自らを傷つけるあなたを止められもせず
カチャリ、という音と共に、カップはソーサーに収められた。
中身は既になく、それに気付いた刹那は淀みない動きで空のカップに紅茶を注いだ。

そんな姿を、ライル・ディランディはどこかいぶかしげに眺めていた。

「で?」

向かいに座る一族の当主であり、双子の兄であるニールの言葉に顔を上げる。

「他に用事は?まさかこれだけじゃないんだろ?」

ニールはそう言って、手に持っていた紙の束をテーブルに置いた。
中身は街の商業の状態をまとめられたものだ。
ニールに目を通してもらうべく、ライルが持ってきたものだ。

ライルは苦笑いを浮かべた。
兄は何でもお見通しのようだ。

「伯母さんから伝言。『今度いい縁談を持って行くから、今度こそ決めるように』だってさ」

ライルの言葉に、ニールは呆れたように一つ溜息を吐く。

「またそれか。…しないって言ってるのに」
「育ての親としてはいい加減身を固めてほしいんじゃないか?」
「あの人は自分が恥をかきたくないだけだ」

そう言って、紅茶を一気に飲む。
空になったカップにはまた刹那が紅茶を淹れた。



突然、窓ガラスがけたたましい音を立てて割れた。
その原因であろう鋭い槍のような凶器は、まっすぐにニールの頭に向かって行った。

だが、ニールが慌てふためくことはなかった。
ただ黙って紅茶の淹れ直されたカップに口を付けていた。
ライルは音に驚いて座っていたソファから身を動かしていた。

凶器は、ニールに届くことはなかった。
刹那が出したワイヤーが凶器に絡み、その動きをびたりと止めさせた。

「御苦労さん、刹那」
「追いますか」
「や、いいよ。他のみんなも音で気付いたろうから、任せればいい。それよりお茶、お代わり」

淡々と、なされる会話。
ニールは特に気にかける様子もなく刹那にお茶のお代わりを申し入れた。
ライルは、そんな二人を何も言わずに見ていた。

「少し、お待ちを」

カートにティーポットを置き、刹那はそれを押して部屋を後にした。
ライルは、その姿をずっと目で追っていた。

「優秀だろ?」

ニールがそう言う。
それが刹那を指すことであるのは明白だった。
ライルはゆっくりと視線を兄に戻した。

「…いつまで、こんなこと続けるつもりだよ兄さん」
「飽きるまで。ずっと」

ライルの言葉に、ニールは迷うことなくそう答える。
いぶかしむような表情のライルを見て、ニールはくっと小さく嗤う。

「だって最高だろう?クルジスの人間が、俺を護ってるんだ」

あぁ、狂ってる。
その嗤う顔を見て、ライルは思った。


いつからだろう、兄がこんな風になってしまったのは。
家族がクルジスの人間に殺されて、ニールがやむなくディランディ家の当主になった頃はまだこんな風に
嗤ったりしなかった。
普通に家族がいないことを悲しんで、普通にクルジスの人間を憎んでいた。
いつからだろう。
きっと、いつの間にかだったのだろう。
薄汚い貴族や大人の世界に足を踏み入れ、色んなものを見てきた兄は、その世界に染まるように、狂っていった。

ニールがクルジス出身の刹那を側付きのメイド兼護衛にすると知ったとき、ライルはひどく反対した。
その言い分は他の従者と同じだった。

「なんでよりによってクルジスの人間なんだ」
そう激昂するライルに、ニールは静かに言った。

「復讐だよ、ライル。クルジスの人間に俺のことを護らせるんだ。滑稽だろ?」

ライルはその時、初めてニールが狂気に染まっていることを知った。
そしてそれがもう、手遅れであることも理解した。
おそらく、自分が傍にいればこうはならなかったのだろうとライルは思った。
引き取ってくれた伯母は、二人が成人を迎えると、すぐにニールだけをこの本邸に入れた。
早い自立を促した教育方針は、ただニールが狂気に染まる道筋を辿るだけだった。

ライルとてクルジスの人間が憎いのは一緒だ。
だが、冷静に考えてみれば刹那は無関係だ。
信用は出来ずとも、不憫にも思った。
ニールの狂気に従い、ただ黙って彼を護る少女を。

気付かないことを後悔もした。
兄は、きっと静かに静かに、己の中に歪んだ感情を溜めていったのだろう。
そしてそれは、少女に会った時に一気に表に出された。
せめて自分がそれに気付いてやれば、兄も、そして少女も道筋が少し違っていたかもしれない。
兄のこうした歪んだ感情を知っているのは、自分と、あの少女だけだろう。
その証拠に、街や他の貴族同士の間で聞く兄の噂は、専ら「若いのに立派な人間」だ。


「…帰るよ。御馳走さん」

そう言って、ライルは立ち上がった。
ニールは特に引き留めようとはしなかった。

ドアに手を掛けたところで、ライルは顔だけをニールに向けた。

「…兄さん、そんなこと続けてたって、本当に欲しいものは手に入んねぇよ」

ニールは、何も答えなかった。
ライルはそんな兄を一瞥して、そしてドアをくぐった。




廊下を少し歩けば、カートを押す刹那に出くわす。

「お帰り、ですか。…玄関まで」
「や、いいよ。」

初めて会った頃に比べれば随分と敬語が堪能になったものだと思う。
二年前はもっと機械染みていた。

じっと刹那を見る。
紅い眼はどこまでもまっすぐだ。
ふと視線をずらせば、刹那の首筋に赤い斑点のようなものが見えた。
わざと見えるような位置に付けられたそれに、何とも表現しがたい感情を覚えた。

「……」
「…何か?」

刹那の言葉に、ようやく我に返る。
「何でもない」とごまかした。


兄は、気付いているんだろうか。
自分のその行いが、狂気に満ちているものだと。
その行為は、ただ自分を傷付けているだけだと。


「お前は、逃げたいと思わない?」

ぽつりと、そう呟く。
目の前の紅い瞳は一瞬だけ大きく見開く。
そして、またまっすぐになる。
迷いはどこにも見られない。

「思わない。思う必要がない」

敬語を一切使わないその言葉には、嫌悪は感じなかった。
凛々しさすら感じる。
だが、余計に少女を不憫にも思う。
彼女のまっすぐとした思いは、兄の屈折した自己満足によって歪められる。

「…ここ」

そう言って、刹那の首筋を指す。
彼女は、納得した表情をしていた。

「丸見え。隠した方がいい」
「…ご忠告、感謝します」

仰々しく使う敬語には少し違和感を感じる。
そもそもこの少女の雰囲気とは敬語が縁遠いように思えて仕方ない。

「そんなことされても、それでも兄さんに仕える?」


「…それが、当主の望みであるならば」


そう言った少女の表情を見て、ライルは驚きつつも納得した。

悦んでいる。
無表情なのに恍惚とした雰囲気を一気に漂わせたそれは、間違いなく享受している顔だった。

なんて、愚かなのだろう。
自身を傷付けているのは、兄だけではなかった。
この少女もまた、自身を傷付け、それでもそのことに気付かないふりをしている。
兄は彼女の想いに気付いているのだろうか。
否、おそらく気付いてはいないだろう。
きっと、自身の行為の滑稽さに気付くことで、精一杯だろう。


ニールの部屋で割れた窓ガラスを思い出した。
そんな風に、いつか粉々になる日が、この二人にも来るのだろうかと、そんなことをライルは思った。
そしてそれを、とてももどかしく、思った。
09.05.23

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