「さみしい」と言葉を紡げない君が、どうか笑えますように
望むらくは 君が君でいられることを
キーケースからマンションの部屋の鍵を探し出す。 使うのはひどく久しぶりだ。 鍵を差し込んでパネルを操作して、自動ドアを開ける。 ここに来るまでの街中は随分と賑やかだった。 そういえば、土曜日で休日だったな、と考えてわかった。 仕事柄、曜日感覚なんてなくて支障ない。 エレベーターに乗り込んで、自分の部屋の階を押す。 エレベーターの最初と最後に来る、あのぐらっとした感覚は、実は嫌いだ。 通路を渡る間は住人の誰とも会わなかった。 そちらの方が好都合だ。 自分は兄と違ってどちらかと言えばあまり人当たりのいい方じゃない。 玄関の鍵穴に鍵を差し込んで、ドアを開ける。 どこか落ち着ける空気の匂いに、ライルは肩が楽になった気がした。 「ただいまー。兄さーん」 敢えて同居している少女の名前を呼ばなかったのは、まだ同居自体にライル自身が完全に 慣れていないからだった。 それに、呼んでも出てこないだろう、と思った。 予想は見事に外れた。 廊下とリビングとを繋ぐドアから出てきたのは、その少女だった。 「あれ、刹那?兄さんは?」 「仕事だ」 「仕事って…今日土曜だろ?」 教員である兄・ニールは学校に合わせた平日が仕事だったはずだ。 それに加えて、自分の記憶が正しくば部活の顧問もしていない。 いや、わからない。 何せ今回の撮影は三か月に及ぶ長丁場だったから、その間に何かの顧問になったかもしれない。 「補修だ」 「補修?」 「受験生の」 「あ、なるほどね」 受験生にとっては一分一秒も無駄に出来ないのだろう。 兄はそれに付き合っている、もとい協力している、というわけだ。 どさり、とライルはリビングのソファに腰を下ろした。 なんだか久しぶりに楽な体勢を取った気がした。 刹那は刹那で、ダイニングテーブルで勉強をしているようだった。 「あー、疲れたっ」 思わずそう零す。 今回の撮影はハードだった。 あの事務所は、自分を強化人間か何かだと勘違いしているんじゃないだろうかと、ライルは 思わずにいられなかった。 「ホントによー、無理だっつのあんな強行スケジュール」 「……」 「アイツら俺をサイボーグだと思ってやがるね」 「……」 「…俺が何でもかんでも出来ると思ったら大間違いだっての」 「……」 「……」 「……」 刹那は何も返さない。 だからライルが言葉を発することをやめれば、そこに生まれるのは必然的に沈黙だった。 沈黙が生まれて、ライルはそれでようやく自分が子ども相手に愚痴を零していることに気付いた。 我ながら情けない、と思った。 気分を変えようと思い、ライルはソファから立ち上がった。 キッチンで冷蔵庫の扉を開ける。 アイスコーヒーのボトルを見つけて、それをコップに注いだ。 対面式のキッチンから、ちらりと刹那を見た。 彼女は真っ直ぐに机に向い、ノートに視線を落としている。 どうやら数学のようだ。 まるで感情をどこかに置いてきてしまったみたいだ、と再会して最初に思った。 自分の記憶の中の彼女は、よく笑ってよく泣いて、兄の後ろをひよこのように付いて 行く、それはそれは子どもらしい子どもだったから。 刹那と別れた日のことを、ライルは今でも鮮明に覚えている。 両親と妹が事故で亡くなって、兄と一緒に施設に行かなければならない日。 度重なる別れに、まだ子どもだったライルの胸は重く沈んだ。 刹那はこれでもかというくらいに泣き崩れた。 「いかないで」と、ずっと繰り返しそう言っていた。 叶えてやれないことに胸が痛んだ。 刹那の母親は、一緒に暮らすことを勧めてくれた。 けれど病弱だったその人に、これ以上負担を強いることがつらかった。 施設に行ってからすぐだった。 刹那の母親が、亡くなったと聞いたのは。 刹那も施設に預けられたと人伝に聞いた。 けれど、十年、刹那と会うことはなかった。 二人は成人してからずっと刹那の行方を捜した。 特にニールは躍起になっていた。 ライル自身、仕事の関係上捜すことを半ば諦めていた頃だ。 ニールが新しい赴任先で、刹那を見つけたのは。 『きっと、つらい思いたくさんしてきたんだよ。だから、俺らで守ってやらないと』 兄も刹那の変化には戸惑いを隠せなかったのだろう。 そう言った時の顔はひどく寂しそうだった。 刹那が施設にいる間の詳細は未だに明確にはわかっていない。 刹那が何も語ろうとしないからだ。 けれど何となく想像は付く。 施設から連れて行く時、そこの職員がまるで肩の荷が下りたような顔をしていたのを、よく 覚えていたから。 仕事が仕事だけに、ライルは家を空けることが多く、刹那のことは完全に兄に任せた 状態になってしまっていた。 ニールは「仕事なんだ、そんなこと気にすんなよ」と言って笑ってくれる。 兄も兄で、刹那に構うことがやはり好きらしかったから、問題なかった。 そういうわけだから、ライルは再会してからの刹那と、数えるほどしか接点がない。 正直、どう接すればいいのか、わからなかった。 昔のように無邪気に接するのは論外だと、さすがにわかる。 かと言って合わせるように会話を無くせば、先ほどのように沈黙が訪れる。 気まずい事この上ない。 こういう時、兄はすごいと思う。 何の隔たりもなく、刹那を刹那として受け入れて、接しているのだから。 『別に普通でいいんだって。せっちゃんはせっちゃんなんだから』 どう接すればいいかわからない、とぽつりと漏らしたら兄は笑ってそう言った。 一緒に住むようになってしばらく経った頃に、ニールは刹那との接し方を確立したようだった。 兄はこうも言った。 『刹那は自分で寂しいって言えないんだ。わかんないんだよ、自分で。 だから、俺らで気付いてやれないといけないんだ』 寂しいと言えない。 大人に頼ることを忘れ、自分の感情を口に出すことを忘れる。 悲しいことなのだろうな、とおぼろげに思う。 それでも、最近は兄の甲斐甲斐しい世話もあってか、刹那は少しずつではあるが刹那らしさを 取り戻していっているようだった。 ライルは改めて刹那に視線を向ける。 相変わらず視線は真っ直ぐと数字とにらめっこをしている。 だがふと、そのページもペンを握る手も、先ほどと寸分違わぬ状態だということに気付く。 彼女は、ただじっと白い紙を見ているだけのようだった。 それで、気付く。 あぁ、こういうことなのか、と。 兄の言っていた意味を、ライルはようやく理解出来た気がした。 寂しいと言えない。寂しいとわからない。 きっと、兄がいないことに少なからず不安を隠せないのだろう。 自分を誤魔化すための勉強も、思うようにはいかなかったようだ。 少しだけその依存のしように嫉妬した。 「なぁ刹那、今回の撮影の話、聞かせてやろうか」 ダイニングテーブルの、刹那の向かいに腰を下ろす。 彼女は白い紙に向けた視線をゆっくりと上げ、こくり、と頷いた。 自分の気持ちに蓋をしてしまった君が、いつか自分の口でその気持ちに名前を付けることが 出来ますように。 09.06.29 title by=テオ |