「幸せに、するから。だから刹那、俺と、家族になって下さい」 真っ直ぐに眼を見て紡がれる言葉に偽りなどなかった。 だから答えなどもう出ていた。 差し出された指輪を受け取った。 この時はただお互い、先に待っているだろう幸せしか見えていなかった 四葉のクローバーを探しに 「社長と会長が?」 ニールの問いに、刹那はただ小さくこくりと頷いた。 「お前に会いたいと言っている。俺が言ったんだ。結婚したい相手がいると。 そうしたら、連れて来い、と」 テーブルを挟んで向かい合わせに座るニールを見て、刹那はそう言った。 話の内容が内容だけに、ニールは刹那が丹精込めて作ったアイリッシュシチューを食べる手を止めた。 「そうだよな。お前さんと結婚するんだから、ちゃんと挨拶行かないとだもんな」 「…何か変なことを言われたら、すまない」 そう言って表情に少し影を落とした刹那に、ニールはフ、と小さく笑った。 「違うよ、ごめんな。そういう意味じゃない。ただ認めてもらうために、がんばらないとなって意味」 ニールは腕を伸ばして、刹那の癖のある黒髪を優しく撫でた。 そうすると、刹那は少しだけ和らいだ表情を見せた。 「刹那こそ、いいのか?」 「何がだ?」 「俺は刹那と結婚したいよ。でもそれは、シュヘンベルグの家の婿になるってことじゃない。 刹那が、俺のお嫁さんになってほしいってこと。俺は、残念だけど次期社長になんかなれる器じゃねぇし…」 ニールがそう言うと、刹那はふるふると首を横に振った。 「そんなの、構わない。俺は次期社長になる人間と一緒になりたいんじゃない。 お前とだから、一緒になりたいと思ったんだ」 「うん」 ニールが短くそう返事をした。 刹那は顔を上げて、ニールの顔を見た。その顔はとても優しいものだった。 「じゃあ、よかった。それ聞いて、安心した。 大丈夫だよ刹那。会長だって社長だって人間だ。きっと話せば、わかってくれる」 そう言って笑うニールの顔に、刹那はただ安堵に似たものを感じた。 この男の言う通り、きっと大丈夫だと、ただそう、絆されていた。 刹那とニールが初めて出会ったのは、二年程前だ。 ニールの勤める総合エレクトロニクスメーカー・ソレスタルビーイングは、現会長であるイオリア・シュヘンベルグが一代で 売上高二兆円にまで成長させた大企業で、その手腕は世界が注目するほどだった。 ニールはそこの営業部に所属していた。 彼が会長の息子である社長のゴルフ接待をした時、一緒に訪れていた一人娘と出会った。 それが刹那だった。 刹那はニールの中の社長令嬢というイメージをことごとく崩した。 柔らかな物腰などではなく、何にも媚びず、決してお嬢様らしい振る舞いもせず。 けれどただ黙っているのではなく、視野を広く持ち自分の役割を理解し、時と場合に応じそれ相応に行動する。 ニールは刹那という人物像全てに惹かれた。 その後何度か会い、仲を深めて、ニールは刹那と恋人同士になった。 ニールはただ単純に、刹那という一人の女性に惹かれたのだ。 彼から言わせれば、社長令嬢という彼女の肩書きは、ただのおまけにしかすぎなかった。 「ニール…口、開いている」 隣に立つ刹那の声で、ニールはようやく自分が呆けていたことに気付き、慌ててその顔を直した。 だが無理もなかった。 ニールの目の前には、彼の普段の生活では全く縁のない、五つ星レベルのレストランがあった。 外装の重厚な、それでいて細やかな造りが既にそれを物語っている。 会長と社長が招待してくれたそこは、資産家や要人クラスの人間でなければ手が出せない場だ。 ニールは、改めて自分の勤めている会社のトップのすごさを目の当たりにした気がした。 「…大丈夫、か?」 心配そうに、刹那がニールの顔を覗いた。 刹那は今日の為に黒のシックな、それでいてどこか高級感のあるワンピースを着ていた。 普段あまり見せない女性らしい服装は、刹那の魅力を上手く引き出していた。 だがそのことを口に出来る余裕すらも、今のニールにはなかった。 「だ、大丈夫大丈夫っ。いやさすがだなと思ってさ!」 わざとらしく明るく振舞うニールに、刹那は表情を曇らせたままだった。 しばらく席で待っていれば、会長と社長が揃って顔を出した。 その時にはニールの緊張はピークだった。 きちんとした席に全く縁がなかったわけでもない。ここまで行かずとも、それなりのものだったら、 会社の付き合いでいくつか場数を踏んでいた。 けれど、今のニールに過去の経験は全く生きて来なかった。 視線をちらりと動かしただけで目に入る、店内に飾られた鮮やかな美術品。 店内の雰囲気に溶け込んだ他の客。 見た目だけで値が張るとわかる料理。 それら全てがニールには張り詰めたものに感じた。飲まれてしまったのだ、この場の空気に。 普段は出来ているはずのテーブルマナーも、そのせいでまともにこなすことが出来なかった。 何か一つミスをするたびに、会長や社長の視線が落胆の色を濃くしたような気がしてならなかった。 それが余計にニールの身体を固くさせた。 メインディッシュが運ばれ食べる中、ちらりと、ニールは隣に座る刹那を盗み見た。 彼女は何の淀みも躊躇いもなく、スムーズに料理を口に運んでいた。 その動きはとてもきれいだった。 背筋を伸ばし椅子に座り、店の雰囲気に寸分の狂いもなく溶け込む彼女は、ニールが普段接している刹那とは 違う存在に見えてしまった。 ニールはそれで、改めて彼女がどういう存在かを思い知った。 彼女が持つ、社長令嬢という肩書き。 ニールにとってそれは刹那という存在のおまけでしかないと思っていた。 けれど、違うのだ。 彼女が背負っているものは自分が想像していたよりも遥かに大きい。 彼女自身がそれを望んでいないことはよく知っている。 それでも、望むと望まざるに関わらず人は何かを背負う。 刹那が社長令嬢であり、シュヘンベルグという大きな家の跡取りである事実には変わりないのだ。 それは紛れもない、ニールと刹那との間の明確な距離だった。 ニールはわかっているつもりだった。けれど実際は、ニールの想像を遥かに超えるものだったのだ。 あまりに違った。 ニールと刹那では、あまりにも立っている位置が違ったのだ。 ニールは今日それを、目の当たりにしてしまった。 会食が終わり、会長と社長を見送った後、二人は無言で帰り道を歩いた。 「…ごめん、な」 ぽつりと、ニールから零れ落ちたような言葉を刹那は拾って、顔を上げた。 「…なんか全然、ダメで、さ…。こんなつもりじゃ、なかったんだけど…」 刹那はふるふると首を横に振った。 「気にしていない。あんな場を選んだ父が悪い。次はもっと気軽なところにするよう、俺から言うから」 「ごめんな、ホント。…でもあれじゃあ、呆れただろうな、会長も社長も」 「まだ最初だ。そんなに気にすることはない」 刹那の慰めの言葉は嬉しかった。けれど、ニールはますます自分が情けなくなった。 あの空気に呑まれるばかりで、刹那がどれだけ大事かすらも、上手く伝えることが出来なかったのだ。 あれでは会長も社長も落胆したことだろう。 「次、なんて考えるよりも、刹那にはもっと、いい人いるのかもな…」 言ってから、ニールは我に返った。 慌てて口を閉じるように手を持っていったが、何もかも手遅れだった。 刹那の纏った空気が、凍り付いた気がした。 「…っごめ、」 「そうか」 冷淡に、刹那がそう言った。 「だったらもういい。今まで付き合わせて、悪かった」 突き放すようなその言葉は、ニールの胸をぐさりと刺した。 慌てて、踵を返した刹那の腕を掴んだ。 「ごめん悪かった…っ俺、そんなつもりじゃ…!」 「離せ!!」 刹那は力の限りでニールの腕を振り払った。 ニールは彼女の叫びにも似た声とその行動に、ただ息を呑むしかなかった。 「お前は、他の男とは違うと思っていた。でも、結局同じだ…っ。結局そうやって、傍目でしか判断しないっ!」 泣き出しそうなくらい顔を歪めて、刹那は駆けて行った。 しばらくしてようやく我に返ったニールが追いかけようとしたが、既に刹那はタクシーを拾って手の届かない ところへ行ってしまった。 追おうと思えば自分もタクシーを拾って行くことが出来た。 けれどニールはそうしなかった。 思わず口から零れた言葉は、紛れもない、本心だったからだ。 自分と結婚するよりも、もっと別の幸せが彼女にはあるのではないか。 自分なんかが、彼女の背負うものを捨てさせていいのか。 そう一瞬でも、思ってしまったのだ。 彼女が背負っているものは、ごく普通のサラリーマンの自分にはあまりに重過ぎる。 それを見せ付けられて、ニールはそこから動くことが出来なかった。 嬉しかったのだ。 ニール・ディランディという男が、傍にいてくれて。 刹那がシュヘンベルグの人間になってから十年。 その間に出会った人間のほとんどが、シュヘンベルグという大きな名前に媚を売ったり敬遠したりだった。 誰も刹那という人間をまともに相手にしようとしなかった。 それだけで刹那は自分の背負ったものの重さを感じた。 家の人間であることの責任。 後を継ぐという責任。 その全てが刹那に重く圧し掛かった。 母の再婚相手が、たまたまシュヘンベルグの後継であったばかりに、だ。 シュヘンベルグの人間になってから刹那を取り巻く生活は一変した。 しきたり、テーブルマナー、挨拶の仕方まで、それまでの生活とは全く縁遠いそれに、刹那は慣れず、しばらく 息の詰まるような感覚を覚えていた。 ただ、刹那が母に対して恨んだりという感情を持ったことはなかった。 愛を育んだ相手がたまたま大きな家の人間だっただけだ。 母が病に倒れてこの世を去ってからも、祖父と父となった人間は決して刹那を見捨てようとはしなかった。 そのことに感謝はしている。今はもう刹那にとって祖父と父は大事な人だ。 けれど、所詮自分は他所から来た人間に他ならない。 その人間が、シュヘンベルグの令嬢だと持て囃され家の全てを背負わされる。 大企業の後継となるに相応しい相手を伴侶とする。 刹那はそれを重いと感じていた。 だが祖父や父に対する恩もある。そしてそれが自分の通るべき道筋なのだと、諦めに似た感情を持っていた。 けれど、刹那を刹那として、一人の人間として接して付き合ってくれたニールに出会った時、刹那は初めてその道筋に 背きたいと思った。 自分の背負っているものを全部捨てて、そして何も通さず真っ直ぐに自分だけを見てくれる彼と一緒にいたいと思った。 自分勝手なのは充分承知している。 けれど一度出た欲を再び胸に閉じ込めることは、刹那にはもう出来なかった。 「社長令嬢なんてただのおまけだろ?」と、そう言って笑ってくれた彼と、一緒に歩こうと決めた。 だがもう、全部お仕舞いだ。 ニールの一言は刹那の胸を突き刺した。 彼が本気で他の人間と同じように刹那を傍目でしか見なかったことぐらいわかる。 でも、現実を目の当たりにしても、ニールはいつも通り笑ってくれると信じたかった。 刹那が背負ってしまっているものを重いと、そうニールが感じてしまったなら、これ以上彼に一緒に背負えというのは あまりに酷な話だ。 そんなのは、一緒にいてもつらいだけだ。 刹那はうつ伏せていたベッドから起き上がり、机の上に置かれた小さな箱を手に取った。 それを開けば、先日ニールが手渡してくれた指輪があった。 これももう、返さなくてはいけない。 水面下で、若いが才能も実績もある優秀な社員との縁談が秘かに進められているのを、刹那は知っていた。 彼が自分の伴侶となり、家と会社を一緒に継いで行くのだ。 現実に帰るしかないのだ。 あまりに幸せすぎた夢だったのだ。 刹那は箱を閉じ、再びそれを机の上に置いてそして、踵を返した。 祖父と父にニールとの結婚がなくなったことと、この家を継ぐ決意をしたことを告げにいくのだ。 指輪の入った小箱の方を、刹那は一度も振り返らなかった。 会食の日から、一週間が経とうとしていた。 ニールはその間幾度となく刹那に連絡を取ったが、それが繋がることは一度もなかった。 だが連絡を取ろうとするニールの胸には大きなしこりが残ったままだった。 会って、それで何て言う? 考え直した、やっぱり刹那は刹那だ、か? だが刹那の背負っているものを目の当たりにした今のニールにとっては、そんな言葉綺麗事にしか思えなかった。 仕事を終え、会社のエントランスを歩くニールの目に、見慣れた人物が映った。 相手はニールの姿をしっかりと捉えている。ニールに用があるのは明白だ。 ニールはまた少しだけ、胸のしこりが大きくなったような気がした。 場所を移し、二人は会社の近くのカフェに入った。 「久しぶりだな、フェルト」 「うん、久しぶり」 フェルトは刹那の友人だ。 とても刹那を大切に想っていて、ニールと刹那が付き合いを始めた最初の頃は、ニールが資産目当てではないかと しばらく疑いの目を持っていた。 今ではその疑いは晴れて、二人の将来を一番に祝福してくれる相手となった。 「…聞いた、刹那から」 ぽつりと、フェルトが言う。 ニールは表情に暗い影を落とした。フェルトが自分を尋ねて来た時点で話の内容は予想出来ていた。 「諦めちゃうの?ニールは」 真っ直ぐなフェルトの目が、ニールには痛かった。 無意識に視線を下げたのは、ニールの中の後ろめたさからだ。 「諦めるっていうか…俺に、刹那と一緒になる権利がほんとにあるのかって、思ってさ…。 わかってるつもりだったんだよ。刹那がどんだけすごい家の人間かってことは。 …でも実際は、全然わかってなかった…」 刹那自身がシュヘンベルグの家の人間になり切れず苦悩していることは充分理解している。 何もせずに黙ってシュヘンベルグの跡取りとなって、必然的に次期社長となる男と一緒になって苦しんだままの生活を 強いるより、自分の元で幸せになってほしかった。 けれど、本当にそれでいいのだろうか。 こんな、彼女の家の大きさを目の当たりにして萎縮してしまうような人間に、果たして彼女の全てを捨てさせる価値が あるのだろうか。 「…刹那はね、」 落ち着いた、しっかりとしたフェルトの声に、ニールはゆるゆると顔を上げた。 フェルトの眼は、別段ニールを責め立てるような雰囲気は滲んではいなかった。 それが少しだけ、ニールを安心させた。 「ニールの眼が好きだって、言ってたの」 とても穏やかに、まるでその時のことを思い出しているかのようにフェルトが言う。 「眼?」とニールが反芻すれば、フェルトはこくりと頷いた。 「ニールは、ちゃんとその眼に自分を映してくれるからって。 シュヘンベルグの家のことも会社のことも全部置き去りにして、ただ一人の人間として自分を見てくれるから、好きだって。 刹那はそう、嬉しそうに言ってたの」 「…それは、俺が何もわかってなかったから…」 フェルトはニールの言葉を否定するように、ふるふると首を横に振った。 「刹那にはニールがいてよかったの。何もわかってなくても、刹那はそんなこと気にしなかった。 刹那には、ニールが必要だったの」 ニールは何も返さず、ただフェルトの言葉を待った。 じんわりと、フェルトの言葉はニールの胸に染み込んでいった。 「お金も、立派な肩書きも、刹那にはいらないの。 刹那には、ただ隣で刹那のことを見て大事に想ってくれてる人の方がよっぽど必要なの。 それは、ニールにしかあげられないんだよ」 小さく口角を上げて、それでも彼女にとっては精一杯の笑顔を浮かべる刹那の姿が頭を過ぎった。 彼女のあの笑顔を守れるのが、自分だとしたら。 金も権力もない自分を、本当に必要だと思ってくれるなら。 「こんな、平社員でも…?」 「うん」 「金も権力も、何もなくても?」 「うん」 ぐ、とニールは自身の手を握り締めた。 「刹那に色んなもん捨てさせるのが、俺でいいと思うか…?」 「ニールでなきゃ駄目。刹那に色んなもの捨てさせるのは、ニールでなきゃ、駄目なんだよ」 フェルトにお礼を言うが早いか、弾かれたようにニールは席から立ち上がって店を出た。 もうニールの胸の中にしこりはなかった。 ただただ真っ直ぐ、溢れるような感情を伝える為に駆けた。 珍しく祖父も父も揃って夕食を取り、リビングで寛いでいた時だ。 メイドが慌てた様子でリビングに顔を出し、その口から「ニール・ディランディという方が見えている」と いう言葉を聞いて、刹那は驚きを隠せなかった。 だが彼女が腰を掛けているソファから立ち上がることはなかった。 どうしても、一週間前の会食の時の出来事が頭を過ぎってしまい、刹那を躊躇わせた。 そんな刹那の迷いを知ってか知らずか、口を開いたのは祖父であるイオリアだった。 「入ってもらいなさい」と、静かにメイドに告げた。 それに驚いたのは刹那だった。 「爺様…!?」 あわよくば会わずに帰ってもらおうとすら思っていた刹那の意志とは裏腹の祖父の言葉に、刹那は疑心の目すら向けた。 イオリアは静かにそれを受け流した。 「何か用事があるんだろう、こんな夜遅くにわざわざ来ているのだから。門前払いは失礼だろう、刹那」 祖父の正当な言葉に、刹那は小さく唇を噛んだ。 ニールが案内されたリビングでは、三人がソファに座って待っていた。 刹那がこちらを見向きもしないことにニールは小さく胸を痛めた。 だが、ニールの気持ちがそれで揺らぐことはなかった。 「こんな夜遅くに、申し訳ありません」 深く頭を下げて、ニールはしっかりとした声でそう言った。 「今日は、何の用かね?」 イオリアが静かにそう尋ねれば、ニールは顔を上げた。 視線を逸らすことなく、真っ直ぐに三人を見た。 「刹那さんとの結婚を許して頂きたくて、来ました」 ニールのその言葉に、全員が驚いていた。 中でもやはり、刹那が一番驚いていた。 前回が前回だ。まさかそんな風に言ってくるなんて思いもしなかったのだ。 驚きつつも冷静に返したのは、イオリアだった。 「…刹那からは、君との結婚がなくなったと、そう聞いているが?」 今度はニールが小さく衝撃を受ける番だった。大方予想出来ていたとは言え、やはりニールの胸には波風が立った。 刹那の方に視線をやった。だが彼女は相変わらず、自分の方を見ようともしなかった。 そのことにツキリと胸が痛んだが、ニールは一度深く深呼吸をした。少し荒立った気持ちは、それでだいぶ落ち着いた。 自分の抱く気持ち全てを伝えるという、ニールの決意は、もう何にも動かなかった。 「…俺は、普通の人間です」 ぽつりと落とされた言葉に、三人はその意図が掴めず眉を顰めた。 ニールは構わず続けた。 「彼女の背負っているものを理解した途端に萎縮して、自信を失くすような、最低な、普通の、人間です。 でも、もう迷ったりなんかしません。 こんな普通の俺でも、誰かを支えるチャンスを彼女はくれました。それを、無駄にさせたくはありません。 俺の傍にいてくれたことを、もう後悔させたくないんです」 ニールが口を閉ざせば、沈黙が訪れた。不思議と、張り詰めたものがどこにもない沈黙だった。 ニールは再び頭を深く深く下げた。 「お願いします。俺にもう一度だけ、チャンスを下さい」 ニールが頭を下げてほんの少し経ってから、すっと、刹那が立ち上がった。 そして、ニールの隣に立って、彼と同じように、頭を下げた。 「お願いします。彼との結婚を、どうか許して下さい」 刹那のその行動と言葉に、ニールはただ目を丸めた。 そんな彼の顔を刹那はちらりと見て、そして目を細めた。 なんて馬鹿な男だろう、と刹那は思った。 こんな夜遅くに自分の会社のトップの家を訪れて、それで一人娘との結婚を許してもらいに来るなんて。 けれど彼の口から出る言葉は、刹那の心に確かに響いた。 刹那も、もう一度信じようと思った。 真っ直ぐに偽りのない言葉を紡いで、馬鹿みたいに真正面からぶつかって来るニールのことを、信じようと思った。 「刹那、お前が背負っているものはそんな簡単に捨てられるものではないんだぞ」 そう言ったのは刹那の父だった。刹那の行動に、眉を顰めていた。 刹那は下げていた頭を上げて、視線を真っ直ぐに父に向けた。 赤褐色の瞳に迷いはなかった。 「自分勝手なのは充分よくわかっています。 けれどそれでも、手離したくないんです。彼と一緒に生きることを、許して下さい」 刹那はそう言って、再び頭を下げた。 背負っているものの大きさは嫌というほど理解していたし、それを捨てることで犠牲が出ることもわかっている。 あまりに自己中心的で、周りを省みない行動だ。 それでも刹那は望みたかった。 初めて刹那を刹那として見て、そして大切だと言ってくれる男と歩んでいくことを、望みたかった。 そっと、ニールの手が刹那のそれに添えられた。 刹那がニールを見れば、ニールはとても穏やかな顔をしていた。刹那は安堵すら覚えた。 温かなその手を握り、「お願いします」と、二人で声を揃えて言った。 しばらく訪れた沈黙を破ったのは、イオリアだった。 「ディランディ君。本意ではないとは言え君は一度刹那を裏切った。 君が会社での成績も優秀で人望もあり、優れた社員だと知っていたから、私はとても残念に思った」 イオリアの言葉が、ニールの胸にずしりと鉛を入れた。 ニールも社会人の一人だ。 それまで築き上げた信頼が一度崩れ去ってしまっては、修復は難しいということは身に染みている。 刹那の手を握る力が、知らず知らずのうちに強くなっていた。 「君は私達の大切な存在を傷付けた。そのことで私は君に失望した。…わかるね?」 「……はい」 なんとか絞り出すように、ニールが弱々しく返事をした。 イオリアの言葉が、自身の言葉の軽率さを物語っていた。自身の愚かさを、ただ後悔した。 「だから時間を掛けて、その信頼を回復してほしい。 私達に、君のその言葉が嘘でなかったことを、証明してほしい」 先ほどよりもほんの少しだけ柔らかな口調で紡がれたその言葉に、ニールも刹那も揃って顔を上げた。 二人とも、同じように目を丸めてイオリアに視線を向けていた。 それを解すように、ふ、とイオリアが小さく笑った。 「結婚を、認めよう」 ニールと刹那はゆるゆるとお互いに視線を合わせた。 そうしてイオリアの言葉の意味を理解すると、目を細めて、幸せそうに笑った。 「父さん、それでは…!」 イオリアの判断に、刹那の父は異を唱えた。 イオリアは緩く笑ったままその反論を抑えた。 「心配ない。他の人間の手に渡った途端に潰れるような会社なら、とっくに駄目になっている。 うちには優秀な社員が大勢いる。お前もわかるだろう?」 イオリアのその言葉に、刹那の父も納得せざるを得なかった。それ以上の言葉は閉ざした。 ニールと刹那は、再びイオリアの方を向き直った。 お互いの手を握ったまま、頭を下げた。 「ありがとう、ございます」 心からの言葉を、口にした。 六月のよく晴れた日に、二人は共に歩んでいくことを誓い合った。 どんなことが起ころうともどんなに苦しくとも、繋いだ手を離さないことを、約束した。 (さぁ出掛けましょう、四葉のクローバーを探しに、) 10.01.20 ――――――――― 遠藤さんお待たせしましたぁぁっ!(ジャンピング土下座 書き始めたら楽しくなっちゃってこんなに長くなってしまいました…。 わたしの中で、刹那が生粋のお嬢様、というのがしっくり来なかったので、勝手に連れ子という設定にしてしまいました。 しかも、結婚話というリクエストだったのに結局結婚したの最後の最後、という…。 期待したものと違ったら大変にすみません…っ。 ちなみに刹那との縁談があった話は言わずもがなグラハムさんです。笑。 とても楽しく書かせていただきました!遠藤さん、リクエスト本当にありがとうございましたv |