好き、嫌い、好き、やっぱり嫌い
十年ぶりに会った彼女は、恐ろしいほど人間が変わっていた。


「えーだから、この場合、sinが62゚だから、90-62で28。で、sin62゚=sin(90゚-28゚)=cos28゚、になる。
…もう時間だな。じゃあ今日ここまで。
えー、今日の出席番号…14、セイエイー、後で数学準備室によろしく」

そう言った瞬間、彼女の雰囲気が一変したのが数学教師の手に取るようにわかった。
気づいたのは彼くらいだろう。
その証拠に、日直が号令を掛けても、生徒達はなんの戸惑いもなく立ち上がって頭を下げた。
教師が教室を去るのも待たずして、生徒達は騒がしく動き始めた。
ただ一人、教師に呼び出しをくらった彼女を除いて。


がらりと、静かに、でもどこか嫌そうに、数学準備室の戸が開けられた。

「いちいち人を呼び出すのはやめてもらえませんか、"ディランディ先生"」

わざとらしく強調して名前を呼ばれ、ニール・ディランディは苦笑する。

「たまたまだよ、たまたま。たまたま今日が14日で、たまたませっちゃんの出席番号が14番で、たまたま俺が用事があっただけ」
「誰がせっちゃんだ」

そう言って、彼の言い訳らしい言い訳をばっさりと切り捨てる。
それにもニールは苦笑する。

「いいだろ、別に誰もいないし。じゃあ刹那サン、ほい、コレ課題のプリント。後でみんなに配っといて」

数十枚の紙の束を彼女に渡しながら、言う。
刹那は刹那で、受け取りながらも、実に不満そうな様子であった。

「あと用事もう一個。今日の夕飯何食べたい?」

刹那の表情は動かなかった。
代わりに、プリントを持つ手が、ぴくりと、反応だけした。
ニールにとってはそれで充分だった。
ひどいときは指すらぴくりとも動かない。
「ニル兄、ニル兄」とひよこのようにニールの後を追って、その愛くるしい表情をころころと変えていたのは、もう十年も昔の話だ。
今はもうこちらに慣れてしまった。

「夕食。何食べたい?ライルも今日帰って来るしさ、ちょっと豪華にしようぜ」
「…だったらライルの好きなものでいいだろう」

面倒そうに、刹那が言う。
彼女の言うことは正論だが、ニールは別に気にしていなかった。

「だって連絡取れねーもん。それに今更あいつの好きなもん作ったってしょうがないし」

まるで子どものようなその言い訳に、刹那は呆れたようにため息をついた。
表情は、あまり変わっていない。

「…オムライス」
「りょーかい。せっちゃん好きだもんな、オムライス」
「だから誰がせっちゃんだ」

昔の呼び名をまた出され、刹那がそれに反応する。
ニールはやはり苦笑いしかしない。

「せっちゃんはせっちゃんだよ。昔のまんま、俺たちのかわいいせっちゃん。せっちゃんは、俺らのこと、もう嫌い?」

椅子に座ったまま、上目で覗き込むように刹那を見る。
刹那はその目を見たくなくて、ふい、と下を向く。

「…嫌いだ」

ぽつりと、そう呟く。

「そっか」

ニールが、また苦笑いをする。
別に気にしていない様子だった。

施設で暮らしていた刹那の十年を、ニールはまだ詳しく知らない。
けれど、つらい思いをたくさんしてきたのだろう。
あれだけころころと変わっていた表情を消してしまった現実がニールにとっては悔しくて切なかったが、それでも、 彼にとって刹那は刹那で、大切な存在であることには変わりない。
一緒に暮らし始めてまだ三ヶ月。
ゆっくりと時間をかければいいと、ニールは思っている。


部屋を後にしようと扉に手を掛けた刹那だったが、くるりと、ニールの方に向き直った。
その行動に、ニールは首を傾げる。

「…でも、ニル兄の作ったオムライスは、好きだ」

そう言って、足早に部屋から出て行ってしまった。
しばらく目を丸め、扉を見つめたままのニールだったが、やがて破顔して、その肩を揺らした。
その不器用で、でも一生懸命な愛が、たまらなく愛おしい。
09.01.18

title by=テオ