ほんとのこと言いたい
でもそんなこと、出来るわけない
建前と本音で創られたこの関係
自分の気持ちに気付いてからというもの、俺は刹那とは一切会おうとはしなかった。
約束の木曜日には、忙しいとか先約があるとか、そんな嘘を吐き続けた。
嘘を吐くことに後ろめたさはもちろんあった。
けれどそれ以上に、刹那に会うのが嫌だった。

怖いんだ。
もう刹那が知っている自分ではないこと。
上司の言いなりになってよく知りもしない男に抱かれたこと。

そして、俺が刹那を好きなこと。

その何もかもを刹那に知られることが、怖くてたまらないんだ。
知られて、もし刹那が引いてしまったら。
あの黙って受け止めてくれていた優しさが、突然冷めてしまったら。
そう思うと、動くことなんて出来なかった。

そして何より怖いのは、刹那のあの、「好きな人がいる」と言ったときの優しい顔を見ること。
俺じゃない他の女の子を想ってあんな風に笑うのを、平気で受け入れる自信なんて微塵もない。

刹那にはきっと真っ白で可愛くてふわふわして、守ってやりたくなるような女の子が似合う。
俺とはきっと、正反対の。
「ディランディ君、先日の取引先の重役がまた君と会いたいと仰っている。今日は構わないね?」

社長室に呼び出されて、一級品の革張りの椅子に腰掛けた社長にそう言われる。
この間の重役とは、言うまでもなく望んでもいないのに裸のお付き合いをしてしまった、あのおっさんのことだ。

「何か都合でも悪いのかね?」

返事をするのに間が空いて、急かすように社長が尋ねてくる。
頭を過ぎっていたのは、刹那から来ていたメールだった。
今日はだって、木曜日だ。

「…いいえ、何も。喜んで行かせて頂きます」

その考えを振り切るように、笑ってそう答えた。
駅前に店を構える静かな雰囲気のバーで重役のおっさんと酒を飲み交わした。
時々太ももや腰に添えられる手に嫌悪感を感じながらも、頭では別のことを考えていた。
どうしても、刹那のことが頭を離れなかった。
もしかしたら、逆にこうしておっさんと二人会って、気持ち悪い手に触れられているからかもしれない。

こんな風にされてる自分を見たら、彼はどう思うだろう。
呆れるだろうか。嫌うだろうか。

そんな考えが頭を巡り巡って、おっさんの話なんか、困らない程度に相槌を打つ程度で、ほとんどその内容なんか
頭に入っていなかった。
バーを出てから重役のおっさんはずっと俺の腰に手を添えて歩いていた。
その行動が、まるで逃げ場がないと言われているようで、ただ嫌悪が募った。
だって、歩を進めているのはラブホ街への道のりだ。
夜の輝くネオンが憎らしい。こんなもの、全部一瞬で消えてしまえばいいのに。

「お疲れさまでした」

騒がしい夜の街で、どうしてその声を拾ってしまったのだろう。

耳にひどく心地よく響いたその声は、紛れもなく、焦がれに焦がれた人間のもので。
振り返れば、そこには一件の居酒屋から出てきた刹那がいた。
知らなかった。刹那のバイト先が、ここにあるなんて。
彼が目の前にいる現実を受け止めるまで時間がかかって、逃げ出すことも出来なかった。
気付いた時にはもう、赤褐色の瞳はこちらを向いていた。
その目はひどく驚いたように見開いている。俺が、させてる。
だって今の俺は中年のおっさんに腰に手を添えられながら、今まさにラブホ街に向かおうとしている
ところなのだから。

「ディランディさん、どうかしましたか?」

酒臭さの漂う重役のその声で、ようやく我に返った。
けど、どうにも出来ない状況は変わらない。
刹那の眼をこれ以上見たくなくて、振り返った先はラブホ街。
なんて滑稽なんだろう。
おっさんに抱かれながら感じてるフリをして、ただただ現実に泣いた。

刹那とのたった一回きりのセックス。
あれ、覚えてればよかったな。
覚えて、いたかったな。
次の木曜から、刹那からの連絡は一切来なくなった。
当然と言えば、当然だ。
だって、散々刹那に愚痴を飛ばして来たにも関わらず、自分の意志ではないとは言えホテルに入るところを
見られたのだ。
誤解だと言っても、今は全てが言い訳に聞こえるような気がしてならなくて、俺から連絡なんか出来なかった。
嗤うしかない。
呆れたろうな。もう、関わろう何て思わないだろうな。


「社長、部長から預かった資料です」

どういうわけだか部長から届けるよう言い渡された分厚い資料を、社長に差し出した。
自分で行けよ、あのメタボ。

刹那から連絡が来なくなってから一週間が過ぎた。
昨日の木曜日も、その例外からは外れない。
鳴らない携帯電話を持ち歩くのがきつくて、最近じゃずっと鞄の中でお留守番だ。

「ところでディランディ君。今晩は暇かね?」

あぁ、なるほど。そういうことか。
部長と社長の思惑がその一言に集約されていて、心の中で嗤った。
重役のおっさんの次は、アンタの相手かよ。

刹那の顔が頭を過ぎった。
でももう、何もないんだ。
俺にはもう、失くすものなんて、何もないんだ。
取り繕う必要なんて、何もないんだ。
だったらもう、何でもいい。
どうにだって、なればいい。

「えぇ、空いてます」

スマイルゼロ円のハンバーガーショップのレジに立ったら、きっと行列もんだな、俺。
会社の入り口の前に停められた黒塗りの高級車。
厭らしいことこの上ない。
でもこれに乗り込もうとしている俺は、もっと厭らしい。
先に車内に入った社長が乗車を促すようにこちらに視線を送った。
これに乗ったら最後、もう俺に残るものなんて何もない。
希望も。プライドも。そして、ただ純粋に刹那を好きでいられる気持ちも。
全部、さよならだ。


車に乗ろうとした俺の腕を強い力で引かれ、その瞬間に目に飛び込んだのは、強い強い赤褐色だった。

「せ…っ」

周りの空気なんか全部無視して、俺の腕を引いたまま刹那はどんどん歩いて行った。
遠くの方で社長が何か声を荒げていたのが聞こえたけれど、そんな場合じゃあなかった。
何度名前を呼んでも止まろうとしてみても、刹那はどんどん歩いて行った。
その間一度も俺の方は振り向かなかった。
刹那の歩くスピードは速かった。それでいて、力強かった。
だから付いて行くのがやっとだった。


「…っつな、刹那…っ!ちょっと…待ってくれって!…っ刹那!」

まるで聞こえてないみたいにどんどん前に進むから、声を張り上げて呼べばようやく刹那はその歩を止めた。
もうずいぶん歩いた。
会社なんか見えなくなるくらい歩いた。
歩くのを止めた刹那は、ほとんど同時に掴んでいた俺の腕から手を離した。
刹那の手が離れた瞬間に、心に穴が空いたような気すらしてしまった。
俺の方に向けた刹那のつま先ばかりに視線を向けた。
顔は上げられなかった。
後ろめたさばかりが胸を侵食して、刹那の眼なんか見れなかった。
失くすものが何もないなんて思いながら、まだこうやって失くすことを怖がっていることを、少し滑稽だとも思った。


「ああいうのがいいのか」

低く、それでいてはっきりと刹那の声が鼓膜を震わした。
けれど、意味がわからなかった。
思わず顔を上げると、刹那は思ったよりも険しい顔はしていなかった。

「ああいうのが、よかったか」
「…っちが…!」

言葉の意味はわかった。
この間重役のおっさんと一緒にいたのと、今日の社長のことを指しているんだということは。
反射的に否定をしてしまったけれど、刹那がどういう意図でそれを言ったのかはやっぱりわからなかった。


「…俺は、お前が愛想を尽かしたのかと思った」

その意味を理解するのにまた少し時間がかかって、それからぶんぶんと否定の意味合いで首を横に振った。
そんなの、俺が言うことなのに。
刹那が何を考えているのかわからなかった。
けれど、俺自身は溢れるような気持ちをそれ以上抑えることは出来なかった。

「違う…っ。俺…俺は、怖かった…っ。刹那に隠してること、全部知られて、それで嫌われるのが、怖くて…っ。
…っ俺、取引先の会社のおっさんに抱かれた…っ。あといっぱい、上司とかから触られたり、とか…!
刹那が考えてるような俺じゃ、ない気がして…っ怖くて、言えなかった…っ。
…っこんなんで、刹那と一緒になんかいられないって、思った…っ」

言葉と一緒に、涙がぼろぼろぼろぼろこぼれて止まらなかった。
それを止める方法なんて、今の俺には持ってなかった。
止められなかった。

「…っこんなんじゃ、刹那のこと好きでいられないと思った…っ」

あぁ、言った。
これでもう本当に、全部終わりだ。
でも不思議と今は後悔なんてなかった。
そんなこと感じてる暇なんてなかっただけかもしれない。
ただ気持ちと一緒に溢れた涙を止めようとするのに、必死になった。

刹那は何も言わなかった。
きっと、どんな風に断るべきかと考えているんだろう。

少ししてから、俺の頬に流れた涙を掬うように刹那が手を伸ばして触れて来た。
困ってるよな、こんな風に大泣きして。
暴露して告白して号泣なんて、最低な29歳だよ。

「…俺も、全部知られたからお前が愛想を尽かしたのかと思っていた」

落ち着いたその声はひどく真っ直ぐに耳に届いた。
さっきと同じような言葉。そこに少しだけ付け足されて。
やっぱりその意味がわからなくて、涙でぐしゃぐしゃであろう顔を思わず上げた。

「刹那…?」
「俺が思っていたことを、お前に全部知られたのかと、そう思っていた」

刹那は言葉を増やしてそう言った。
でもやっぱりわからなくて、刹那の言葉を待った。

「あの日お前の家の前で会うずっと前から、お前のことを見て来た。仕事に妥協しない、真っ直ぐな姿に惹かれた。
近付きたいと思ったが、どうしたらいいかわからなかったからライルに相談した」

刹那の言葉にただ信じられないという気持ちが湧いたが、一緒に住んでる双子の弟の名前が出てきて、そこに驚いた。
じゃあ何だ。ライルは最初っから、全部知ってたのか。
刹那の気持ちも。俺の気持ちも。
俺が困惑しているのがわかったのか、刹那は小さく笑った。

「ライルは何も悪くない。俺が勝手に相談をしたんだ」

刹那はそう言ったけれど、家に帰ったら絶対にライルをこってり絞ってやろうと心に決めた。

「…お前に近付けた時は、嬉しかった。
何の隔たりもなく俺を信頼して話をしてくれるのが、とても嬉しかった。
けれどお前にとっての俺は『八歳下のいい奴』でしかないと思ったから…その人間が打算的だと知って、それで
嫌気が差してしまったんだと思っていた」

刹那の言葉はとても丁寧で、とても心地よく俺の鼓膜を震わせた。
嬉しいと思う反面、これは都合のいい夢なんじゃないかと思った。
だって、刹那がそんな風に俺に対して、想ってくれてたなんて。

「…っだって刹那、好きな人いるって…っ」

再び流れた涙にしゃくり上げながらそう言うと、刹那は一瞬だけ目を丸めて、それから小さく笑った。

「俺は、好きでもない相手の愚痴を聞けるほど人間が出来てない。
お前の話だから、聞きたいと思ったし、役にも立ちたいと思った」

刹那の言葉全部が、真っ直ぐに真っ直ぐに俺に届いてくる。
俺も、伝えたいと思った。
返さなきゃいけないって、思った。

「…俺も、嬉しかった…。刹那が話、聞いてくれて…何にも文句言わないで、黙って聞いてくれて…。
刹那がそうやって話聞いてくれたから、仕事だって、頑張ろうって、思った…。
…っ刹那が、いてくれたから…っ」

そこまで紡いだ言葉は後には続かなかった。
途切らせたのが刹那の唇だとわかるまでに、少し時間が掛かった。

「好きだ、ニール」

離れた唇で、刹那が短く、そう言った。
涙が止まらなかった。
嬉しさが、ただただ胸から込み上げた。

刹那が、優しい顔してるんだ。
「好きな人がいる」って言った時と同じ、優しい顔。
俺に向けて、してくれてるんだ。

「…っ俺も、好き…っ」


抱きしめてくれる刹那の腕に、ただただもう、何も怖くないって、思ったんだ。
ニール・ディランディ29歳。
ほんと、人生何があるかわからないと実感しました。
09.12.31


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刹ニル別verのニール救済話でした。
しろくまさま、大変にお待たせして申し訳ありませんでした…!!
すぐに書けるかと思いきや意外にも難産で…。
でも続きを書こうかどうしようか迷っていたものだったので、書かせていただけて本当に嬉しかったです!
仕事のお気遣いもしてくださってありがとうございますv
これからもよろしければ足を運んでくださると嬉しく思います!