Beautiful World−19−
ニールの目の前で慌ただしく事態は進み、マリナは集中治療室に運ばれていった。
全てがあっという間の出来事で、ニールには現実味がなかった。いっそ本当に夢であればと心の中で思った。
何もしていないのに、ニールにはひどい疲労感があった。
ソファに腰を下ろしたい衝動にも駆られたが、それよりもしなければいけないことがある。
ここでくたびれている暇はなかった。
ニールはポケットから携帯電話を取り出し、フラップを開く。
つい昨日、連絡をしないでくれと言われ拒絶されたばかりだったが、そんなことを言っている場合でもない。
耳に携帯電話を当て、向こうが出来るだけ早く出てくれることを祈った。
集中治療室を向いていたニールの耳に、バタバタと駆ける足音が届く。
看護師に見つかっても止まろうとはしない。「走らないで」という注意は足音にかき消された。
マリナが集中治療室に入って、既に五時間近くが経っていた。

「ソラン…っ」

現れた彼女は荒く息を上げていた。余程必死に走ったのだろう。
元々癖毛だった髪はさらに跳ね、顔に薄く施された化粧は汗で崩れてしまっていた。

「義姉さん…っ」

集中治療室に向かってさらに駆け込もうとしたソランを、ニールが止めた。

「さっき、先生が出てきた。とりあえず、今のところは大丈夫だって。でも危ないことには変わりないらしい…」

医者から聞かされたことを話すと、ニールの腕に留まるソランが小さく震えているのがわかった。
何かを言っているのか、ぼそぼそと空気が掠れるような音も聞こえる。
ニールに向けて話しているのではないようだった。独り言のようなもののようだ。

「ソラン?」
「…せいだ」
「え?」
「俺の、せいだ…っ」

ニールには、ソランが何を言っているのかわからなかった。
確かにソランが見舞いの回数を減らしたことはマリナに多少なりと心労を与えることになったのだろうが、
それが今回の発作に直接繋がったとは考えづらい。
彼女が自分を責め立てるような言葉を口にする理由がニールにはわからない。
けれどソランは、繰り返し、「俺のせいだ」と自分を見失ったように言い続けた。

「ソラン、落ち着けって」
「義姉さん…っいやだ、義姉さんっ」

ソランの様子に、ニールは多少なりと焦った。ここまで取り乱した彼女は見たことがなかった。
だが、不謹慎だとわかっていながら、狼狽する彼女を見て、心の片隅で安心した感情も、ニールの中にはあった。
ソランの中でマリナは、やはりまだ大きな存在なのだ。
心は、完全に離れたわけではなかった。

今にも集中治療室に向かって駆け出しかねないソランを、その腕の中にしっかりと抱き止めた。
細い身体は、ニールが腕を回すとびくりと跳ねた。

「大丈夫だから、とりあえず落ち着け。先生が今のところは大丈夫だって言ってんだから。
それに、マリナさんがお前のこと置いていくわけないだろ?だから、大丈夫」

マリナのことも気がかりだが、あちらは医者や看護師が近くにいる。
今は、目の前の彼女を落ち着かせることが先だと思った。
ソランの体の震えが治まるようにと、ニールは強く抱き締めた。

ニールの腕の中で強張っていたソランの体は、しばらくするとその力がふ、と緩んだ。
ニールもそれに合わせ、腕の力を弱める。
顔を覗くと、まだ少し戸惑いを隠せないようだが、いくらか落ち着きを取り戻したような表情をしていた。
それを見て、ニールは少し安心する。

看護師から、ソランが来たら医師の方から説明がある、と言われていた。
もう少し落ち着いてからの方がいいかとも思ったが、そのことを話すと、ソランは小さいがしっかりと頷いた。

現れた医師に、ニールは自分も同席していいか尋ねた。
隣にいるソランが目を丸めているのがわかった。
幾分落ち着いたとは言え、今の状態の彼女に一人で説明を聞かせるのは心配だった。
医師はちらりとソランの様子を伺うと、「ご家族が了承されるのであれば構いません」と言った。
ニールはソランに目配せして尋ねる。ソランは、少し戸惑った様子だったが、こくりと頷いた。
カンファレンスルームに連れられ、医師は今のマリナの状態を、こちらにわかるよう説明した。
その説明の中で医師は、今回の発作が実はマリナの命を直接危険にさらす可能性があったということも話した。
それを聞かされ、ソランは動揺を見せた。そこまで悪いものだと、思っていなかったのだろう。
彼女がますます自身を責め立ててしまうように思い、ニールは気に病んだ。
医師はソランの様子を伺いながら、ゆっくりと説明を続けた。

「今は落ち着いていますが、またいつ容態が急変してもおかしくはない状況です。
今行っている治療や処置は、症状を抑えたりするためのものにしかすぎません。
根本的に治すにはやはり…手術が有効です」

手術、という言葉を出すのに医師は少しの躊躇いを見せた。
彼は、この姉妹の取り巻く環境を少なからず理解しているのだろう。

手術を行うには多かれ少なかれ金が必要になる。
今、ソランにどのくらいの蓄えがあるかはニールにはわからない。
だが、それほど多くはないだろう。あれば彼女のことだ、義姉の手術などとうに申し入れていただろう。

「費用は、どのくらい必要ですか」

少しの沈黙の後、ずいぶん落ち着き払った声がニールに届く。
それがソランのものだと気付くのに、少しかかってしまった。
彼女は先ほどまで見せていた動揺が嘘のように、真っ直ぐと前を向いていた。
その迷いのない表情に、ニールはむしろ不安を覚えた。
彼女は、何を考えているのだろうか。

「詳しいことは外科医などから説明を受けることになりますが、お姉さんの治療に有効だとされる手術は、
保険適応外になるかと思われるので、簡単に見積もって、四、五百万ほどは、必要かと…」

医師の言葉を聞いて、ニールは気持ちがずしりと重くなった。
彼女の背負わされたものの重みを知った。
あの細い身体に、どれだけのものを背負わされてしまうのだろう。

医師は、高額の治療に対する補助金の説明も一緒に付け加えた。
上限額を超えた分の費用は、戻ってくると話した。
それでも、やはり一度はまとまった金額を用意しなければならないのだという。
彼女に課せられた状況はあまり変わらないのだろう。

だが、ニールの感情を余所に、ソランは表情を崩すこともなく、口を開いた。

「手術を、お願いします。義姉を助けてください」

そう言って、頭を下げた。
医師は、彼女の言葉に一瞬だけ戸惑って、それから、「わかりました」と言った。
外科医との手術日などの調整もあるとのことで、ソランは明日再び病院に来ることになった。
部屋を後にして、医師と別れた二人は連れ立ってマリナのいる集中治療室に戻った。
その間、ずっと沈黙が続いていた。
隣を歩くソランの表情は崩れず、ただ強く決意の色が見えた。
集中治療室は静かだった。
命を繋ぐ機械音が規則正しく室内に響いていた。
マリナは人工呼吸器を付けられ、ベッドに横たわったままだった。

「ソラン…」

どうするつもりなのかと、ニールは問うた。
ただその疑問は、半分予想が付いていた。
ソランはマリナに視線を向けたまま答えた。

「社長に、頼んでみる」

そう、ソランが口にした途端、それまでニールの中にあった、ぼんやりとした不安が一気に形になった。
社長、と彼女が言ったのはニールのデザイン事務所の社長であるスメラギではない。
むしろ、いっそそうであればいいのにとさえ思った。

「ちょっと待てよ。そんなことしたら、この先どうなるかわかんねぇだろ」

ただでさえ母親の借金に追われている彼女が、さらに借金を頼むなど。しかも、その相手が所属事務所の
社長だなんて。
彼女の先の見えない未来に、さらに深く闇が覆いかぶさったような気がした。
終わりのない苦痛が、ソランを追い込んでいくように思えた。

「でも、それしかない。俺は未成年だし、金を借りるあてなんて他にない」

ソランの言葉に、ニールは口を噤む。
彼女の言うことは正しい。いくら状況が状況だからと言って、返済できるという保証のない相手に金を積む
ところなどないだろう。
結果的に事務所の社長に頭を下げるという手段しか、ソランには残されていないのだ。
ニールは、悔しかった。
大事なものはいつも手から零れ落ちてしまう。
彼女に自らその選択をさせてしまう自分の無力さが腹立たしかった。

このまま、黙って見ているしかないのだろうか。
何もせず、何も出来ず。
彼女が終わりのない苦痛を強いられるのを、ただ横で見ているしか―――


「アンタには、色々世話になった」

静かに、ソランがそう言う。急に、何を言い出すのだろう。
まるで、別れの言葉みたいに。
彼女は先ほどより幾分表情を和らげていた。それは、ニールを余計に不安にさせるのに十分だった。

「アンタが義姉さん見舞いに来てくれていなかったら、今頃どうなっていたかわからない。
だから、ありがとう」

"ありがとう"なんて。
躊躇いもなくそんな言葉を口にするような彼女ではなかったのに。

ソランは、受け入れているのだ。
これから彼女を待つ日々を。
逃げ出すことを許されない、その苦痛を。
まるで、享受するように。


「それじゃあ」と言って踵を返そうとしたソランの腕を、ニールは慌てて掴んだ。
このまま行かせてはいけない気がした。行ってしまえば、彼女は二度と自分の所に来ない気がした。

「待ってくれ。どこ行くんだ」
「…社長の所に。頼みに行って来る。出来るだけ、早い方がいい」
「駄目だそんなの。社長がどんな人かなんて俺は知らないけど、でも、すんなり貸してくれるなんて思えない。
もう少しゆっくり考えた方が、」

そう言った途端、ソランはニールが掴んでいた腕を荒々しく振りほどいた。

「…っなら、どうしろと!?何もしなければ義姉さんは助からない。このまま、何もせず黙って義姉さんが
死ぬのを見ていろというのか!?
…俺のせいなのに…。俺のせいで、義姉さんはこんなことになったのに…っ」

静かな集中治療室に、ソランの逆上した声が響いた。
最後の方は、絞り出すような声だった。
まただ。また彼女は「俺のせいだ」と言う。
一体、何が彼女をそこまで追い詰めているのだろう。

俯き、泣き出してしまいそうな表情をするソランを抱き締めようとニールは腕を回すが、彼女はそれを
拒絶するように払い落す。
だがニールは、それにひるむことなく再びソランを自分の胸に抱き込んだ。
今度は抵抗されないよう、強く強く。

「触るな…っ。もう、俺に構わないでくれ…!」
「ソラン…」
「いいんだ、俺なんて、もう…っ。もうどうなったって…っ」
「ソランっ」

彼女の言葉を遮るように、ニールは強い声で彼女の名前を呼ぶ。
腕の中でソランがびくりと肩を震わせた。
ぐ、と彼女の身体に回した腕の力を強めた。

「頼むから、そんなこと言わないでくれ」
医師から手術の話が出た時から、彼女の様子はおかしかった。
その眼には決意が伺えた。
自分を犠牲にしてでも、マリナを救い出すという、決意。
これまでだってそうだったのだろう。けれど、それとは比べようのない程、強い意志で。
まるで、自ら犠牲になりに行くようだった。それを、何の迷いもなく進んでしまっている。
犠牲になることを、喜びすらしているようにも見えた。

何が、彼女をそうさせるのかわからなかった。
ソランは、自分を責めていた。「俺のせいだ」と。
ニールには、その理由がわからない。
けれど、それが彼女の決意の原因だとしたら。
それはまるで、贖罪のような行動だった。
自分をそのまま差し出し罪を贖おうとする、そんな、生贄にも等しい行動だった。

ニールは、そんな彼女は見たくなかった。
自分勝手な理由だ。自ら苦しみを選ぶ、そんな彼女を自分が見たくないだけだ。
けれど、嫌だった。
どんな理由でも。何が原因でも。目の前でソランが苦しむのは、もう見たくはなかった。

「嫌なんだ。これ以上、お前が傷付くのは。
だから頼むから、どうでもいいなんて言わないでくれ。
ちゃんと、自分のこと大事にしてくれ」

腕の中のソランは、何も抵抗しなかった。
ただその代わり、すがるみたいに、ニールの服をぎゅ、と握った。

「だが…これしかないんだ…っ。もう、これしか、義姉さんを助ける方法が見つからない…っ」

その声も身体も、震えていた。
彼女の細い身体は、いつもよりさらに小さく頼りないものに思えた。
ニールは、腕の力を強めソランをしっかり抱き締めた。
そうしないと、彼女が崩れてしまうような気がした。
方法が、ないわけではなかった。
医師が手術費を提示した時から、ずっと頭の片隅にあったことだ。
ずっと口には出来なかった。果たして、それは許されることだろうかと、ずっと悩んでいた。
けれど、ニールの中にもう迷いはなかった。
腕の中で震える彼女を抱き締め、決意を固める。

ニールはソランの身体をゆっくりと離し、しっかりと視線を合わせた。

「一週間…いや、三日でいい。三日だけ、そっちの社長に連絡するのを待ってくれ」
「…?アンタ、何を…」
「頼む、約束してくれ。三日、待ってくれ」

ニールの有無を言わさない言葉に、ソランは戸惑いながらも、ただ黙って頷くしかないようだった。
約束を取り付け、ニールは顔を少し緩める。
病院を後にしたニールは、すぐさま携帯電話を開いた。
まず相手が簡単に出てくれるとは限らない。
そして会ってくれるかもわからない。
何せここ数年、自分の方からの一方通行な連絡だけで、向こうからはロクに音沙汰がない。


それでも、決めたのだ。
もう、彼女が泣かなくてもいいように。
たった独りで色々なものを背負わなくても済むように。
だから、簡単になんて諦めるわけにはいかない。
12.03.17


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医療費云々治療費云々でもごもごまごまごしました…。うぅ、難しい…。
大目に見てくださるとうれしいです…。