親しくしている数少ない人間だった。

刹那は軽く跳躍し、手近な枝に足を下ろした。
そのまま、するすると枝伝いに上へと昇って行き、あっという間に猫のいる枝までたどり着いた。
だが猫は刹那の登場にさらに怯えを増したようだった。
威嚇するような声を上げ、毛を逆立たせている。
刹那が手を伸ばすが決して近づこうとはせず、寧ろじりじりと後ろへ下がっていった。
猫の後ろ脚が枝から外れ、バランスを崩した。
クリスティナが短く悲鳴を上げる。
猫は枝に体を支えていることが出来ずに、地面に向って真っ逆さまに落ちて行った。
刹那は小さく舌打ちし、枝を蹴って追いかけるように飛び降りた。

猫を掴んだ。
それとほぼ同時に、刹那の身体が大きな衝撃と共に着地した。

「やだ刹那…っ大丈夫!?」

クリスティナとフェルトが刹那の元に駆け寄る。
刹那がしばらく間を置いてゆっくりと立ち上がる。

「問題ない」

淡々と、そう言って、腕の中の猫を差し出した。
フェルトはそれを受け取る。どこか青ざめた表情だった。

「どこか、痛いところ…」
「ない」

フェルトの言葉を遮るかのように、刹那が言う。
そのまま刹那は二人に背を向け歩きだした。

「刹那、寝るんじゃないの?」
「気が変わった。もう行く」

クリスティナの言葉に、刹那が背を向けたまま答えた。

ずきずきと、足が痛んだ。
しまったと、思った。

痛む足を引きずり、刹那は屋敷の中を歩いていた。
幸いにもクリスティナとフェルトには気付かれていないようだった。
自分たちのせいで怪我をしたと思わせたくはなかった。
だが、この足で果たして満足に仕事をこなせるかどうか。
当主にでも気付かれてみろ。
何を言われるか。何を思われるかわかったものじゃない。
最悪、屋敷を追い出される可能性だってある。
当然だ。自分程度の力量の人間ならそこらじゅうにたくさんいる。替えはいくらでもきく。
刹那がニールの側にいることを許されているのは、彼女がニールの護衛だからという、ただそれだけの理由だ。
刹那からそれを取り去れば、もうニールを護ることも、側にいることも出来ない。
それは、嫌だった。

屋敷内をゆっくりとした足取りで歩いていた刹那は廊下に人が立っていることに気付いた。
そしてそれが誰かも、すぐにわかった。
空色の瞳が、刹那を真っ直ぐに見据える。

「刹那、おいで」

声の低さに、胸が震える。
怒っている、これは。

「今すぐ、ですか」

自室に戻って手当がしたかった。
そうすれば幾分痛みも引けるだろうから。

「命令。来なさい、せつな」

駄目だ。これには、逆らえない。
連れて行かれたのはニールの自室だった。

「そこ、座りなさい」

そう言ってソファを指差した。
一度部屋の奥に消え、再び現れたニールが手に持っていたのは救急箱だった。
刹那は黙って、ニールの命令に従った。

ニールは、ソファに腰を下ろした刹那の前に膝を落とした。
黙って刹那の靴を脱がせた。
刹那は、口を挟む隙など与えられない。

「何考えてる」

低く、耳に響く声でそう言われる。
刹那は何も返さなかった。

「あんな落ち方すれば誰だって足の一つや二つ捻るだろ」
「…見て、いらしたんですか」
「見てたよ。たまたま、だけど」

刹那の足にテーピングを巻いていくその手の動きに淀みは見られなかった。

「自覚がないのか?俺を護らなきゃいけないっていう、その自覚が」
「そんなことは、」
「なら」

ニールは膝を起こし、ソファに手を付いた。
そのまま、追い込むように刹那をソファに沈めた。
ニールの碧が、刹那を捕らえて、離そうとしなかった。

「お前のその命が、誰の為のものかよく考えろ」
「……申し訳、ありません」

刹那にはそれ以上返す言葉が見つからなかった。
ニールの言う通りだった。
自分の仕事はニールを護ることであって、猫を助けることではない。
自分の命はニールの為にあるのであって、他人の為に傷を追うことは許されない。
刹那自身忘れていたわけではなかった。
だからこそ、ニールの言葉が重く胸に響いた。

失望しただろうか。
もう側には、置かせてもらえないだろうか。

そんな考えを巡らせていると、ちくりと、首筋に小さな痛みが走る。
ニールによるものだということはすぐにわかった。
ニールは刹那の首筋に顔を埋めたまま動こうとはしなかった。

「…他、怪我は?」

ぽつりと、ニールがそう言う。

耳に響くニールの低音が、刹那にはひどく心地よかった。

「ありません」
「本当か?」
「本当です」
「ほんとう、に?」
「…ニール、様?」

刹那の問いかけに、ニールがゆっくりと首に沈めたままの顔を上げた。
そのまま救急箱を持って背を向けてしまったから、もう表情は読めない。

「…明日から護衛はなしだ」
「…っ」

刹那は唇を噛んだ。
わかっている。それは当然の判断だ。
まともに動くことの出来ない護衛は護衛には使えない。
今の自分は、ニールにとって必要のない存在。
ただの、復讐相手。


「…お前を俺の護衛から外すつもりはないよ。…だから、しっかり完治させろ」

ニールの言葉に、刹那は顔を上げた。
ニールは持った救急箱を手に既に奥へ行こうとしていた。

まだ側にいることを許される。
そのことだけが、刹那を静かに歓喜させた。
決して顔には出さない。
出せば、その瞬間ニールとの関係は崩れ去るからだ。

扉の前で、ニールが立ち止まる。

「…刹那」

顔だけを刹那に向け、名前を呼ぶ。
刹那は真っ直ぐに主を見た。

どこまでもどこまでも真っ直ぐな紅が、ニールを見据えていた。

「……いや、何でもない。部屋に戻って休んでろ」

そう言って、ニールは扉の向こうへ消えた。
ニールは持っていた救急箱を戸棚に入れ、その足でベッドへ身を投げた。
大きく、息を吐く。


心臓が、それこそ止まるかと思ったくらいだった。
刹那が猫を抱いて、地面に落下したのを見たとき。


普段から立場上狙われやすい故、大抵のことには動じなくなっている。
だがあの時は冷静さを欠いた。
落ち着けと、自身に言い聞かせたほどだった。

それほどまでに、刹那に依存する自分を、ニールは少し嗤った。


刹那には、どうやら気付かれてはいないようだった。
動揺するほど、彼女の身を案じたという事実を。

気付かれるなどということは、あってはならない。
何故なら、その瞬間に当主と使用人、そして復讐者と被復讐者という関係は音を立てて瓦解するからだ。
ニールが刹那を側に置くことが出来るのは、彼女が自分の護衛で、彼女の一族が自分の家族を殺したから。
刹那自身の意思ではない。
現在の関係性を捨ててまで彼女を側に置いておける自信は、ニールにはなかった。
ニールが今手に入れているのは刹那の身体だけだ。
護衛でも被復讐者でもない、ただの少女としての刹那の心は、決して、ニールの物ではないと、そう思っている。

先日のライルの言葉が思い起こされた。

『そんなこと続けてたって、本当に欲しいものは手に入んねぇよ』

わかっている。そんなことは。
ニール自身が、一番よく理解していた。
けれど今のこの関係を続ける以外に、刹那を置いておける方法が、思い付かなかった。


気付かれてはいけない。口にしてもいけない。
動揺するほど刹那の身を案じたことも。
刹那がいつも楓の木の下で休息を取っていると知っていることも。
そして、刹那が猫の為に怪我を負った時に生まれた、ひどく歪んだ独占欲も。


見えないように、蓋をしていなければいけないのだ。
自分の想いを知っているのは、自分だけでいい。
09.07.06

title by=テオ